神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

平和な時代、動乱の時代

2024年08月26日 19時24分32秒 | 日本史
 日本国の凡そ1500年の歴史を見ていくと、海の波の如く動乱と平和が繰り返されているのがわかる
太古の事は古い書物でしかわからないが、実否あれども、それに従うしかないが、大化の改新までは帝の強権の時代で治まっていたかと思われ、大化の改新は最初の動乱だったのだろう。

以後、藤原氏を中心に300年の平安の時代は、為政者の内部抗争があったとしても平和で文化的な時代だったのだ、そして朝廷に馬牛の如く仕えていた武士が天皇家の血筋に混じってくると動乱の時代の幕開け。

我が世の春を謳歌した平氏も、「奢れるものは久しからず」で源氏の仇討ちによって滅び、続いて源氏も三代で滅び、頼朝の女房方の、前北条氏が仲間内の内部抗争という動乱を勝ち抜いて長期政権を作り上げた
そしてまた、しばし100年余の平和の時代が訪れた

北条は天皇をも島流しにする横暴を行い、それはやがて尊王の武士団の目を覚まさせ、三度動乱の時代に突入して、北条氏を滅ぼして朝廷政治に戻した・・かに見えたが、この乱の最大の功労者、足利尊氏のまさかの反乱で新田義貞、楠木正成ら尊王武士団との間での内部抗争が始まり、南北朝の動乱、天皇政治は束の間に終わる、足利家も兄弟の死闘を経て室町幕府が誕生して、また京都を都とした華やかな室町文化が花開き、今に伝わる金閣、銀閣など多くの寺院が興った
大国、明との貿易も盛んになり足利義満は明に従った形式の中に実をとった。

平和な時代がまた70~80年ほど続き、巨大化した足利幕府の執事、守護大名同士の間で応仁の大乱が始まる、それは戦国時代の引き金となって250年にわたる日本史最大の動乱の時代に突入した。

250年かかって、ついに徳川家康によって永久の平和が訪れた、江戸時代は平安時代にも劣らぬ250年近い平和な時代をもたらした
250年の動乱のあとに、250年の平和が続いたのだから、まさに神の悪戯とも思えてしまう
しかし徳川政治は外国の黒船が砲艦外交に訪れて揺らぐ、またしても平和は破られ動乱の時代へと入る
アメリカ、天皇と公家、徳川家、攘夷と平和外交、尊王と佐幕、尊王大名が複雑に絡み合い、京の都は血で染まり、徳川幕府に引導を渡した鳥羽伏見戦、江戸開城、奥羽越列藩同盟を打ち負かし、北の果てで最後の抵抗を鎮めた函館戦争を経て明治維新を完成させた
これは武士による封建時代の終焉でもあった、帝国日本を誕生させた明治新政府は急いで日本を欧米風に改造を始めた
髷を切り、刀を廃し、幕藩体制を中央主権国家に改め、大名政治は中央政府から送られた県知事が取って代わった
しばし西郷らの内乱が勃発したが、それでも欧米風のモダンな新時代、平和な時代に突入した
明治時代は初めて大規模な外国との戦争(日清、日露)もあったが、外国が戦場でしかも内容は別としても勝ち戦だったから、国内平和は続いていた
国内は平和であったが、東アジアは動乱の時代に突入していた
そこに日本の軍隊も加わり、北京の55日、義和団の乱では日本軍が最大の兵を送って鎮圧に貢献した
これは欧米の軍隊に日本帝国も組しての軍事行動であった、これによって中華大陸に270年根を張った満州族国家、清国は滅びて、中国は欧米、日本帝国によって重要な港や都市を奪われてしまう
清国滅亡後、解放された漢人たちもまた各地で軍閥が誕生して群雄割拠の様相になった
日本国内は平和が続き、周辺の朝鮮、中国は動乱となっていた、そこに日本も加わっていたのだ
第一次世界大戦でも日本は国内は平和なままで、勝利した連合軍に加わっていた日本は、棚ぼた式に南洋諸島の管理権を得る、朝鮮国を1910年に併合して朝鮮半島を手に入れ、日露戦争で樺太半分と千島列島を手に入れ、台湾も統治と日本史上最大の国土を得たのである、まさにわが世の春であった
世界の5大大国に列したと言う錯覚、日本軍は最強という錯覚を軍や政治家だけでなく連日の報道に国民も錯覚したであろう。
そして中国北部で関東軍が動き出す、内容は書かないが満州と言う日本本土の何倍も大きな大地を支配した関東軍は自由奔放に活躍する場を得たと思われる
内地の政府や軍をも小さく感じたのではないだろうか、ジンギス汗の気分?
ついには中国全土を手中にしようという野望もうまれたか?
これが自ら引き起こした、動乱の幕開けだった
今までの動乱は日本人同士によるコップの中の波だったが、今は世界列強を敵に回した大海原の大波となった
昭和16年12月8日、日本帝国は悔いても悔いきれぬ大動乱を自ら引き起こした
得意の絶頂にあった明治維新から今日までの70年ほどの平和を経て、またしても動乱の時代に突入した
この動乱は4年足らずで終わったが、日本は主要都市のほとんどを焼かれ、人類史上最悪の非人道兵器を二発も人体実験的に受け、原爆と東京大空襲だけで非戦闘員の民間人30万人以上が一瞬にして殺された
全体では軍人、民間人あわせて350万人が死んだ、日本史上初めての外国との大がかりな戦争と云う大動乱で、日本国、大和民族2000年の誇り高い姿は消え去った。

だが、あれから70年日本は復興して世界でも稀な平和を謳歌している、一度も内外の戦争に参加せず、軍隊も無くなって徴兵もない
占領軍アメリカをバックにして、自衛隊と言う志願兵だけの組織が国土を守る。

動乱の時代には必ず英雄が雨後のタケノコのように現れ出でる
大化では蘇我氏、中臣氏、中大兄皇子などが
そして源平から徳川家康まで英雄は数多誕生した
明治維新には西郷、勝、坂本、新選組などを始めやはり百を遥かに超える英雄が出た
敗戦直後にも吉田茂、白洲次郎など魅力的な人物が登場する
平和な時代には英雄が出現することは稀だ、だから今日の自民党総裁選と候補をみれば未だ日本は平和なことがわかる
ヒットラーやレーニンのような者が出てくる時代は動乱の始まりなのだ
そう思えば大東亜戦争や太平洋戦争は、さしたる英雄も出てこなかった日本に
於いて、どうして誰が戦争を導いたかわからない?
神、天皇陛下を騙り戦争に導いたものは個人でなく政治家でもなかった、軍人さえもこれという人がみあたらない、世論が米英蘭との戦争を始めさせたのだろうか?
まだ生まれていない私にはわからない。

この先、この平和がどれだけ続くのかは知らない
明治維新後の平和は70年で終わった、今の平和は80年だ
平安時代、江戸時代は250年の平和が続いた、だが今はグローバルな世界、鎖国的な平和環境にはしてくれない
常に国際関係の天秤の中で生きている、敵も隣の豪族や大名ではない、国家を上げての戦争になる、負ければ国を失い、屈辱的環境で生きていくしかない。
我が国はたった一度の経験で意気消沈している、異民族の集合体で隣に国境線がある欧州は、2000年の間にどれだけ国境が変わり、滅んだ国や民族の数も半端ない、それが欧州人の日常、一度の敗戦で打ちのめされた日本人に、千数百年も国を失い世界を放浪したユダヤ人、イスラエルの事情は分かるはずがない
イスラエルとパレスチナの問題は長い歴史の中から起こっている、ずっと島国に閉じこもって平和だった日本人には理解できないと思う
日本人ももっと強くなるべきだと思うが、これが日本人の良いところかもしれない、世界の中で日本人は特別な歴史を刻んできたのだから
そして日本よりも何倍もゆったりとした時間を過ごしてきたのは中国人だろう
国家の危機にあっても、国を外国に奪われても動じない大国が中国だと思う
日本人は今日明日を思って騒ぐが、中国人は百年、千年で動いているように思える
中国の習近平とロシアのプーチン、日本の岸田総理を比べてみると国民性が見えて面白い、習近平はおっとりとして動かざる風情、プーチンはいつも苛立っているように見える、岸田総理は落ち着きがない。

例え話を大先輩に聞いたことがある、中国人が毎日海に数個ずつ石を投げこんでいるので聞いてみた、「いったい何をしてるのか」と
中国人曰く、「毎日石を投げこんでいれば、いつかあそこに見える島まで陸続きになるだろう」と
勝海舟の「氷川清話」を読むと、勝海舟が見事に中国人と日本人の違いを見抜いて面白い。
「平和よ永遠なれ」は難しい。








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(181) 甲越 川中島血戦 8

2024年08月26日 10時50分48秒 | 甲越軍記
 海野平に着陣した長尾景虎は宇佐美駿河守と軍議を行い、備えを龍の丸備えとして、先陣には長尾越前守政景、(景虎の姉婿)、吉江織部、同備中守、佐々佐渡守、中条梅坡斎、二の備えには柿崎和泉守景家、直江山城守兼続、大関阿波守親益、柴田、芋川、安田上総介、三陣は大将景虎の旗本、甘粕近江守景時、上田修理進景国を旗本の左右に備え、これに続いて甘粕備前守、鐵上総介、和田喜兵衛、四陣、村上左衛門義清に信州勢これに従い、高梨播磨守宗景、色部修理亮長実、島津左京進隆久、井上兵庫介清政、五陣、古志駿河守秀景は旗本より五、六町引き下がって備えを立て、荷駄奉行には本庄越前守長繁、同清七郎
そのほか宇佐美駿河守定行、山本寺宮千代丸、斉藤下野守朝綱、加地安芸守、同右馬丞、色部一子、山村若狭守、同右京、北條丹後守、竹俣三河守を始め越後の勇将ら威風堂々と備えたり
景虎は諸軍に令して曰く、「一手限りの合戦は、わが家の法である、進むとも退くとも、他の諸将は力を合わせるべからず
二陣の柿崎らの六将は先備えの戦将が軍を破ってのち一同に進みかけて乱戦を成せ、我はこの時に乗って晴信の旗本に急に攻め討って有無の一戦を遂げん
旗本の備えたる甘粕、上田はわが軍が進もうとも少しも勢を動かしてはならぬ、備えを堅めて敵の進み来るを待て速やかにこれを討つべし
竹俣、色部、山村は横合いより敵が来たときに奇道より進んでその敵を討ち散らせ、荷駄奉行は遥かに下がって陣気を上げよ、万が一軍危うく先手が敗れ政景が討死するならば柿崎和泉守はこれに代われ」と厳重に下知した。

すでに十月九日午の刻、武田方の先鋒小山田備中、長尾方の先鋒、長尾越前、両陣互いに押し出し金鼓を打ち、鬨を上げて鉄砲一斉に撃ちかける音、天地に響き渡りすさまじく、矢は雨が降る如くに両陣晴れの戦であれば互いに一歩も引かずどっと喚いて突きかかる、四角八面に戦うありさま、いつ果てるとも知れず
武田方には小山田の組下小林三弥、一番に飛んで入り向かう敵を叩き伏せ首を掻いて引き返せば、長尾方には越前守の組下、宮田権左衛門真っ先に攻め入り、敵を突き倒して首を取る
これを双方の一番首とし、小山田勢先鋒衆先を争い死を潔くせんと討ちたてれば、長尾越前守の先鋒も我劣らじと踏み込み、穂先を揃えて挑みかかる
血の波を蹴立て、手を砕いて打ちあう形勢はまことに激しく、小山田勢は打ち負かされて崩れる
備中守は苛立って「甲越初めての戦なるぞ、後れをとって後代まで名を汚すな、無二無三に攻め込んで切死にせよ者ども」と馬を乗り回して下知すれば
剛兵なれば、これに励まされ死人を踏み越えて声を上げ死力を尽くして攻め立てれば、こんどは長尾勢が劣勢となり二町ばかりさっと引く
長尾の二手に控えている直江山城守、柴田、柿崎和泉守、安田上総、甲州勢の左に回り小山田左兵衛の備えに打って懸かる
槍先鋭く、白刃の光は電光閃くが如し、激しき事、獅子の怒るがごとく
東西に駆け巡り、南北に首を取りあう激しき攻防となる


この頃の事、あれこれ

2024年08月25日 20時08分28秒 | yottin日記
 今日は実に一か月ぶりに、日中雨らしい雨が降った
それに加えて雷も鳴り、ずいぶん近いところに二発も落ちて地響きがした
遥か昔、家の近くに雷が落ちて、電線に入って走り、50mほど下の家の中に入り込んでテレビを破壊した
あれがずっと頭にあって、雷が近いとすぐにテレビとパソコンの心配をしてしまう。
まあ今日の雨も長くは続かず、30分も降ったのだろうか
ちょっと迷ったが、やはり朝に畑の水まきをしておいてよかった
わが地域は、こんな具合で雨が足りないくらいだったが、新潟市辺りではかなりの雨騒ぎに、なったようだし、長野県の信濃町から中野までの間は、上信道が交通止めになった。

キューリも、トマトもいよいよ終わったようで、大部分の蔓を切った
本当はきれいにやってしまいたかったが、今年は蒸し暑すぎてとてもやる気にならない
夏の始めは蚊がうるさくてやる気がなかったし、暑すぎて蚊が居なくなったけれど、蒸し暑くてやる気なしだし、いったいいつになれば畑が片付くのだろうか。

珍しく夏の前から蜂が我が家のサンルームの上角に巣を作り始めた
見つけた時は、ホンに小さな5cmほどだったが、数か月たった今は20cm位にまで広がった
巣の形状から見てスズメバチではなさそうだから、軒下を貸してやったのだ
その恩義を感じているのか、畑にいるとたまに近くにやって来ても、知らん顔してどこかに行ってしまう
足長蜂だと思うが、定かではない、私は蜂とは比較的相性が良くて近寄ってきてもこっちも無視するから刺されたことは無い
小学生、中学生の頃はけっこう近所にあしなが蜂が巣をかけていたから、それを竿で落として中の蜂の子を食べたりしたものだが、この頃はスズメバチや熊蜂、蜜蜂ばかりで、あまりあしながを見ない
ホタルも近くの田んぼに居たものだが、今はちょっと田舎の方に行かないと見ることができない
時代と共に、昆虫の生態系も変わっていくんだな。

あっさりと


ザ・スパイダース:サマー・ガール

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(180) 甲越 川中島血戦 7

2024年08月25日 09時30分59秒 | 甲越軍記
 長尾景虎が軍を整え、信州に侵入して戦を始めたことは次々と甲府に伝えられた、武田晴信もこれまでとは違う新たなる大敵を認め、急ぎ軍を整えて北信濃へと発向する。
十二日には甲府を発ち、十六日には信州小室に至る、十九日には一戦交えんと海野平に陣を敷いた
晴信は山本勘助、小幡織部正、原美濃守を呼び、「景虎未だ十八歳と言えども項羽をも欺く勇将と聞く、今日の戦いは必定十死に一生の戦となるべし
大事なる合戦であるから、汝ら三人は斥候に出て敵情をつぶさに調べて報告あるべし」と命じた

三人は敵情を細かに調べて大将晴信に伝えた
勘助は「敵の備え速やかなる中に濁りと申すものなり、初めての対戦なれば厳重に備えてわが勢の動きを監視して、その動きに合わせると見えます」
原、小幡も同様に見ゆると申し立て「敵の人数は六千余り、されども余の敵と違い合戦御大事と候らえば誰にても遣わされるべきかと」と言う
三将立ち退いた後、勘助をまた招き備えの意見を聞き、備えの商議をおこなった、勘助は密かに備えの立ち、利害を説き、「景虎はいかなる勇将であれ、味方は一万五千余騎、今日丑の刻まで動かざれば味方の吉刻となり申す、されども味方は勝とは思わず、負けざる術を用いれば敵は次第に弱って、味方は行く末勝利となりましょう」と伝えた
晴信は「汝が意見はどれも理に適っておる」と褒め称えて、「されば陣立てを申す」と諸将に命じた
陣を鶴翼に構え、先手右は小山田備中守、信州先方、相木市兵衛尉、望月甚八、芦田下野守、友野、平尾、岩尾、耳取、依路、平原
先手左は郡内小山田左衛門尉、信州先手は長窪左衛門尉、小曽甚八、塩尻五郎左衛門、福沢、内村など
中の先手は、栗原左衛門尉、信州先手は須田淡路守、室賀、綿内、井上なり
旗本の前備えは、真田弾正忠、丸子、屋澤、次に旗本の右、五丁ほど隔てて、飫富兵部少輔が蜂矢の陣形にて備え、旗本の前後は、馬場民部少輔、内藤修理正、日向大和守、勝沼入道、穴山伊豆守、武田典厩の六軍は本陣の後より弓手の方へ雁行の備えにて、原加賀守は九十騎を率いて引き下がり後ろの備えとする

***********************************
ここより「甲越軍記」三編の第一となるところだが
編者の速水春暁先生は都に於いて亡くなってしまった
既に三編に及んだが、未だ完成を見ず、その遺稿を南里亭其楽に託す

文政八乙酉中秋望夜 南里亭其楽

***********************************
(yottin ようやく武田信玄と上杉謙信が相まみえる段になって編者が突然亡くなった、幸いに後を任される人物あって、「甲越軍記」は続いていく
最初の編者、速水春暁は江戸時代の軍記本、武田家を記した甲陽軍鑑を主として、これに長尾家を記した北越太平記を加えて編纂したのが「甲越軍記」である、この編纂は明治に近い江戸時代後期に行われたものである。
以下は南里亭其楽の編となる)
***********************************

足利将軍、足利義政公(室町幕府6代将軍=銀閣寺を造営)の頃より幕府の力が衰えて、ついには応仁の大乱が勃発して、以後戦国時代へと入っていく。
大永、天文の頃いよいよ天下は乱れた麻の如く群雄割拠、下剋上の争いが日本全国でおこった。
そんな群雄の中でも特に甲斐の国、武田大膳大夫兼信濃守源朝臣晴信入道信玄と越後の国、上杉弾正少弼藤原朝臣景虎入道謙信の両雄が名を轟かせた。
武田晴信は幼名勝千代、父左京太夫信虎、大胆不敵にして暴虐超過を見かねて老臣らと信虎を欺いて駿州の今川家に押し込めて、これを廃す
晴信、時に十八歳、武田家の家督を継ぐ、天性英雄俊秀ゆえに家臣、穴山、甘利、小幡、小山田、板垣、飫富、原、内藤、馬場を始め、累代の勇士晴信を助け、慕い集まる者多し
中でも山本勘助晴幸、真田弾正忠幸隆を得て軍議ますます研究し、戦えば百戦百勝なり、その勢い朝日が昇る如し
天文十二年、剃髪して信玄と号し、武田大膳大夫兼信濃守晴信入道法性院大僧正機山信玄と号す。

上杉景虎、本性長尾、幼名虎千代、喜平治、後平三と号す
父、信濃守為景、越中にて討死のあと、兄弾正左衛門晴景、惰弱乱行の為、国の危うきを察し、晴景を攻め討って天文十六年、長尾家を継ぐ、時に十八歳
性質智勇抜群な上に、古志、宇佐美、加地、杉原、安田、高梨、直江を始め、勇猛の士これを補佐し英名四隣に振るい天文二十年弾正少弼に任じ、管領職並びに上杉の姓を屋形民部少輔憲政より譲り受け、同二十一年剃髪して入道謙信と号し、永禄四年上洛して将軍足利義輝公に謁見する、輝の字を賜い、網代の輿を許され、管領上杉弾正少弼輝虎入道謙信と号す

時に天文十六年、武田晴信二十七歳、長尾景虎十八歳、両雄初めて干戈を交えてから十五年の接戦、中にも川中島の合戦は今に至っても人の口に美談として伝わっている。
この両雄の矛盾の始まりは、武田と村上の国境の争いにより、敗れた村上義清が越後に逃れて長尾景虎を頼った時から始まる。



パリオリンピック 私が選んだ日本選手MVP

2024年08月24日 18時43分58秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ
 今頃になってパリオリンピックってどうかと思うが、全然期間中は触れなかったので書いてみる。
私の周囲ではあまり話題に出なかったパリオリンピック、女房殿がやたら見ていてバレーボール、卓球、柔道に目を凝らしていたのが不思議で印象的だった。

テレビ画面のパリオリンピックが、パラリンピックに見えたのも印象に残った
さて競技だけれど、日本は海外開催最高の20個の金メダルを獲得して、全体でもアメリカ、中国に次いで3位と大健闘した。
2021年国内開催となった東京オリンピック(正式には2020年だがコロナで順延)での27個に次いだ。
強豪のロシアがドーピングやウクライナ侵攻のペナルティで参加を拒まれている
平和の祭典としてクーベルタンが提案開催されたオリンピックであるが、世界平和への目標は達成されていない
それでも日本選手と中国選手が健闘を称え合ったりする姿にはオリンピックらしさを垣間見る
こんな素晴らしい平和の祭典を人間は演出できるのに、開催中でも戦争が継続されている現実をどう考えるか
ウクライナの選手とロシアの選手の対戦は実現しなかったが、もし実現したとしたら選手同士の胸中はいかなるものであっただろうか
国家間のいさかいを意識したか、それともアスリート同士としての正々堂々を実践したか?
サッカーなどではかって国民感情を爆発させてラフな試合を行うこともあった、それは兵士の姿であってっスポーツマンの姿ではなかった
本当は敵対国とか仮想敵国なんてなくて、人と人の付き合いをすることが理想だが、人間のレベルはまだそこに至っていない
個人と個人は称え合えるのに、国と国になると平気で殺し合う

話を戻す、今度のオリンピックで日本選手は様々な競技で活躍した
皆さんも、それぞれのヒーローをもっているだろう
私が見た今回の大会での意外な競技でのメダリストたち
金フェッシングフルーレ団体、銀フェッシングエペ団体、銀ヨットセーリング、銀近代五種佐藤大宗選手、銅馬術団体 銀水泳飛び込み玉井選手メダル、金ブレイキン湯浅亜実選手
初の種目、数十年ぶりというメダルなど大会前に期待度があまりなかった(失礼)それだけに感動ひとしお

期待通りの活躍をしたのが、金、やり投げの北口榛花選手、強敵並み居る中、一投目で金を掴んでしまうとは
金、体操男子団体、世界王者中国を破っての金は最高に価値ある
レスリングは男女とも金メダル4個ずつの8個は競技中で一番だった
スケボーはお家芸になった、金メダルの吉沢恋選手、堀米雄人選手すばらしい
卓球も世界最強の中国相手に頑張った、ゴルフの松山選手もトップクラスながら敵も世界ランクの上位常連が数多、その中で18番まで金銀を争っての銅メダルは立派だった
柔道は期待が大きすぎたのか金メダルは3個にとどまった、そんな中でも阿部、角田。永瀬選手は期待通りの優勝を果たしてくれた。

パリオリンピック日本選手の中で、私が選んだMVPは女子マラソンで最強のケニア、エチオピアなどアフリカ選手、あるいはアフリカ系選手の中に、白人選手もアジア系選手も脱落した中でただ一人日本人の鈴木優花選手が40kmまでメダル争いに絡み、最終的には6位入賞したのがパリ五輪、私のMVPだ
男子マラソン赤崎暁選手も自己新で6位入賞、これまた天晴だった。
鈴木選手は国内でもほぼノーマークだっただけにまさかオリンピックでここまでやるとは思わなかった、しかも全選手の中で最年少だった
過酷な35km過ぎの急で長い坂道は、角度も箱根5区山登りよりきつい、それを喰らいついて登り切ったのは感動であった。
優勝者ハッサン選手におくれること僅か1分少々、3位とは52秒差の自己新記録2時間24分2秒
2位は世界記録保持者のエチオピア、アセファ選手が1位と3秒差でした
アセファ選手と鈴木選手の最高記録は約13分も違いますが、マラソンのタイムは競技場で行われる短距離走と違い、道路状況、天候、気温、体調、アップダウン、自然環境など様々な要素が絡み合うので持ちタイムは「早い選手、遅い選手」くらいの目安でしかない。
鈴木優花、おっとりした感じは冷静にレースを分析する能力の表れ、オリンピックで金メダルを獲った高橋尚子、野口みずきに次ぐ選手の予感がする
海外での高地トレーニングが実を結んだ、これからもアフリカ勢に負けぬ心肺機能を磨けばレース駆け引きの旨さはピカ一だから、次のオリンピックで金メダル獲得も夢ではない、頑張れ!

男子も2時間切りまじかの元世界記録保持者ペゲレ選手、オリンピック2連覇で3連覇を狙ったキプチョゲ選手も中盤までに脱落したほどだから、まさにマラソンは一発勝負、その日最高の状態の選手が勝つ競技なのは長丁場のゴルフに似ている。

35km付近





速報 ビックリ! 大谷満塁サヨナラホームランで40-40を達成

2024年08月24日 14時08分06秒 | 野球
 今日この日、この時間に生きていてプロスポーツの歴史に残る大記録達成を見ることが出来た、それもMLBで日本人が達成した大記録
100年を遥かに超えるMLB史でも僅か5人しか達成できなかった40本塁打40盗塁の記録を、大谷が同日同試合の中で同時達成、しかも9回裏、満塁サヨナラ40-40&史上最速129試合(出場126試合)での達成(これまで147試合が最速)はというおまけつき。
まだ33試合残っているから史上初と言う45-45は射程内、誰もやったことがない50-50もいよいよ視野に入って来た
実際のところチャンスに弱い大谷に私は「せめて内野越えのヒットでサヨナラを祈っていた、それがまさかのサヨナラ満塁ホームランとは
これが超人たるゆえんであろう、記憶に残る記録をさらりとやってしまうのが凄い
ジャッジが4試合連続ホームランで 49号、打率も.333 打点119で現在二冠+打率2位に仰天していたばかりだが、この大谷の偉業で吹っ飛んだ
これでア・リーグMVPはジャッジ、ナ・リーグMVPは大谷にほぼ決まりかな。
試合は3対7xでドジャースが勝った。

NHKより

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(179) 甲越 川中島血戦 6

2024年08月24日 08時25分30秒 | 時代検証
 上田原の戦に敗れて退いた村上義清は、退路を断たれて城に入ることが出来ず
そのまま峠を越えて山中に入り、北を目指して越後に落ち延び越後府内に入り、長尾景虎に対面した
義清は「某は十年にわたり武田家と戦いを重ねてきたが、去る二十四日上田原の一戦で、敵大将武田晴信と一騎打ちを行った、晴信の近臣がわが馬腹を突いた為に落馬して鼻を打ち目がくらみて討ち死にとなるところを、わが郎党馳せ参じて助け、換え馬に乗り次いで窮地を出した
されども居城葛尾には入ること能わず、腹を掻き切らんと思えども、死は安し生きるは難じと思い、ここまで来りて候なり
公の父祖とわが先祖は代々武威を争ってきたが、義清、今日は恥辱を忘れて降を請う、公の英雄の名声は天下にとどろき、某の心中を察して今一度、葛尾に帰住するを叶え給われば大いなる幸、莫大な厚恩を賜ることになります
越後にある某の領地も返し奉らん」と頭を下げて頼むを見て、景虎は村上を哀れと思い、上田原の合戦模様をしばし尋ねてから
「御言葉、まことに痛ましきなれ、某の父、信濃守為景は加賀能登越中の間に、数年合戦を挑み、武威を示したけれども越中に於いて不慮の討死を遂げた
父の孝養の為、越中の敵を討ち、加賀能登越前を始め、東国を幕下につけ、帝都に上洛して、将軍義晴公に謁し天下の権を掌に握り、武名を四海に残さんと思う
しかし、某今年十八歳、若年なれど、某を頼み思召すとの一言、黙視できず越中攻めはひとまず差し置き、この上は晴信と一戦交えて公を更科に帰国させ申さん」と熱く語った。
そして、晴信の軍立ては如何なるやと問えば、義清は景虎の信義の熱きことに恩を謝し、「某は数年、晴信の父、信虎と戦ったが、甚だ強き矛先であり天晴なる豪傑の勇将でありました、されども晴信は、その父、信虎にも勝る大将にて、武略に長じて、軍を大事と心得、そこつの働き無く、勝てばいよいよ慎む者にて候」と言う
景虎はしばし話を聞き「さては晴信とは人数の扱いうまく陣法をもって勝つと見えたり、我まずは信州に打ち出て試しの一戦を挑み、敵の奇術を確かめん」
先と申す
先陣は長尾越前守、二陣は直江山城守、古志駿河守、柿崎和泉守、安田上総介、そのほか宇佐美駿河守をはじめ、越後の勇将を引率して其の勢は六千余騎
十月九日、府内を出て信州に押し出し、敵国を放火して勢い大にして民郷を侵し、所々に狼藉をおこない、従う者は恩をもってなづけ、城に籠って出てこぬ者は無視して少しもかまわず、これ味方に降らすための謀りである。









ボケの始まり? 老化現象? 暑さのせい?

2024年08月23日 18時57分25秒 | yottin日記
 昨日わが町は、この夏最高気温を記録した36度に近かった、そして今日はもっと暑いとの予報だったが、やはり暑い
暑くて何もできないから家ごもりだ、それでも今日はドジャースの試合が無かったので病院へ行く気になった
水曜日午前に皮膚科へ行ったら午後からだけだったので帰ってきたことは先日書いた
それで金曜の今日あらためて10時半に行ったのだ、皮膚科はわりと患者が少なめなので10時半だとわりとすんなりやってもらえそうなのだ
そして行ったら、産婦人科、外科、眼科などはまだ十人くらいずつ待っていた
しかし皮膚科は誰もいない、嫌な予感がして行って見たら、今日も午後からだった、「え~~」と心の中で叫んだ
水曜に見た時は、午後は水曜だけだと思ったが、見間違いだったのか
仕方ないから帰って来た、今日も35度の猛暑の中、わざわざ行ったのに・・・

そうそう思い出した、これに似たことが一か月前にもあった、これが老化現象というものなのか。
あるスーパーは木曜日が割引ディなので、行って買い物をしてセルフレジで精算、ところが画に割引のボタンが出てこないので店員を呼んで言った
すると「今日は水曜です、割引は明日です」「は~;」
頑張って、いつもの3倍買ったのに
それで翌日、また出直して、またいつもの3倍買ってセルフレジへ
それなのに、またボタンが出ない、また係を呼び出して「割引ボタンが出てこない」と言ったら「割引ディは昨日でしたよ、今日は金曜日です」「たら~😂 」  木曜日はどこへ行った?




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(178) 甲越 川中島血戦 5

2024年08月23日 09時15分11秒 | 甲越軍記
(yottin評 武田晴信(後の信玄は甲斐(山梨)の守護大名で、長野県を佐久地方から侵略して、中山道も北上して諏訪を攻め滅ぼし、佐久からは上田地方を狙って、信州でも一二の豪族、村上義清と上田で戦いを始めた
諏訪からは塩尻峠を越えて松本平を狙っているが、松本には信濃守護の名家、小笠原長時が強敵である、武田はオール山梨であるから結束が固く命令系統も統一されていてプロ集団である、一方信州勢は個々は強いけれど、皆おやまの大将で結束できず、個別では兵数で武田に太刀打ちできないから次々に打ち負かされてしまう、これが今にも続く盆地だらけで個別の経済圏で生きる信州の県民性である、因みに越後新潟県も信州同様広くて群雄割拠していたが、長尾景虎という武田信玄に負けないカリスマが現れたために統一された、そう言う意味では信州にはカリスマ豪族が現れず、互いにけん制し合ったために武田に併合されてしまったのである)

 村上勢は 武田家の 重臣 宇佐美駿河守を 討ち取って大いに意気が上がった さらに 勇み立ち勢いを盛り返さんとするところに 武田家の二陣飫富(おぶ)兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)、小山田備中守、同 左衛門尉 、武田典厩 (てんきゅう=晴信の弟)これを見て総掛かりで 村上勢に 立ち向かう
武田勢の精鋭 勢い強く 村上勢は再び切り崩された ここに大将 村上義清は味方の二百余騎に屈強なる 歩兵二百人を添えて これに武器を持たせ一騎に 一人当て従う、 戦となれば槍を 主人に渡すべし、 また力ある足軽 百人に 長身の 槍を持たせ義清の馬の前後に進ませ精兵百人に矢を竹エビラに背負わせ また足軽 50人に鉄砲を持たせ、弓隊と鉄砲隊は 助け合い 相互に それを放つ 都合六百余人 味方の敗走を横目に見て 晴信の旗本めがけて進み出た
弓隊には 敵を弓の的と見立てさせ 一矢も外すべからず 鉄砲隊には 三発撃ったなら 刀を抜き騎馬に従って槍脇を固めよ、騎馬隊は敵の騎馬に向かって突き進み 敵の馬をついて敵を落馬させよ ここを墳墓として 命を惜しむな敵を 絶滅させよ と二つの目玉 血に染めて 兵に伝えれば みなみな必死の 形相で武田方に攻め込む この勢いに武田方の第二陣といえども これに討たれる者多く たちまち崩れて敗走となった 
村上勢が本陣に進み来る中 晴信は「敵に後ろを見せるな 討ち死に を心がけよ一歩も下がるな死力を出して戦え」 と叱咤激励するが 村上の勢いは ますます激しく 武田方の手負い増えて 再び 切りくずされた
ここに後ろ備えの 馬場民部少輔、内藤修理正が 備えを押し出し横筋から突きかかり両将、兵に下知し「君の御大事 この一戦にあり 討ち死にして恩に報いよ」と叫ぶ、 自ら大身の槍を引き添えて 東西に馳せ、南北に駆け三度合わせ兵士らも 心を一つにして戦えば、村上勢は勇ましく戦えども 敵の新手に当たりがたく、 乱れたて 見えたけれども 大将 村上義清は勝敗に目もくれず 晴信の 首を取んと八方に目を配り、敵中に割って入り 探し回れば 遥か彼方に大将晴信とおぼしく 卯の花縅の鎧に 諏訪法性の兜をかぶり 黒き馬の太く逞しきに金覆輪の鞍おかせ、紅の厚房をかけてうち乗り士卒を 下知してあるを見て、すわ時は来たり大将義清高らかにうち笑い、真一文字に 切ってかかる 
大将 晴信 心得たりと 同じく太刀を向き合わせ ちょうと 受けてはっしと打ち二人が太刀打ち合うが 双方ともに高名の名刀なれば 勝敗はつかず その間に 晴信の 馬廻りが驚いて集まり、窪田助之丞槍を上げて義清の馬の首 ただ一突きにした 、たちまち 馬は立ち上がり 横に倒れれば大将義清たまらず 真っ逆さまに 落ちたところへ 村上勢十余騎 歩兵五十騎 余り集まり大将義清を馬に 助け乗せ村上勢ここに引き退く
この時、脇備えにあった 真田弾正忠 、諸角豊後守、浅利式部丞は 敵の 逃げ道を早回りして大将義清を 討ち取らんと 坂城の道を塞ぎ待ち構える
大将義清らは城への道を塞がれ城に入ること叶わず、 命あってこそ いつかは この屈辱をはらさんと 猿が馬場の峠の下 桑原へ 打ち出て そこから 古市を渡り 深き山に分け入り峰をよじ登り 谷を下り 越後の国へと 落ちていった 
今日辰の刻より 申の刻までの 戦いに 武田方が取った首は二千九百十九級、武田方の 打ち取られた者 七百あまり大将 晴信 も 2カ所の傷を被った。

夏野菜収穫終了

2024年08月22日 17時02分51秒 | 家庭菜園
この夏は大腸の事が心配で、好物もかなり我慢している
特に消化が悪いものや、腹にたまるもの、刺激が強いものを我慢して食べない
トウモロコシを蒸したり焼いたりして食べるのが好きだが、これも今年は我慢
枝豆もせいぜい10個以内で我慢している
納豆だって大好物だが、ひきわりだけ食べている、ステーキもめったに食べないが、食べる時は本当は肉厚なのを食べたいが、1cmもない薄いのを食べている、但し幅広く大きめなのを、友達の食堂の肉厚なトンカツも食べたいが、寂しいけれど仕方ない、酒ももう4か月くらい一滴も呑んでいない、もっとも1年前から飲みたい気持ちが薄れていた
食べたいものも今が我慢のしどころなのだ。


 さて今年の収穫、太くなったキューリの根元も枯れ始めてきた、できるキューリも小さく形も悪くなってきた、数も減っている
トマトは青いのが6ケ位になったが、熟しかけ2個を収穫したら、虫食いだった
中から小さな青虫が顔を出した、これは蝶の幼虫だろう
そのままトマトごと花壇に置いた、育つか育たないかは自然に任せる
ナスはどうなんだろう?秋ナスとも言うから、このままでもまだ秋もなるのだろうか?
スイカが今頃になってリンゴ大で発見された、これは大きくなっても500g以下だろうと思う、500gだと食べるにも小さすぎるし、甘さも無いから漬物にする
これで小さなまま終わったスイカは3個目だ
大きいのも2個あったが700gくらいでやはり甘くない、とても人に上げるレベルで無いから、今年は失敗である。

今年の収穫は ( )は去年の収穫数

キューリ85本(85)
スナップエンドウ 91枚(初挑戦)
ナス(2株)62個 (33)
トマト 14個 (36)
Pマン 9個
ししとう 5個
オクラ 5本
苺 20個くらい
大葉 20枚
小玉スイカ 500g~700g6個 (1㎏前後 8個)
小葱 4株 (2株)
茗荷 4個 (2)
去年はプリンスメロンを作り、甘さが薄かったので今年はやめたが、去年の収穫は7個

こうしてみれば今年も少ないけれども、入院手術、病院通いの体でまともに世話もできなかったし、1坪しかない畑にしては上々の収穫だったと思う
冬野菜は、今年は大根だけやってみる、白菜、キャベツは小さな畑では効率が悪すぎるのでやらないし、土いじりも闘病中はやらない方が良い。

色は良いが、小さくて甘さもないスイカだった、浅漬けが案外うまかった。

サマータイム ウォーカーブラザース
Summertime