神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

抗がん剤治療 現在

2024年08月16日 16時35分44秒 | 病気と健康
 この頃、昼食は麺類+ハムとトマトのチーズトーストがマイブームだ
パンもあまり好きでない、トマトもそれほどでもないが、チーズトーストにして焼きたてを食べると香ばしくてたまらない、麺の他に薄い食パン2枚、まだ当分は続きそうだ。


手術不可能なガンと戦っていると言うのではないので、抗がん剤治療と言う言い方はどうかなと思う、しいて言えば抗がん剤でガン発生予防中なのだ。
ようは、在るか無いかわからないがん細胞を、万一あった場合に攻撃消滅させるための抗がん剤なのである
だからがん細胞の芽がなければ、それはわが細胞と抗体を抗がん剤が無駄に攻撃しているだけなのである。
それはベトナム戦争で、恐怖にさいなまれた米軍の歩兵が民間人さえ兵士に見えて無差別に殺した、あるいは攻撃ヘリがナパーム弾を敵がいるかいないかわからない森林に撃ち込んで焼き尽くしたにも似ている。

だけど、本当に無駄なのかと言えば、それもわからない
もし芽生えつつあるがん細胞があって、それを消滅させたなら、それは大手柄なのだから
ガン細胞が無いとは言えない、一度は5cmにも及んだガンがS字結腸の中で育っていたのだから
だからとやかく言わずに医師に従っているのが一番気楽である
当たるも八卦、当たらぬも八卦、いずれにしても医療素人の私にネットや本を見ただけで何がわかるものか

さてちょうど半分の2クールを終えて、副反応はどうかと言えば
この2回は、最初の一週間は点滴を入れた側の腕の下半分に異常が出る
赤くなったり、神経がピリピリする感覚があったり、そして冷たいものに触れると指先に電気が走る、手洗いも不可になる
喉も5日間は冷たい水など飲むと、チクっとする感覚とひっかかる感覚がある
ふくらはぎがパンパンに張って、歩きづらくなる(但し散歩など歩き出すと平気)私の副反応はこんなところだ、これは一週間ですべて無くなる
残りの2週間は、そんな症状もなく平穏無事に過ごしている・・・が
2~3日前から左腕の肘の内側に小さな赤い発疹が蕁麻疹のように出て来た、まだ多くはないが、病院が出した血行促進、皮膚保湿軟膏を塗って凌いでいる
右腕下部は痒みがある。

普通、薬を使えば使うほど病状は和らぐが、抗がん剤は反対に体が弱っていく
最初私はぜんぜん大丈夫などと言っていたが、経験者は「これからだんだん症状が出てくるから」と言っていた、それも二人
一人は大腸がんで11クールやったそうだ、もう一人は膵臓がん初期で(初期で見つかるのは珍しい)今も闘病中だ
大腸がんの方は抗がん剤投与が終わったが、血管がボロボロになって無理だから胸のあたりに管を埋め込んで、そこから点滴投与したのだと言っていた、「これはいいよ、楽だよ、yottinさんもそうしない」と言われたが、それは医者が決めることで私の場合は4クールと短期だから、そこまではしないと思う。

20日から、第3クールが開始となるが、その前の血液検査の結果がどう出るか
白血球の少なさに医師は注目している、今度の検査次第では休止、あるいは少量延長などに変わるかもしれない

結構お気楽に構えているが、実は抗がん剤はかなり危険な薬らしい
解説書を隅から隅まで読んだら、数多の副反応の他に、してはならないことも書いてある
一番わかりやすいのは投薬中は妊娠行為はダメだという
もし投薬中に妊娠がわかったらすぐに医者に知らせること、すでに妊娠していたなら抗がん剤(私が行っているゼロックス治療)はやってはいけない
ほかの抗がん剤に(何種類もあるらしい)変更する、胎児に悪影響が及ぶそうだ。
また既に乳児を授かっている人が抗がん剤治療に入っているなら、母乳を子供に与えてはいけないと言う
、そのくらい体に負担がかかる薬なのだそうだ
また点滴の抗ガン剤は1クール一回限りだが、体内からすべて抜けるのに48時間かかる、その間は患者の体内からの様々な排出物に健康な人が触れてはならないそうだ、薬効が残っていて触った人の細胞にも悪影響を与えるらしい。
そのくらい危険な薬を体内に入れているのだから、少しは心していないといけない。
いずれにしても、すべては神様と医師にお任せ、それが気楽で良い。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (171) 長尾家 84

2024年08月16日 10時12分22秒 | 甲越軍記
同年五月、神余隼人佐を京都に登らせ、足利家に官途受領の事を願い出た
足利義輝公は内裏に奏上願い出て長尾景虎を弾正少弼に任じ、従五位下に叙せられる綸旨を申し下し、足利家より御祝いとして御内書並びに備前国光の太刀を賜る
景虎は大いに喜び、内裏に御剣一振り、並びに黄金巻絹などを献上した
足利家へは備前長光の太刀一振り、川原毛の御馬一疋、蒼鷹一連、青銅三千疋を進上した、これにより景虎は越後国主と称す。

景虎は国中に遣いを出して、この度、任官の宴を開くので十五日を限って、諸将に府内の城に集まるよう伝えた
諸将は追々、府内に集まったが、景虎は例の十六将には別途遣いを送り、林泉寺を宿とするよう伝えた
そして彼らが林泉寺に収まるを見て、かねてより寺の四方に伏せさせた士卒が取り囲み、直江山城守、杉原常陸介、千坂対馬守が内々野心を秘め、人質を差し出さぬ罪を責めて切腹を命じた
十六将は大いに驚いたが、もはや逃れる術はなく枕を並べて自害した。
今、この地を生害谷と称す。

宴が始まり、その席上で十六将の自害を聞き、集まった諸将は景虎入道謙信を恐れ、これより一人として謙信に首を上げるものなし
しかし人質を出さぬ十七将のうち、只一人景虎の命に背いて府内に来なかった飯沼の城主、飯沼玄蕃頭頼清である
飯沼の累祖、飯沼遠江守頼泰、同日向守政清、同源太頼久まで代々長尾家の忠臣の家であった
特に源太頼久は天文元年の越中滑川の戦で、長尾為景に代わって討ち死にした
その頼久の後室は美色あって傾国の粧あり、その齢いまだ三十に至らず深閨に一人寝で涙を流す日々であれば、見るもの心を迷わさぬ者なし
家臣、波多野玄蕃は後室の艶色に迷い、折に触れて口説き続ければついに貞操を破る
主、源太頼久討死のあと子が無かったので、この玄蕃をもって飯沼の家を継ぐ
玄蕃の性質、大胆にして豪勇の士なり、屋形に従う心無く、長尾平六、黒田の逆徒の乱の時より自立の志あって府内への出仕せず、此度の人質についても出さないので、景虎は使者を送って問いただせば
飯沼玄蕃は「当家は村上天皇の勅命をもってこの地を賜った、代々守護不入の地である、飯沼家に主君などない」と、うそぶくので景虎入道謙信は大いに怒り「此度は少しの猶予もいらぬ、今すぐ飯沼を攻め落とすべし」と言い
直江入道酒椿の子、山城守兼続と黒川備前守に命じて飯沼一族を退治すべきと命じた、山城守兼続はかって飯沼源太頼久の家臣であったゆえに、忠臣の飯沼家を貶める玄蕃に怒りを持っていた。

二将は直ちに飯沼城に攻め寄せたが、飯沼玄蕃は剛勇の将であれば、攻め寄せる府内勢に矢石を放ち、鉄砲を撃ちかけて応戦する
山城守もこれを見て、たやすく攻め落とせる城ではないと一目で見抜いた
ところが城兵の気持ちもまた「この大軍に攻められては、とても持ちこたえるものではない」と恐れ、飯沼三左衛門、同新平、三宅隼人、並びに譜代の恩顧の郎党百余騎、城戸を押し開いて直江の勢の中に無二無三に切りかかる
必死となっての働きはすさまじく、さしもの直江勢も押し返され手負い死人は数知れぬ
直江勢に代わって黒川勢二千余騎の新手が討って懸かり一息にせめたてれども命を捨ててかかる城兵の攻撃に前に進むことできず、後方にて遠巻きに見る。

そもそも、飯沼城は急峻な崖の上に築かれ、少兵で大軍に立ち向かうこと可なる要害である
まして命がけで一致する城兵が守っているため、いつ果てるともない戦になろうかと山城守は思い、所詮力攻めでは味方の手負いばかりが増えるを悟り、搦め手よりの侵入に策を変えた。