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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

昭和の戦争 たった一度の過ちなのに

2024年08月11日 20時14分46秒 | 日本史
 甲子園球場は大阪府だとずっと思っていたが兵庫県が正解らしい、知らんかった!
さて一昨日は新潟県代表の新潟産業大付属高校が春優勝経験がある埼玉徳栄に2対1の接戦で勝った、新潟代表が初戦突破したのは7年ぶり、
ずっと新潟市、長岡市の高校が代表だった中で、産大付属は中堅都市柏崎市の高校だ、もしかして柏崎市からは初の甲子園代表かもしれない。
石川県代表小松大谷も勝って北信越勢はまず2勝0敗
富山商業は東海大相模との初戦、強豪相手にどんな試合を見せるか。



 局地戦は別として国家間の大戦争はわが大日本帝国は明治以来負け知らず
ついにはアメリカ、中国、イギリス、フランス、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドなど世界の強国相手に戦争を始めた。
中国とは一対一の差しの勝負、精密に言えば一対二、と言うのは中国側は日本とと戦争する前には蒋介石の国民党軍と毛沢東、周恩来率いる共産党軍が内戦状態で覇権を争っていた
そこに日本軍が割って入っていったために、まずは中国人同士休戦をして共同で日本軍を追い払い、改めて戦争をやり直そうと手を結んだ(国共合作)
それだから正確には一対二なのだ。

日本は昭和16年には、すでに中国とは4年近くも戦争状態だった、そこに更にアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの太平洋での戦争を始め
さらにさらにマレー半島を占領していたイギリス、オランダをも攻撃して、一気に三方面戦争という離れ業
しかも16年12月の初戦はどちらにも完勝してしまう。
真珠湾のアメリカ太平洋艦隊は、大被害を被って一年や二年は立ち直れまいと
そしてマレー沖では日本の航空隊がイギリスが世界に誇る戦艦プリンスオブウェールズ、および巡洋戦艦レパルスの二隻を沈没させてしまう
マレー半島ではたちまちイギリスを駆逐、オランダ軍は降伏する、フランスは本国がドイツに占領されて亡命政権となったために戦うことなく日本が占領
これでインドシナ半島と現在のインドネシアの一部は日本軍が大部分を掌握した。 イギリス軍はインドに撤退した。

だが日本の誤算は、清国、ロシアという古代からの大国に勝利したので、新興国家のアメリカの力を過小評価してしまったことだ、おまけに中国での戦争も南京陥落だの、上海爆撃だのと勝利勝利の報道が続いていた
山本五十六などアメリカ通ならばアメリカの巨大な生産力と軍事力を知っていただろうが、多くの日本軍参謀や政治家は初戦勝利によってアメリカなど敵ではない」気分に酔いしれただろう、もちろん国民の多くも大勝利のニュースに提灯行列の大盛り上がりだったらしい。
運動会でもそうだが勝っている時は勇ましい気持ちになり、自分が英雄の気分になる、誇らしくなる。

だがアメリカは真珠湾で破壊された戦艦を修理して復帰させるのに、長くはかからなかった、しかも航空母艦は真珠湾には居なくて全艦無事だった。
それに気づいて日本軍は世界に誇る航空母艦艦隊をミッドウェーに送って、アメリカ海軍を絶滅する作戦に出た
戦争が始まってまだ6か月後の事である、ここで日本軍は後手に回りアメリカ空軍の先制攻撃を受けて、主力空母4隻を失い、帰る船が無くなった航空機も300機が搭乗員もろとも海の藻屑と消えてしまった。
アメリカ軍は空母1隻が沈んだだけであり、アメリカの大勝利だった。
以後、日本海軍は一進一退の戦いを続けたが次第に劣勢になり、レイテ湾海戦では世界最大の戦艦武蔵が沈められるなどの大敗北を喫し、以後よいところなく海軍は衰退していく。
これで太平洋の制海権、制空権を失い、あちらこちらの島に駐屯していた日本軍は各個撃破されるか、無視されて飢え死に病死するかのいずれかの運命となった。
あの羽柴秀吉が得意とした飢餓作戦をアメリカも南方戦線の島々で使ったのだ
アメリカの南方作戦は①制海権、制空権を奪った後に艦砲射撃、空爆、戦闘機の機銃掃射、それから大軍での上陸という物量作戦で需要な島を占領する
②利用価値の少ない島は包囲するだけで攻撃せず、島の守備隊を餓死、病死に追い込む、だいたいこの二つだった。
アメリカ軍はニューギニア、インドネシア、そしてフィリピンを取り返し、台湾は素通りして沖縄攻撃に向かう
西太平洋ではサイパン、グアム、テニアンの重要拠点の島が玉砕してアメリカ軍のものとなり、そこからB29が日本国土の空襲を始めた
更に硫黄島を攻撃して守備隊が玉砕、ここもアメリカが占領するとB29に護衛戦闘機がつけるようになって、日本の戦闘機も容易にB29のそばに近づけなくなった、そのため爆撃精度が高まり、日本の基地、軍需工場などが次々と破壊された
日本にはまだ軍艦や航空機が多く残っていたが、肝心の燃料が不足して迎え撃つことができない、備蓄した燃料は特攻作戦に優先され、残りも本土決戦に備えて隠された。
軍艦は港につながれたまま米軍航空機の餌食になり、戦艦大和も片道燃料で沖縄へ特攻作戦に使われたが鹿児島沖で敵に攻撃されて沈没した。

マレー半島の日本軍は勝ちに誇って、インドのイギリス軍を叩くためインパール作戦を敢行、しかし無謀な作戦計画で逆襲を受けて5万人以上が犠牲となる大敗北を喫した。
日本軍で健在なのは対中国戦線の軍だけであった、千島列島の先、アリューシャン列島のアッツ島など守備隊も攻撃を受けて玉砕したが、キスカ島では奇跡の脱出作戦が成功して守備隊は無事に脱出できた。

沖縄も占領され、日本近海にはアメリカの潜水艦がわがもの顔で動き回り、通過する日本の輸送船などを次々と沈没させた。
またB29は日本の主要都市を無差別で爆撃して一般市民の多くを殺傷した
日本の空を飛んでいるのは90%以上がアメリカの戦闘機と爆撃機で日本軍の反撃は皆無に等しく、高射砲だけが戦ったが、長距離砲がある場所は避けて通るようになったので解散する高射砲隊も出て来た。
日本軍の抵抗は神風特攻隊など自爆兵器のみとなり、もはや戦争の体は無くなった、それでも戦争は終わらず、無為に月日が過ぎ、その間にも南の島では生き残った兵隊が伝染病や飢えで次々と死んでいった
アメリカ軍は包囲するだけで積極的に相手にせず、飢え死にするくらいならと玉砕戦法に出て来た日本兵を機関銃で打ち殺す作戦
国内では都市爆撃で一般市民が殺害された、そしてなおも降参しない日本に対して悪魔の爆弾、原子爆弾を世界史上初めて人間の頭上で爆発させた
そして広島、長崎の二大都市を一発で焼き尽くして20万とも30万という市民を殺した。
それから一週間後の8月15日、ついに日本は天皇陛下の玉音放送をもって連合軍に対する降伏となった。
民間人の犠牲者80万人、兵隊の死者数230万人と言う、昭19年以降の戦死者は飢え死に、病死の割合がそうとう多く、敵と戦っての戦死とどちらが多かったのだろうか? やりきれない。
飢え死にだろうが戦死だろうが死んだ兵隊の多くは手柄を立てて軍人として出世しようなどと思ったわけではない、一般市民が突然の招集令状一枚で強制的に戦場に送られて命令系統の最下位に置かれて、生死までも命令されるままにするしかなかった。
これは今生きている戦争を知らない世代の考えでしかない、実際に戦場に立った人たちは、こんなセンチメンタルな気持ちだったのか、お国の為に憎き敵を殺すと勇ましく出征していたのかわからない。
私が高校生の頃、父は私が戦争を批判すると「おれたちのことを、どうこういうのはやめてくれ」とだけ言った
戦闘の場面に毎日いた人でなければ本当の戦争はわからない、非難、批判するのは簡単だが、それは同じ立場にあった人だけに許されることではないだろうか。
戦場に立てば私の心もきっと変わるだろう、変わらなければ耐えられないだろう、もちろん戦争はしないにこしたことはない
だが敵が攻めてきたらどうする、「お互い平和に暮らしましょう」などと日本語で言ったところで敵は帰って行かないだろう。

明治になってちょんまげを切り落とした日本人は百戦百勝で外国との戦争に勝ち続け、ついにアメリカなどの連合軍を相手に戦争をした
その結果、みじめに負けてしまった、初めての負けであった
日本軍の責任者の多くが海外で逮捕され現地で裁判を受けて、多くが秘密裏に処刑された、日本国内でも東条首相兼陸軍大将を始め軍事、政治の責任者が絞首刑を執行された。
総理経験者の近衛氏は逮捕前に自殺した
国家指導者でさえこれであるから、一般国民を守って占領軍に物申す政治家など皆無であった、国家は一時的になくなったのだ。
そして昭和27年4月に日本はアメリカ占領から解放されて国家として再び世界から承認されて独立した
だが再軍備はアメリカが作った新憲法で禁止された、しかし朝鮮戦争で軍人不足を補うために日本に命じて警察予備隊という名の軍隊を作らせた。
それが自衛隊の始まりである、いまや自衛隊の軍事力は世界でも上位であるが、人数も少なく、核を持つことはいまだに戦勝国に禁じられてアメリカの安全保障下で守られている状態である
それもアメリカの奉仕の精神で守られているわけではない、アメリカには莫大な用心棒代を請求され、言われるままに支払うしかない、まま値切り交渉はしているようだが。
         つづく
*記憶違い、勘違いがあるかもしれませんがご容赦願います。








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (166) 長尾家 79

2024年08月11日 09時43分17秒 | 甲越軍記
 さてこのように景虎の越後平定は都の足利将軍家にも認められ、さらに禁裏の公家衆までもが好を通じてくるほどの名声となった。
しかし越後国内には、唯一景虎に従わぬ勢力が残っている
それは上田の庄(新潟県魚沼郡)一帯を治める有力豪族、長尾越前守房景と五郎政景の親子である。
去る天文六年には景虎と兄、晴景が国内を二分して戦った時、晴景に味方して米山で晴景に見切りをつけて上田の城に引きこもった経緯がある。

景虎は国内が鎮まったことを契機に、長尾越前守にも出府するよう何度も促したが、その都度越前守はこれを無視して、あまつさえ近々兵を挙げて景虎と一戦をして雌雄を明らかにするとの噂まで出て来た。
景虎は、これを聞き、金津新兵衛を使者に遣わした
新兵衛は越前守に向かい「越前守が晴景に味方したのは、元を一つとする同根であり当時の守護代晴景に乞われて味方したのは至極当然の事であった、これは黒田、金津らが私欲のため背いたのとは全く意味が異なるから、このことについて景虎は一切恨みには思っていない
景虎は度々出仕を促したが一度もこれに答えず、しかも戦支度をしているとのうわさまで聞こえてくる、景虎は急ぎ馬を出して罪を責めんとすれども、もともと両家は太い根の同姓同根であれば、わだかまりを捨てて再び好意をもって尋ねたのである、景虎に対して不足の事あれば承る」と言えば景虎の言葉の利を知った越前守は「某も全く疎意はない、ただ近年病勝ちになり出仕を怠っていたのである、戦支度の噂は、長尾家に良からぬ念を持つものの仕業であろう」と陳謝した。
それから出陣の噂も無くなったが、相変わらず越前守は出仕をしてこない、その上、越前守の郎従浅井伊作は主を糾したがために追放され、府内に来て越前守の腹の内を悪しく言ったので、やはり越前守は謀反の疑いありと決して八月上旬に上田の城を退治することに決して、諸将に戦支度を命じた。