神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

抗がん剤治療 緊急 中止

2024年08月20日 17時35分56秒 | 病気と健康
 今日から 第3回目の 抗がん剤治療が始まる、 治療室に入ったら 私よりちょっと年上に見える色の 黒い おばちゃんが いた、 そして 独り言のように「 この部屋に来るようになればもうおしまいだ な」などと言っている
ベッドが10台横並びだ、時間がかかるからテレビがそれぞれにあって、無料で見られるがイヤホンは持参しなければならない
今日は私と、彼女と、年配のおじいさんの3人だけだ

 受付が終わって 血液検査に向かった 、順番が おばちゃんが一番 私が2番 隣同士になった 
病院では 名前 と 生年月日をいわせる それで気がついた、 このおばちゃんは 高校の時の同級生だった 、だけど 2時間の点滴中に色々話しかけられるのも嫌だから 知らん顔していた 
採血が始まったが 若い看護婦は 下手くそで 1回目は 失敗して 2回目は 2本取るところを 1本半で 血が入らなくなったと言って 中止した 
これで間に合うかどうか聞いてきますと言って 奥へ行った 、20分 待たされて 結果は もう1回 1本分だけ取る ということになった 
今度は ベテランの看護婦に 代わって あっという間に終わった 1回で済むところ 3箇所も 針を刺された
点滴治療室に戻って 血液検査の結果が 分かるまで 点滴ができないので 本を読んで 待っていた
 小1時間くらい 待っていたら ようやく結果が出て 担当の外科医が 説明に来た 白血球 赤血球などが 少なく、 白血球は 下限値の 75% 、赤血球は 下限値の 95%、 最も大切な 好中球実数 は 必要数量の 75% ということで 、前回よりも数値が明らかに下がっていた
今回 抗がん剤投与すると 危険な 状態だという 、yottinさんは がん治療ではなくて 予防治療だから 今回は やめても 問題はないということで、 ワンクール 3週間 お休みになった
 予防のために やっている 抗がん剤で 、 命を失うようなことがあっては 本末転倒 だから ということだ、僅かな何でもないような細菌に感染しても敗血症 などの 恐れがあるので 、私も 快諾した
 ある意味 ちょっと ほっとしたところもある この蒸し暑さの中で 抗がん剤治療するのは 少し きついところもあるのだ 
次回は 9月の 上旬 だから 少しは涼しくなるだろう 、ただ このまま帰してもらえなかった 
手術後 まだ 一度も検査をしてないので 次回のことも 含めて CT 検査 してから帰るように言われた 
CT も もう慣れたけれど 今回も 結局 造影剤 を 血管に 1分半 流すので また 注射だ、 ところが またこの看護師も下手くそで 2回 失敗して 3回目で ようやく うまくいった 、ここでも3か所針を刺されて、両手共に絆創膏3つずつだ
造影剤は 副作用ある 結構きつい 薬で 、体が 一気に 熱くなる、 1回目に 失敗したところに 少し 造影剤が 流れたので しばらく そのあたりは 熱かった、 結局 採血と合わせて 6回も 針を刺された 、2回で済むところを6回 だから 「これじゃあ ハリネズミ だ」と 皮肉を言ってやった
気の短い人間だったら 相当なこと言っただろう 、私は平和主義者だから ハリネズミ くらいにしか言わなかった 



これで 抗がん剤治療は 先送りになったので、抗がん剤の 終了も 順調に行っても 3週間 先延ばしだ 、10月まで かかる ことになった 
次回も 検査結果では 中止か 薬の量を減らして やるか あるいは 赤血球などの 数値はが基準値に戻れば 普通にやることになる
やはり ガン治療は 一筋縄ではいかない 、部屋を出る時に 同級生に「おい、Yさん、俺たち高校の同級生だよ」と言って顔を見せた、 向こうはマスクしている私を「 わからない」と言ったが 名前を言ったら「 あー 板前さんやってた人だね 」と思い出してくれた
 彼女も 癌のようで 私よりも 厳しそうだ 、抗がん剤も私より1週間長い3週間やって、1週間休みだと言う
頭の毛が だんだん 抜けてきて もう カツラを 発注したと言っていた、たぶん抗がん剤の種類も量も違うようで3時間くらいかかるらしい(私は2時間)
 まあ元気そうに大きな声で話していたのが 安心材料だが 同級生も かなりの数は 癌に かかっている 
10年以上 元気でやってるのもいるし 亡くなった人もいる「 そんな年頃ですね」 と 打ち解けた 担当看護婦 も 言っていた 全くその通りだ 、70代だからと言って 安心していられない




「舟唄」八代亜紀 高音質 1981年  私と同世代、昨年年末に亡くなってしまった、まことに残念だった

 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (175) 甲越10年戦争 血戦川中島 2

2024年08月20日 07時55分29秒 | 甲越軍記
 武田大膳大夫晴信は去年、村上義清と小県郡戸石の合戦(初編に記す)に武田方の危うきところを山本勘助晴幸の策略で逃れた上に勝利を得たことを、摩利支天の再来と褒め讃えた。

天文十六年二月十五日、八幡宮に社参して回廊にて晴信と勘助は孫子の五事七計、或いはニ五の妙、深々の戦問答あって下向した。

馬場民部少輔景政、秋山伯耆守晴近をもって信州伊奈へ発向させて村上方の砦三か所を攻め落とし、秋山伯耆守を信州郡代とした。
村上義清は、これに備えて幕下の士、楽岩寺右馬介、布下新左衛門尉、依路右近進らに信州海野平の乾、上田筋の北、時田山の東方の険阻な土地に三か所の砦を設けさせた。

晴信はこれを知って、この砦を踏みつぶしたのち村上の本拠保科を攻め落とさんと板垣駿河、浅利式部丞の両将に検使として原美濃守虎胤を指し添えた
三将は海野平に陣を構えた。
板垣駿河守は物慣れたる騎士六十騎を選び、歩卒は一人も引き連れず大斥候として敵陣近くで見届けるべしと命じた
駿河守の甥、萩原余佐左エ門が進み出て、「足軽備えも、弓鉄砲衆も連れずに騎士だけで行くのは甚だ危険なので、今日は先物見の士、一両人にて探らせてはいかがか」と諫言すれども聞かず、騎士を大物見に出立させた
すると荻原が案じた通り、楽岩寺右馬介がこれを見つけて二百余騎を左右に従えてまっしぐらに打って出る
物見の者たちは驚き、徒歩も鉄砲隊も無ければ、ただひたすらに逃げるのみであった
萩原の理屈の同調した原美濃守は、大物見の危うきを心配して十騎を先頭に立てて、自らは畔の陰に埋伏して物見の帰りを待っていたところ、大物見の六十騎、楽岩寺勢に追い立てられて逃げて来た
これを見て敵のまじかに馳来るを一斉に立ち上がって左右から迎え打てば、自ら敵四騎を打倒し、これに続いて同心、下新兵衛も一番に一騎を突き落とす
美濃守、ここで馬に乗り大音声にて味方を励まして突き進めば、たちまち敵二十七騎まで突き落とした
楽岩寺勢は、この勢いに押しまくられて少しためらうを見た大将の楽岩寺右馬之助は敵味方の間に割って入り、軽々と勢を引き上げた。