神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

 74歳 この頃思うこと

2024年08月18日 17時45分29秒 | ライフスタイル
 人生は早く流れて短い年月だと思うようになったのは、この頃
気が付けば74歳、ついこの前、古希だ70歳だと言ってたのに、もう70代半ばに差し掛かっている
何といってもコロナ騒動が、我々の人生を意味のない無駄遣いさせた
あれに気をとられているうちに貴重な年月が失われた
あの国を挙げての大騒ぎは一体何だったのだろうか、今は一番騒いだテレビ、医師、政治家が何もなかったかのように口をつぐんでいる

過ぎ去った年月は取り戻せない、そして日常に戻りかけたら突然のガン宣告
これでまた半年、何もできずに家ごもりだ
だけど、この病気になって考え方も生活もすっかり変わった
自分は永遠に死なない気でいたが、ここにきてやはり自分も死を逃れない存在であることを認識した
そうなると人生が定まった、心が定まった、悔いのない人生を送るために考え始めた
命は天命に任せて、自分は生きている限り精一杯やりたいことをやればいいと思った、なにか今までのごちゃごちゃした複雑な思いは消え去って、ものすごくわかりやすくなった
人生が見える、見えて来た、自分がやるべきこともすっきりと見えている
もう、あれだこれだと探し回ることは無い、やりたいことが向こうからやってくる、だから病気がやって来たのも満更意味がないわけではなく、悪いことでも無いと思う、きっと人生の足しになる意味があってやって来たのだろう

今朝、年配の女友達から電話が来た、所帯を持った子供(50近い)に絶望したと嘆く、「もういいかげん子離れの時だよ」と言ってやった
「あんな夫でも、今となれば長生きして一緒に暮らせていたら良いと思った」と故人になった旦那の事を言うから
「それは旦那を粗末にした自業自得だよ」と言ってやったら
「何言ってんの、私をさんざん裏切って家にもほとんど帰ってこなかった人なのよ」と言うから「じゃあ居なくなって、せいせいしたんじゃない」
「まあ、そうなんだけど」と何が何だかわからなくなっている
今は一人暮らしでいる、「無い袖を振って大学まで出して、立派なお嫁さんももらったのに、『かあさんの面倒をみるほど楽じゃないから、母さんは自分の事だけは自分でやってほしい、僕らの事は何もしてもらわなくても良いから』と言うんだよ」と嘆くから、「息子なんか当てにならない、息子さんが言う通り、自分の事だけ考えればいいんだよ」と言ってやった
「そうだね、今までは安定収入がない息子を助けようと援助してきたけど、こんなことを言われて、もう嫌になった、お金だっていろいろ我慢して使い道を節制したけど、これからはやりたいこと、食べたいもの、行きたいところに全部使うわ」
「そうそう、やっと俺と一致したね、もうお互い先も見えたから自分の為だけに生きればいいと思うよ」
「そうだよね、そうしよう、あんたの病気が治ったら軽井沢へ連れて行ってくれない、もちろんAさんも誘ってだけど」
「いいよ、治ったらどこでも行って、うまい物を食べてリフレッシュすればいい」と答えた
日帰りドライブだが、やはり私は一人旅より、連れとワイワイ言いながら遊ぶのが好きだ
私より年上の女性は夫が先だった人が多くて、はたから見れば優雅な暮らしと趣味に生きているように見えても、孤独な人が多い
私も年上の人といるとカッコつけなくてよいし、気楽なのだ、だから年上の友達は男女問わず多い

ここまで来たら理屈無しに楽しむ、楽しい日々を送る。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (173) 長尾家 86

2024年08月18日 06時07分28秒 | 甲越軍記
 長尾の旗下、竹俣三河守、士であったとき一つの名刀を得た
これを竹俣長光、または小豆長光(あずきながみつ)と言う
この名刀の出自は越後の国の百姓の家に代々伝わるものであった、当の百姓、これを大事にもせず常に山に入る時、里に出る時も腰に差して出たが、ある日、木を切るために山に入った
俄かに雷鳴がとどろき、切れ間なく数十の雷鳴が鳴り続けて、今にも百姓の頭上に落ちるばかりであった
百姓は是を恐れて、刀を抜き頭上に差し上げた時、雷鳴一声すさまじく、たちまち百姓の頭めがけて落ちて来た
もはやこれまでと思ったところ、雷はこの刀に当たり再び天へと戻っていった
百姓は奇跡的にケガも無く、ようやく人心地ついて刀を見れば、切っ先の先頭より一尺ばかり血のりが付いていた、あらためて見直せば百姓の首にも衣にも血を被っていた
百姓でさえ、この刀の威徳であることを思い知った。

ある日、百姓は小豆を売ろうと赤豆を袋に入れて背負って里に出た
この袋、少し破れていて、そこから一粒ずつ小豆がこぼれて百姓が腰に差した刀の鞘に当たっては道端に落ちていく
おりしも所用でこの場所に来ていた三河守が通りがかり、百姓の後ろを歩いていたが落ちてくる小豆に気付いて拾い上げると、どの小豆もまことに見事に二つに切れている
三河守はこれを不思議に思い百姓を止めて、この刀を銭にて求めて小豆長光と称して秘蔵した。
竹俣の所持であれば、これを竹俣長光とも言う。
特に長光愛好の謙信はこの噂を聞き要望あったので、竹俣は越後平定の祝いとして、これを謙信に奉る。

この刀が川中島合戦の時、謙信自ら太刀打ちあったことは三編、川中島合戦の条にて記す
後に景勝の代になって、これを京に上らせて拵え(こしらえ)をしたが、一年ほど経ってこの刀、拵えが完成して越後に戻って来た
景勝は大いに喜び、家老直江山城守、本庄越前守などの家臣を招きこの刀を見せれば、皆々口をそろえて「さすが都の水で研げばかように見事に仕上がるものか」と絶賛した。
ところが元の持ち主である竹俣三河守は刀を見ると「これは偽物である、急ぎ京に行き取り返すべし」と言った
景勝は「いかなることか」と問えば、竹俣は「元の刀は、はばきより一寸五分上にの鎬(しのぎ)に馬の尾、一筋通すほどの穴あり、差し面より差し裏へ通る穴なり」と言えば景勝は驚いて、ただちに竹俣を京に上らせた
竹俣は京に上ると、他国の人に作らせた備前長光の二尺八寸から三尺の売り刀を訪ね歩いたところ、果たして清水の南坂より持ち来る刀が正真正銘の小豆長光であることがわかった
三河守は偽物をつくり景勝をだました者を訴えて、この刀を取り戻して越後に帰還した。
のちに、この刀を豊臣秀吉公に奉じた。

(編者速水春暁斎注 二編に出すところ初編の甲越軍記の終わりを差し置いて、長尾景虎入道謙信の出生から天文二十一年の越後平定までに置き換えたのは、その続きを見やすくするためである。
この条より謙信が村上義清に頼まれて武田信玄との合戦に及ぶこと記さんが為なり
天文十五年の信州での村上、武田の取りあいを記す、これ初編の十二巻目の終わりに続けるためである見る人、年歴の違いを不審がることなかれ)