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パナマの黄金文化、新たな遺跡を発見

2011-12-27 | 先住民族関連
National Geographic News  December 26, 2011

James Owen
 中米パナマで新たに発見された墳墓から、1000年前の金や宝石が出土した。先住民がフグによって絶命した形跡も残っているという。黄金の装飾品を身にまとった人々が築いた謎の「コクレ(Cocle)文化」を解明する手掛かりとして期待されている。
「成果は非常に大きい。すぐそばのシティオ・コンテ(Sitio Conte)遺跡が調査された1930年代以降では、コクレ文化に関する最も有意義なプロジェクトだろう」と述べるのはアメリカ、カンザス大学の人類学者ジョン・フープス氏。シティオ・コンテはパナマ中部に位置し、黄金の副葬品が大量に出土している。
 コクレ文化に関する明確な証拠が報告されたのはシティオ・コンテからだけだった。紀元約250年からスペイン人に征服される16世紀頃まで栄えていた文化とされている。
 今回、シティオ・コンテから約3キロ離れた「エル・カーニョ(El Cano)」遺跡でも、西暦700~1000年頃とみられる人工物が発掘された。
◆石、骨、そして金
 今年の前半に実施されたエル・カーニョの発掘作業では、当時は木の屋根で覆われていた多層構造の墓穴から、黄金の装飾品で飾られた首長の遺体を確認。その周囲には25体以上が丁寧に配置されていた。スミソニアン熱帯研究所の考古学者ジュリア・メイヨー(Julia Mayo)氏によると、現時点では同遺跡で発見された6つの埋葬跡の中で最大規模だという。
 小さな金のプレートやブレスレット、イヤリング、半貴石のネックレスなど、首長の息子用とみられる黄金の衣装も発見された。
 墓穴の底には15体の遺体を敷き詰めて、首長の遺体を横たえるための台を形成していた。メイヨー氏は、これらの遺体は元々は戦争の捕虜または奴隷であり、生贄として捧げられたか、自ら命を絶ったと考えている。シティオ・コンテでも同様の配置が確認されており、関連性があるという。
◆死因はフグの毒?
 発掘チームは生贄の死因についても調査。法医学分析の途中だが、ぞっとするような手掛かりが見つかっている。「遺体のすぐそばから、非常に強い毒を持つフグ(学名:Guentheridia formosa)の骨が大量に発見された」とメイヨー氏は話す。
 また、首長を取り囲む遺体がセラミック製のプレートの破片で覆われていた点も奇妙だ。何を意味するのかは明らかではないが、意図的に思えると同氏は述べる。裏面のみが装飾されており、表を下にして遺体に置かれていた。
◆いまだ謎の多い文化
 エル・カーニョでは、斧、袋に入れられたエイの背骨、クジラやジャガーの歯で作ったベルトなども見つかった。プロジェクトを指揮するメイヨー氏はこれらの重要な遺物が、黄金文化の首長や先住民達の謎の解明につながることを望んでいる。
 現時点では、歴史上の記録がほとんど残っていないという。「スペイン人が完全に征服するまでの期間があまりにも短かったのが問題の1つだ。使用言語もいまだにわからない」とフープス氏は述べる。
 シティオ・コンテおよびエル・カーニョの先住民は、「パナマ中部で他民族と交流せず、独自の文化を創り上げて繁栄していた可能性が最も高い」と同氏は考えている。しかしエル・カーニョでは、コロンビア産とみられるエメラルドなど貿易品も出土しており、他民族とのつながりもあったようだ。
 コクレ文化の名残はほとんど残っていない。マヤ文明の石を積んだピラミッドとは対照的である。
 メイヨー氏によると幸運にも金は耐久性が高く、エル・カーニョに残る20の未発掘の墓穴でさらに見つかる可能性があるという。
 大きな進展があったとはいえ、フープス氏は気をゆるめていない。「まだ一部が明らかになったにすぎない。遺跡の盗掘防止策も極めて重要だ」。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20111226003&expand&source=gnews

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アイヌの文化 伝え続ける ドキュメンタリー映画出演 浦川治造さんを訪ねて

2011-12-27 | アイヌ民族関連
東京新聞 2011年12月26日

 関東地方の里山に、アイヌ民族のエカシ(長老)がいる。森羅万象のカムイ(神)に感謝し、先人の知恵を受け継いで生きてきた浦川治造さん(73)だ。自身のドキュメンタリー映画「カムイと生きる」の完成を機に、千葉県君津市のアイヌ文化伝承施設「カムイミンタラ」に暮らす浦川さんを訪ねた。 (発知恵理子)
 都心から車で一時間半。畑や森が広がる静かな集落にカムイミンタラはある。アイヌ語で神々の遊ぶ庭を意味する集いの場で、六年前、浦川さんが重機を操り、廃材を使って一から造り上げた。北米先住民との交流会、季節の祭り、相撲大会などのイベントも開く。
 母屋の前で、浦川さんがたたずんでいた。大柄で指は太く、彫りの深い顔には白く長いひげをたくわえている。辺りを見回し「こっちにもシカやイノシシはいるけど、(食べても)うまくないんだよ」とぽつり。口数は少ないが、時折、冗談を言っては豪快に笑う。
 北海道浦河町に生まれ、六人きょうだいの五番目。家は貧しく、幼いころから畑作やコンブ採りなど親の仕事を手伝った。「冬しか学校に行かなかったから、字は書けないんだ」と言う。一方で「鉄砲を担いで学校に行き、帰りに小鳥を撃って食べた」「鹿を素手で捕まえた」など昔の話をとつとつと話した。
 狩猟民族のアイヌは、獲物を捕る時や木を切る時など、必ず神に感謝する儀式、カムイノミをする。カムイは動植物や自然現象などあらゆるものに宿ると考え、常に自然と対話し、共存してきた。
 中学卒業後、地元で山仕事や土建業をして生計を立ててきた。結婚して二人の娘を授かり「食うのに必死。木を切っちゃいかんとか言ってられなかった」と振り返る。四十二歳の時に父春松さんが亡くなり、跡を継ぐ儀式をすると、アイヌであることへの思いが一層強くなった。
 「親は俺たちをアイヌとして育てていないし、何も教えなかった」と浦川さん。明治時代にアイヌ語や収入源の狩猟が禁止され、日本人として生き、農耕を強要された歴史がある。だが「親の見よう見まねで覚えていくものだから」と、アイヌの生き方は心身に染み付いていた。
 妻の病気や事業の不振が重なり、四十五歳で上京。持ち前の力強さで解体業を起こし、後に家族を呼び寄せた。実直な人柄やアイヌ文化を大切にする姿に支援者が集まり、首都圏に住むアイヌの中心的存在となった。
 自然に囲まれた場所で、常にカムイとともにいる浦川さん。「木を切ったら植える。植えっぱなしにしないで切る。何でも採りすぎないで、普通にやればいいんだ。きちっと守っていたら、不自由はしないよ」。アイヌの知恵を伝え続ける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2011122602000048.html

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