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子グマを生け捕り脳みそを…アイヌの儀式、伝統でも葛藤

2020-08-16 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2020年8月15日 14時20分

 北海道釧路市の阿寒湖温泉地区で8月、アイヌ民族の案内でアイヌ文化を体感するツアーが始まった。「自然と共生する」「固有の文化を大切に」というフレーズは耳に優しい。だがモニターツアーに参加すると、継承を口にしにくい「野蛮」とも言われた儀式についても語られた。
 ツアーは、阿寒アイヌ工芸協同組合が企画した「Anytime,Ainutime!」。このうち森を散策するコースのモニターツアーが7月末にあり、ホテル従業員や森林関係者ら約20人が参加した。
 阿寒アイヌ協会の広野洋さん(55)や瀧口健吾さん(38)ら案内人は、カムイノミ(神への祈り)からガイドを始めた。
 カムイ(神)が宿るとされるハルニレの大木を前に、乾かしたサケ、穀類、刻みたばこなどを供えた。両手をゆっくりとすり合わせ、左右に振る独特のしぐさを繰り返す。「道中の安全を見守ってください」。うたうようにアイヌ語で祈りを捧げた。
 カムイと人間を仲介する祭具のイナウ(木幣)やイクパスイ(酒を捧げる箸)となるヤナギの木、「黒髪の踊り」が嵐に揺れる枝葉を表現するトドマツ、コロボックル(小人)の伝承……。瀧口さんは先が二またに分かれた杖を手に森を進み、エカシ(長老)や周りから聞いた話、自分の体験を参加者に語りかけた。
 クマザザの甘いお茶を振る舞い、アイヌ語のユーカラ(叙事詩)も披露した。参加者は満足そうだ。
 だが、瀧口さんが熊の前脚の鋭いツメを見せ、アイヌ民族の最大とされる儀式について話を始めると参加者の笑顔が消えた。かつておこなわれていた「イオマンテ」(熊送り)である。
 冬の終わり、穴の中で冬眠している親熊を仕留め、生まれたばかりの子熊を生け捕りにする。子熊は女性から乳をのませてもらったり、子どもの遊び相手となったりするなど大切に育てられる。
 だが2年ほど集落で過ごして大きくなった熊はオリから出される。そして弓矢で射かけられたり、2本の丸太で首をはさまれたりして殺される。
 熊は仰向けに寝かせて決まり通りに皮をはがれ、精気が増すとされた血はおわんに入れて飲まれ、肉は集まった人たちに分け与えられた。頭骨は祭壇にまつられ、毛皮と胆(い)は交易に用いられた。
 瀧口さんはイオマンテを経験していない。父親が撮影したビデオを見た様子を語った。
 「頭骨を裏返し、削りかけの神聖な木の棒で脳みそをかき出し、おわんでみんなで食べる。『まずい』なんて言ったら長老たちの『チャランケ』(談判)になると聞きました」
 英国の女性旅行家、イザベラ・バードが1878(明治11)年、北海道を訪れ、イオマンテの様子を「日本奥地紀行」に残している。「山のアイヌと海岸のアイヌとではかなり相違があるし、熊を殺す方法も違っている。しかしどこでも人びとが広く集まって来る。これは大きな祭りで、この時には大いに酒を飲み、奇妙な踊りがある」。
 1955年、北海道庁は「野蛮な儀式だ」として、イオマンテの禁止を通達した。52年後の2007年、「祭礼儀式にあたる」と改め、通達を廃止した。
 アイヌ民族はイオマンテの熊に対して、「いままで大事に育てられたことを神の国で伝えてください。そして再び我々に毛皮と肉をもたらしてください」と祈るのだとされる。「アイヌの人たちは熊を『殺す』という観念は全くありません。人間の国へ遊びにきた神を、もとの神の国へ送り返すという考えから祭儀が行われてきました」と、アイヌ民族文化財団は生活文化再現マニュアルで紹介している。
 ふだんは土産物店主の瀧口さんは続けた。
 「いま、復活することになったら『可哀想だ』とバッシングを受けるでしょう。だけど伝統は尊重したい。熊をさばく作法もだんだん忘れられていく。どうしたらいいのか、葛藤しています」
 ツアー後、阿寒アイヌ協会長の広野さんは「ぼくたちに語り継がれてきたこと、経験したことを知ってもらいたい」と話した。
 伝統をどうつないでいけばいけばいいのか。現代の「常識」とどう折り合いをつけるのか。そのむずかしさを重く感じる約1時間半のツアーだった。(高田誠)
https://digital.asahi.com/articles/ASN8G6QZ2N84IIPE007.html?pn=8

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アイヌと共生、原点示す業績 松浦武四郎記念館で「蝦夷地調査」企画展 松阪・日誌や出版物など /三重

2020-08-16 | アイヌ民族関連
会員限定有料記事 毎日新聞2020年8月15日 地方版
 北海道の名付け親で探検家としても知られる松浦武四郎(1818~88年)が、長年の調査で書き残した日誌や出版物にスポットを当てた「武四郎の蝦夷(えぞ)地調査」展が、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館で開かれている。7月には北海道白老町にアイヌ文化の復興・発展を目指し、国立アイヌ民族博物館と国立民族共生公園で構成する「ウポポイ(民族共生象徴空間)」も誕生、偉業を再確認する資料展として関心を集めている。
 武四郎は松阪市小野江町の出身。伊勢参宮客が行き交う参宮街道のにぎわいに刺激され16歳で上京。以来、日本全国を旅した。蝦夷地に関心を持ったのは長崎訪問中にロシアの南下政策に脅威を感じたためで、28歳から41歳までの13年間に6度にわたって蝦夷地に入り、アイヌの人々の協力を得て現地を探査した。調査時には「野帳(のちょう)」(全37冊)と呼ばれる和紙を閉じたノートと、筆と墨が入った矢立てを携えて歩き、…
この記事は有料記事です。
残り591文字(全文991文字)
https://mainichi.jp/articles/20200815/ddl/k24/040/125000c

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先住権回復へ思い乗せて 浦幌アイヌの丸木舟作り(動画)

2020-08-16 | アイヌ民族関連
共同通信 2020.8.15 21:03

北海道浦幌町のアイヌ民族の団体「ラポロアイヌネイション」(旧・浦幌アイヌ協会)がこのほど、秋サケを迎える儀式「アシリチェプノミ」に使う伝統的な丸木舟を製作した。先住民族は法や規則に縛られず経済活動としてサケ漁をする権利があるとして、国や道を相手に17日に訴訟を起こす予定で、丸木舟作りを先住権回復への第一歩としたい考えだ。
https://www.47news.jp/news/5143073.html

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鬼への愛がとまらない! 加門七海さんの歴史エッセイ「加門七海の鬼神伝説」インタビュー

2020-08-16 | アイヌ民族関連
好書好日 2020/08/15 10:00
お話を聞いた⼈加門七海(かもん・ななみ)作家
東京都墨田区生まれ。美術館学芸員を経て、1992年『人丸調伏令』でデビュー。伝奇小説・ホラー小説を執筆するかたわら、オカルト・風水・民俗学などへの造詣を生かしたノンフィクションも発表。自身の心霊体験をもとにした怪談実話でも人気を博す。小説に『おしろい蝶々』『祝山』『鳥辺野にて』など、ノンフィクションに『大江戸魔方陣』『お咒い日和』『墨東地霊散歩』など、怪談実話に『怪談徒然草』『怪のはなし』などがある。
中国の鬼はもともと死者の霊
――加門さんは幼少期からずっと鬼がお好きだそうですね。きっかけは何だったのでしょうか。
 それがよく分からないんです。気づいたら「心に鬼が棲んでいた」という感じで、具体的なエピソードがないのが自分でも不思議なんですよ。子どもの頃一番好きだった童話は浜田広介の「泣いた赤鬼」ですし、酒呑童子や茨木童子にはアイドル的な憧れを抱いていました。どうも世間には鬼という言葉にまったく無関心な人と、過剰な反応を示す人の二種類がいるようですが、わたしは明らかに後者です。
――そもそも1992年刊行のデビュー作『人丸調伏令』も、鬼を題材にした伝奇小説でしたね。
 我ながらぶれがないですよね。鬼への愛が強すぎて、ストーカーっぽいかなと感じることもあります。以前、ある霊能者の方と話していて「加門さんは鬼が憑いているから強いよ」と言われたことがありました。お酒の席の話でしたが、突然だったのでびっくりしてしまって(笑)。見る人が見れば鬼に憑かれている、というのが一目瞭然なのかもしれません。
――新刊『加門七海の鬼神伝説』(朝日新聞出版)は、そんな加門さんの“鬼愛”がほとばしる歴史エッセイです。執筆の経緯について教えてください。
 これまでも機会があれば、鬼について書きたい、書きたいと口にしてきました。しかし出版界には「鬼は売れない」というジンクスがあって、実現しなかったんです。今回『HONKOWA』というホラーコミック誌から連載の話をいただいて、性懲りもなく鬼を書きたいと提案したらゴーサインが出た。『HONKOWA』は歴史ミステリー系のマンガも載っているので、媒体のカラーに合っていたのかもしれません。幸い連載中の読者アンケートも悪くなかったようで、ひとまずほっとしています。
――私たちが鬼と言って連想するのは、頭に角が生えて縞のパンツを穿いた昔話のキャラクターです。しかし『鬼神伝説』で扱われている鬼の姿は、もっと多様かつ捉えどころのないものですね。
 絵本に出てくる鬼の姿は、陰陽道でいう鬼門が丑寅(北東)の方角にあることに由来します。丑寅だから、牛の角と虎の牙を持って、虎皮の褌を着けているんですよ。これはあくまで日本独自の解釈で、中国でいう鬼とはもともと死者の霊のことです。
――死者の霊ですか。それも現代人の抱く鬼のイメージとは違います。
 さらに日本では古くから「鬼」という字を、「かみ」「もの」「しこ」などとも読んでいました。かみは神、ものはモノノケ、しこは醜いという意味ですが、本来は強くて恐ろしいものを指すといいます。この三つの言葉を眺めると、かつて日本人が抱いていた鬼の姿がおぼろげに浮かんでくると思います。その他にも、鬼という言葉には、精霊や祖先、先住民族などの意味もある。時代が下るにつれてネガティブなイメージが強まりますが、善悪二元論で割り切れるような存在ではないんですね。
伝説に登場する鬼たちは美形揃い
――全8章にわたり、鬼のさまざまな姿が紹介されています。まず取りあげられるのは「鬼界のヒーロー」酒呑童子。人間の生き血を吸う悪鬼として扱われがちですが、そもそもの伝説では笛を愛する美少年だとか。
 そうなんです!酒呑童子は美形だし、立ち居振る舞いも知性的。異形のモンスターなんてとんでもない誤解ですよ。酒呑童子に限らず、伝説に登場する鬼たちが美形揃いであることは、声を大にして主張しておきたいですね。
――しかも、酒呑童子の暮らす里は、美しい理想郷のような土地として描かれている。
 不思議でしょ? こんな理想郷を治めていた酒呑童子は、果たして邪悪なだけの存在だったのか。そんなことはないと思います。謡曲の『大江山』では討ち取られそうになった酒呑童子が、「鬼神に横道なきものを」という有名な台詞を発します。つまり鬼には嘘や邪悪がないのだと。朝廷に対立する者がなぜこんな台詞を口にするのか。書き手は何を伝えたかったのか。ここにも酒呑童子の正体に迫るヒントがあるようも思いますね。
――一方、鬼退治で有名な平安時代の武人・源頼光と四天王に対しては、「現実の武勇伝は皆無」「凡人揃い」とかなり手厳しいですね。
 酒呑童子をだまし討ちにしたんですから、そりゃ腹も立ちますよ! 源頼光は藤原道長と同時代人ですが、当時の貴族社会の記録にはまったく名前が出てこない。そのくらいの武人だったということです。それが後世、鬼退治のヒーローとして扱われる。源氏の価値を高めるための、巧みなイメージ戦略があったと見るべきでしょうね。『日本書紀』などの史書には、作り手の意図がかなり色濃く反映されていますが、鬼の伝説にも似たような面があるんです。
――「鬼の女王」鈴鹿御前を取りあげたパートは痛快の一言。あんなに面白い鬼の伝説があったとは知りませんでした。
 鈴鹿御前はまず気高い女王様然としたキャラクターが素晴らしいですよね。あそこまで自由奔放に生きられたら、さぞ楽しいだろうなと。しかも最後まで討ち取られることがないので、鬼好きでも安心して読める。本で紹介したのは奥浄瑠璃の「田村三代記」ですが、よくもまあこんな物語を思いついたな、と感心するくらい面白い。当時これを生で聞いていた東北の人たちは、本当にわくわくしたでしょうね。
――オカルトに詳しい加門さんならではの、大胆な推理や仮説も読みどころ。桃太郎の昔話を陰陽道から読み解くくだりが、個人的にはハイライトでした。
 それはよかった。日本の昔話には結構、中国渡来の陰陽五行説が入りこんでいるんです。本にも書いたとおり、桃太郎と家来の動物たちは五行でいう「金」、鬼は「木」にあたります。つまり桃太郎の昔話は、金が木に克つという五行説の理を表している。鬼伝説の地には鉱山が多いことから、鬼退治を鉱物資源の争奪とみなす説もありますが、わたしとしては五行の相克関係が気になります。
――軽妙で勢いのある文体も本書の魅力ですね。「消えてなくなれ『桃太郎』!」「あまりの色気に卒倒しそうになる」といった表現には、思わず噴き出してしまいました。
 自分でもやりすぎかなと思いつつ(笑)、まあ学術書ではないからいいかなと。日本史に馴染みのない読者もいるでしょうし、適度にくだけていた方が面白く読んでもらえるでしょうから。発表媒体がコミック誌だったことも、読みやすさを意識するうえで影響がありました。
フィクションの素材として鬼は重すぎる
――鬼の話は下手に扱うと、運が下がったり、事故に遭ったり、超常現象に見舞われたりする、との序文にはゾッとしました。
 創作をする際には、気をつけなければいけない三つの素材があると言われます。ひとつは鬼、もうひとつは聖徳太子、そして南北朝。これらは扱いを間違えると、洒落にならないことになる。ある作家さんの体験談ですが、鬼を扱った作品を書こうと準備を進めていたら、小さなトラブルや怪我に見舞われるようになり、とうとうデスクの脇に据えた大きな本棚がばーんと倒れてきて、結局書くのを諦めたそうです。
――ちょっと鳥肌が立ってきましたが、一体どういうことなのでしょう。
 フィクションの素材として、鬼は重すぎるんじゃないでしょうかね。ややオカルト的な言い方をするなら、「向こう」には訴えたいことが山ほどあるわけで、到底一人の人間には受け止めきれないですよね。だから障りが出やすい。この連載をしていて不安だったのは、途中で打ち切りになったらどうしようことでした。そうなったら当然、障りがあるだろうなと。最後まで無事書き終えることができたのは幸いでした。
――加門さんといえば、数々の心霊体験でも知られますが、鬼の存在を感じ取ることはありますか。
 全国の神社を巡っていると、ここは鬼を祀っているんじゃないかなと感じる場所はありますね。大抵、そういう神社は由緒が不明なんですけど、普通の神社とは明らかに気配が違います。清々しいわけでもないし、逆に禍々しいわけでもない。どこか言葉が通じないというか、宇宙人を相手にしているみたいな感覚です。何かしらの理由があって、鬼が祀られるようになったんでしょうね。
――美しさ、気高さ、猛々しさ、激しさなどさまざまな性質をもった鬼は、加門さんが書かれているとおり「千変万化で捉えがたい」存在です。本書を読んだことで、ますます興味が湧いてきました。
 古代から現代にいたるまで、鬼はさまざまに姿を変えながら、日本人を畏怖させ、魅了してきました。その一端を紹介することができたのは、幸せな機会でした。わたしは鬼を可哀想な存在として書きたくはないんですよね。むしろ憧れの対象だと思っていますから。書き手の思いが暴走しすぎて、呆れられるかもしれませんが、鬼を知るひとつのきっかけにしてもらえると嬉しいです。この本が、鬼の復権にわずかでも繋がることを祈っています。
https://news.goo.ne.jp/article/book_asahi/trend/book_asahi-13635645.html

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日本ハムが9月の主催12試合でユニホームを来場者プレゼント ガールズスタイルは2種類

2020-08-16 | アイヌ民族関連
Full-Count 8/15(土) 19:12配信
女性にはガールズスタイルユニ、男性には限定ユニホーム
日本ハムが来場者に配布する「ガールズユニホーム2020」【写真:(C)H.N.F】
 日本ハムは、9月1日~6日、15日~20日に札幌ドームでの主催試合にて行う来場プレゼントの概要を発表。期間中の全12試合で、女性にはガールズスタイルのユニホームを、男性には「北海道シリーズ 2020 WE LOVE HOKKAIDO」限定ユニホームを先着でプレゼントする。
 ガールズスタイルのユニホームは2種類あり、9月1日~3日の対楽天戦、15日~17日のソフトバンク戦では、カラフルなライラックの花が散りばめられた華やかなピンク色ベースの「ガールズユニホーム2020」を各日先着2000名の女性来場者にプレゼント。9月4日~6日の西武戦、18日~20日の対ロッテ戦では、胸元の大きなロゴがスタイリッシュなスカイブルー色の「ベースボールガールシャツ2020」を各日先着3000名の女性来場者にプレゼントする。
 同期間中、男性来場者には、北海道遺産でもあるアイヌ文様をモチーフにデザインされた「北海道シリーズ 2020 WE LOVE HOKKAIDO」限定ユニホームを各日先着2000名にプレゼント。観戦に家族で行っても、カップルで行っても、みんなでユニホームを着てファイターズを応援することができる12試合。ユニホームに合わせてコーディネートやヘアアレンジを考えて、いつもよりおしゃれに観戦を楽しんでみては?
(記事提供:パ・リーグ インサイト)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6143ac66ce4a7722232598cbe037833bb892db74

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外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(17)哲学者・高橋哲哉さんと考える 歴史認識と「犠牲のシステム」

2020-08-16 | 先住民族関連
J-CAST 8/15(土) 12:00配信

コロナ禍のもとで生まれた「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」運動は、各地で奴隷制や人種差別にかかわった人物の銅像引き倒しや、破壊にまで突き進み、その動きは欧州にも波及した。いま。なぜ社会に組み込まれた「構造的差別」が問題にされているのか。哲学者の高橋哲哉さんと共に考える。
■BLM運動の背後にある「構造的差別」
 すでにノーマ・フィールドさんの回でお伝えしたように、ジョージ・フロイドさん殺害事件をきっかけに全米で広がったBLM運動は、南北戦争で奴隷制維持の側に立った南部連合の指導者の銅像引き倒しや、南軍の旗をあしらった州旗のデザイン変更、先住民を指す「ワシントン・レッドスキンズ」のチーム名変更などの動きにまで広がった。
 それだけではない。米紙ニューヨーク・タイムズは2020年6月16日付(電子版、同25日改稿)の「歴史の再考」という記事で、「バージニアからニューメキシコまで、警察の暴力への抗議は、数百年の米国史の泡立ちを表面化させた」という前文に続き、BLM運動が全米各地でさまざまな「偶像破壊」をもたらした、と報じた。
 オレゴン州ポートランドでは、群衆が「建国の父」トマス・ジェファーソンの銅像を引き倒した。これは、彼が生前、600人以上の奴隷を使っていたという理由からだ。
 バージニア州リッチモンドでは、新大陸を「発見」したクリストファー・コロンブス像に落書きがされ、火がつけられたのちに湖に投げ捨てられた。探検家が南北アメリカの先住民抑圧の先鞭をつけた、という理由だ。当初は人種差別や奴隷制に向かっていた矛先が、植民地主義や先住民への抑圧に対する批判へと広がる兆しだった。
 6月16日には、ニューメキシコ州アルバカーキで、先住民800人の虐殺を命じたコンキスタドール(征服者)のホアン・デ・オネートの銅像が撤去された。この像をめぐって群衆がぶつかり、発砲事件があったためだ。
 同じ日、ノースカロライナ州の州都にあったジョセファス・ダニエルズの銅像が子孫の意向で撤去された。この人物はウッドロー・ウィルソン大統領のもとで海軍長官を務めた新聞発行者だが、白人優越主義者としても知られていた。同24日には、カリフォルニア州の州都サクラメントにあったジョン・サッター像が撤去された。「サッター砦」を築き、ゴールド・ラッシュのきっかけを作った人物として知られるが、先住民を搾取していたことが問題視された。また、最古の騎馬パトロール隊として知られる「テキサス・レンジャー」の像が、ダラスから撤去された。これも、法執行機関による先住民への暴力が批判を受けるという懸念からだ。
 ノーマさんの回で書いたように、トランプ大統領は独立記念日前の7月3日夜、4人の大統領の顔を岩に刻んだラシュモア山を背に、こうした記念碑や銅像の破壊を「左翼の文化革命」と呼んで厳しく非難し、対決姿勢を鮮明にした。1966年から10年にわたって中国全土に吹き荒れ、多くの死者と文物破壊をもたらした中国の「文化大革命」にBLM運動を重ね合わせ、保守や白人の支持層に訴える狙いからだ。
 私自身は、感情の赴くままに行われるこうした「偶像破壊」は、決して生産的とはいえないし、シンボルによる政治操作が忍び込む危うさもあると思う。ベルリンの「壁」崩壊は民意の直接の発露であったし、旧ソ連崩壊後のスターリン、レーニン像の撤去や、都市・道路の改名は、イデオロギーによる抑圧体制のシンボルの解体を意味した。
 だがイラク戦争におけるフセイン像の引き倒しは、顔に星条旗をかけ、米軍の装甲車で引き摺り倒すという「演出」が濃厚に出ていた。政治的なシンボルを引きずり下ろす行為は、極めて政治的にならざるを得ない。
 私は、かつてバチカンにいた日本人枢機卿から、こんな言葉を聞いたことがあった。
「ローマが偉大なのは、あらゆる愚行や蛮行の跡を破壊せずにそのまま遺跡として残し、歴史の教訓を今に伝えているからです」
 たぶん、BLM運動の激化の背景にあるのは、今も続くマジョリティによるマイノリティへの「構造的差別」が、そうした差別を助長した人物への公的空間での顕彰というかたちで、存続していることへの怒りだろう。
 彼らは、そうした記念碑が、過去の遺物ではなく、今もマジョリティによる差別や暴力を正当化し、「アメリカの伝統」の一部として、敬意のまなざしを強制することに、耐えがたさを感じているのだろうと思う。
 だが歴史は、たんにシンボルの破壊や除去によって見直すことはできないと私は思う。蛮行や過ちの歴史は、それを記録し、保存し、新たな解釈と補遺を加えることによってしかのちの世に伝わらない。奴隷を使っていたジェファーソンの像やコンキスタドールの像をたんに破壊したり撤去したりするのではなく、公共空間から博物館や歴史展示館に移し、そこに新たな解釈や歴史論争の結果を示すべきではないだろうか。博物館や歴史展示館は、絶えざる歴史の見直しや論争を引き起こす「開かれた議論の場」であると思うからだ。
 2005年、ベルリン歴史博物館で、「ドイツの戦後展」を見たことがある。冒頭から、「私たちが歴史に向き合ったのは最近のことで、しかも不承不承だった」と率直に記すように、東西分断国家が対立する過程で、西独ではナチス関係者が支配層に残り、東独ではナチスの責任を「西側」に押し付けて直視してこなかった過去を振り返り、「隠蔽」の歴史を克明に展示していた。さらに、時の外相ヨシュカ・フィッシャー氏が、1999年にNATO(北大西洋条約機構)による空爆を支持し、緑の党の党大会で反戦主義者から塗料を投げつけられ、服を真っ赤に染めるビデオを繰り返し上映し、手書きの反戦プラカードすらも「史料」として展示していることに驚かされた。歴史解釈はつねに未完の精神闘争であり、博物館は論争に開かれた場として、起きたことをそのまま記録し、公開するという、戦後ドイツの歴史観をそこに感じた。
 それはともあれ、ニューヨーク・タイムズ紙は7月3日付(電子版)で「BLMは米国史最大の運動の可能性」という記事を掲載し、4つの世論調査をもとに、その時点で全米の1500万人~2600万人が「BLM」の抗議デモに参加したという推計を報じた。
 コロナ禍という熱源によって、積年の「差別構造」という鉄の圧力釜が熱せられ、その蒸気がBLMとなって迸り出る。そんな構図が浮かび上がる。
哲学者・高橋哲哉さんに聞く
 この問題をどう考えたらよいのか。8月9日、東大大学院総合文化研究科教授の高橋哲哉さんにZOOMでインタビューをした。
 高橋さんがまず指摘したのは、こうした植民地支配や奴隷制度、人種差別などの歴史問題が、決して過去の蒸し返しではなく、すぐれて今日的な問題だ、という点だ。
「第2次大戦後、まず大きな問題になったのは、ナチスによるユダヤ人虐殺、ショアー(ホロコースト)の問題でした。ハンナ・アーレントは、政治という活動の結果、取り返しのつかない傷が生じた場合、その救済策として『赦し』の役割を強調したが、全体主義の犯罪は『赦すことも罰することもできない悪』と認めざるをえなかった。その後、ショアーの裁きと赦しの問題は、当時の西ドイツで1960年代には、『ナチスの犯罪に時効を適用できるか』という『時効論争』を引き起こし、1980年代には、『ナチスの犯罪は、他のジェノサイドと同列に論じてよいのか』という『歴史家論争』を巻き起こした。冷戦が終わり、グローバル化が進むにつれ、1990年代になって、集団的な暴力の『傷』や『赦し』、『和解』といった歴史をめぐるテーマも一挙にグローバル化したのです」
 つまり、歴史問題は戦後、伏流水のように連綿と続いてきたが、世界中で顕在化したのはごく最近という指摘だ。
 高橋さんがその例として挙げるのは、2001年の8月末から9月にかけて、南アフリカのダーバンで開かれた国連の「反人種主義・差別撤廃世界会議」(ダーバン会議)だ。ここでは奴隷制や植民地主義が正面から取り上げられ、今後は戦後に発展した国際人道法をベースに、あらゆる差別を撤廃するという基本原則を「宣言」で確認し、200項目以上の「行動計画」を採択した。
 今回のコロナ禍で、東アジアは比較的感染者数、死者数が少ないが、欧米諸国などで圧倒的に多い。しかも米国では黒人など社会的・経済的に弱い立場に置かれたマイノリティ、ブラジルではスラム街や人口密集地に住む貧困層や先住民に被害が多く出ている。
「権力や富が集中している階層では被害が少なく、歴史的に差別された地域や階層が脅威にさらされている。その怒りや不満が、米国ではBLM運動となって噴出し、欧州にも波及した背景ではないか」
 高橋さんは、欧州に波及した一例として、6月30日に、ベルギーのフィリップ国王がコンゴ民主共和国のチセケディ大統領に宛てた「謝罪」の書簡を挙げる。ベルギーはかつてレオポルド二世がコンゴを「私有地」化して欧米列強で最も過酷な支配をした時期を含め、75年にわたってコンゴを植民地支配してきた。フィリップ国王は、そうした植民地支配でコンゴを傷つけたことについて、「今なお私たちの集団的な記憶に重くのしかかっている」と述べ、過去の傷に「最も深い遺憾の意」を表明し、「我々の社会に今なお存在する、あらゆる人種差別主義と闘っていく」という決意を述べた。高橋さんは言う。
「こうした動きを見ていると、近代以降のグローバル化によって生じた植民地支配や民族間の衝突や紛争について、根本から問い直そうという動きが起きていると思う」
 そうした動きの背景として、高橋さんは、今回のコロナ禍で、従来の「人間と自然」のバランスが急速に崩れる事態を突きつけられたことが大きい、と指摘する。
「開発などで未踏の地に人間が入り、未知のウイルスに感染する。近代以降の人の営みが地球温暖化で自然や環境に変化をもたらしたように、これまで自明とされてきた自然の『無限の資源』を前提とした経済成長や豊かさが限界に近づいた。そうした大きなバランスの変化を突きつけられ、人間と人間との関係が築いた『歴史』を問い直さなければ、人類の連帯に将来はない、と気づき始めたのではないか」
日本型「犠牲のシステム」
 2011年の東日本大震災で福島第一原発の事故が起きて以降、高橋さんは「犠牲のシステム」という考えを深めてきた。「犠牲のシステム」とは何か。高橋さんの定式では、次のようになる。
「犠牲のシステムでは、ある者たちの利益が、他の者たちの生活を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているが、共同体にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」
 ここでいう犠牲にされる側の「生活」とは生命や健康、日常、財産、尊厳や希望などを含む。また、犠牲を強いる「共同体」は、国家、国民、社会、企業など様々だ。
 高橋さんがこの考え方を深めるきっかけは、2009年の政権交代だった。鳩山由紀夫首相は、沖縄県の普天間飛行場を返還する代わりに、辺野古に移設するという日米合意について、代替基地は「最低でも県外へ」と異論を唱え、すぐに行き詰まって方針を撤回した。
 そして2011年の東日本大震災では、首都圏に電気を供給する東京電力福島第一原発で過酷事故が起き、その対応にあたった菅直人首相は、批判を浴びて政権を野田佳彦首相に引き渡すことになった。
 こうして政権交代下で、この国の根幹をなす安全保障問題と、エネルギー問題がともに正面から問われることになったが、これは単なる偶然だったのだろうか。もちろん、原発事故の引き金になった東日本大震災は天災であり、政権交代とは関係ない。しかし、特定の地域に基地や原発を押し込め、その犠牲の上に保たれる安全保障やエネルギーの問題を、自民党の長期政権下では忘れていたことに、私たちは気づかされることになった。逆説的にいえば、政権が交代しても、システムが微動だにせず、そのシステムが「国のかたち」であることを知った。つまり、戦後ずっと目に見えなかった「犠牲のシステム」が、可視化されたのである。
 高橋さんの場合、事情は複雑だった。福島県に生まれ、小学3年まで4年間を、のちに福島第二原発が立地することになる富岡町で暮らしたことがある。その後、首都圏に住まい、事故当時も、福島から供給される電気に頼って暮らしていた。故郷が放射線に汚染され、多くの人々が避難を余儀なくされ、あまつさえ差別まで受けるという事態に、「なぜ」という疑問符とともに向き合わざるをえなかった。
 そこでつながったのが、歴史認識や歴史責任の問題で思想的課題となっていた沖縄だった。琉球王国として存在していた沖縄は、明治の「琉球処分」によって解体され、正式に日本の版図に汲み込まれた。戦前は「皇国史観」を教え込まれ、沖縄方言も禁じる同化政策が推し進められた。
 沖縄戦では「国体護持」のために沖縄守備軍が住民を巻き込む持久戦を行い、結果として県民の4人に1人が犠牲になった。沖縄県民の多くはそこに、本土のための「捨て石」にされたという悔悟と痛恨を抱くことになった。
 戦後はサンフランシスコ講和条約で日本が占領から解き放たれた代わりに、本土から切り離され、事実上、米軍の支配下に置かれた。しかもその27年間の米軍政下で、米軍は沖縄の基地を「銃剣とブルドーザー」で拡充し、本土で紛争を起こしていた米海兵隊などの基地を撤収・縮小し、沖縄に米軍基地が集約されていく。本土が経済成長で復興に向かう歳月は、沖縄にとっては対照的に、より多くの基地を受け入れ、米兵による犯罪や事故、騒音に苦しむ日々だった。
 こうして、自分の「裏庭」には迷惑施設がきてほしくないという本土の意識が、狭い沖縄に基地を押し込め、その「犠牲」を忘れるというシステムが形づくられた。
 それは、首都圏では福島や新潟に、関西では福井などに原発を建設し、自らの生活圏からリスクを排除してその恩恵を受け、しかもそのシステムそのものを意識から追い払うという原発の「犠牲のシステム」に酷似している。
 こうして、高橋さんは「犠牲のシステム福島・沖縄」(集英社新書)を書き、自らを含め、自分の利益のために、特定地域に不条理な構図を押し付ける人々の責任を世に問うた。沖縄取材が長く、東日本大震災で原発取材事故の被害を取材していた私は、その著作の鋭い問題提起に、虚を突かれる気がした。
「犠牲のシステム」の不可視化
 こうした日本型「犠牲のシステム」はいつから作られてきたのだろう。高橋さんは、このシステムは戦前、戦時中からあった、という。大日本帝国憲法のもとでは、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(教育勅語)、戦争においては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」(軍人勅諭)ということが、当然視された。いざという時には国のために命を捧げ、尊い犠牲として靖国神社に英霊として祀られるという、目に見える「犠牲のシステム」だった、といえる。
 だが主権在民の日本国憲法のもとで、「犠牲のシステム」を表立って押しつけることは、さすがに、できない。一定の国民に犠牲を強いてはならない、というのが憲法の建前であるからだ。その結果、「犠牲のシステム」を不可視化し、「犠牲を見ないで済む」メカニズムが働くことになる。
 たとえば沖縄では、故・翁長雄志前知事の時代以来、一貫して国政選・地方選で「辺野古への移設反対」の民意を示してきたが、今の衆院でいえば沖縄には選挙区・比例区を合わせて6議席しかなく、「多数決」という民主制度のもとで、その主張が通る見通しはない。
 福島でいえば、2013年の東京五輪招致スピーチで、安倍晋三首相は原発事故について、「状況はコントロール下にある」と演説した。しかし、原発被害を切り捨て、不可視化したに過ぎず、敷地内には汚染水がたまり続けるなど、問題は山積している。
「聖火リレーも、原発解体の作業拠点だったJヴィレッジから出発し、若者たちが福島を走って『復興』をアピールする。これは宣伝というより、犠牲を不可視化するメカニズムと言っていいように思えます」
「土人」という発想
 福島第一原発の事故以来、高橋さんはネット上で「東北土人」や「福島土人」という言葉が使われていることに衝撃を受けた。こうした差別の根底には、幕末から明治にかけての戊辰戦争で、会津・庄内藩と奥羽越列藩同盟が官軍に敗北して以降、「白河以北一山百文」という蔑みの表現が使われたことを想起させる。「貧しい地方」、「遅れた地方」という差別のまなざしだ。
 これは沖縄にも言える。沖縄では2016年10月、米軍北部訓練場のヘリパッド移設工事をめぐって、大阪府警の機動隊員が、工事に反対する市民に向かって、「土人」呼ばわりする事件が起きた。これを、単なる失言と見過ごしていけない、と高橋さんはいう。
 1903年には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会で、「人類館事件」が起きた。これは、「学術人類館」という展示で沖縄、アイヌ、台湾原住民、朝鮮、清国などの人々に民族衣装を着せ、日常生活を送る様子を見せる展示だった。沖縄、清国がこれに抗議したが、当時の沖縄の言論人は、「帝国臣民の沖縄人を、他の民族と同列に置くのは侮辱だ」と抗議し、それはそれで、他の植民地に対する屈折した優越意識をうかがわせる内容だった。だがそれよりも、この展示そのものが、マジョリティが自らを「文明」とみなし、被植民地の人々よりも「民度」が高いことを誇る装置であったことに、高橋さんは注意を喚起する。
「欧米列強の植民地主義には、自らが卓越した民族で、遅れた地域を文明化することが我々の使命だ、という優越意識がある。その意識は、当時盛んになった人類学や、その後の文化人類学にまで貫かれている」
 日本の「人類館」も、19世紀から20世紀にかけ、欧州各地の万博などで異民族の人々を「展示」する「人間動物園」の系譜を引く「見世物」だった。
 こうして長い歴史をかけて刷り込まれた差別や偏見は、簡単には消すことができない。ここで大切なのは、メディアの役割だ、と高橋さんは指摘する。不可視化された「犠牲のシステム」を可視化するよう、絶えざる努力を積み重ねることが、メディアには求められている。
 沖縄では連日のように、人口10万人あたりの全国最多の感染者数が報じられているが、日米地位協定の抜け穴によって、米兵が基地の外に感染を広げていないかどうか、その実態がきちんと地元に報告されているかどうかについて、本土のメディアが報じることは少ない。おそらく、読者や視聴者の多くが、「犠牲のシステム」によって利益を享受する本土の人であるため、そのシステムを明るみに出すことを躊躇するか、自粛して問題を回避しようとする判断が働くためではないか。
 高橋さんは以前、沖縄の女性ライター、知念ウシ氏と中央紙で対談したことがある。「高橋さんも基地を持って帰ってくださいね」という発言を編集者が削除したため、知念氏が、「そこが大事なんだから残して」と要請した。結局、紙面に復活したが、その時に編集者が、「数百万読者を相手にしている新聞なので」といったことが強く印象に残った、と高橋さんはいう。「マジョリティ」を重んじ、「不都合」な事実を指摘してその神経を逆撫でしたくない、というメディアの配慮がにじみ出ていたからだ。
「沖縄は安保に貢献してくれている。福島は明治以来、水力・火力から原発に至るまで、一貫して首都圏にエネルギーを供給してくれている。そうした『感謝』の言葉は当たり障りがないが、それではまったく犠牲がなくならず、『尊い犠牲』として戦死者を靖国神社に祀り上げた過去と構図は変わらないことを、意識しているべきでしょう」
 ネット上では、少数派に対するいわれのない誹謗中傷や、バッシングが続いている。コロナ感染者や医療従事者への差別や偏見もあとを絶たない。高橋さんは、福島第一原発のあと、被害を受けた避難者を差別する言動が広がったのと、同じ風潮を感じる、という。
「放射線もウイルスも目には見えない。人は異質なもの、自分が不気味と感じる者に対し、自己防衛で遠ざける本能がある。防衛的になることは、ある程度やむをえないが、不安のあまり過剰に反応し、責任のない人に、いわれなき誹謗中傷を向けることは許されない。匿名で発信できる仮想空間では、そうした攻撃的態度が誘発されやすいことを自覚するべきでしょう」
安倍政権の対応と「命の選択」
 今回のコロナ禍で高橋さんが気になるのは、安倍政権の対応だ。
 「予想通りと思ったのは、オリンピックとの関係でした。3月24日まで、安倍首相も小池都知事も、コロナに対する危機感が全く感じられなかった。PCR検査の拡充や防疫体制の整備など感染対策が叫ばれていたにもかかわらず、ほとんど無策だった。ところが東京五輪の1年延期が決まったとたんに、小池知事が俄然メディアでコロナ危機を叫び出した。これ自体、都知事選をにらんだ事実上の『選挙運動』だったと思いますが、安倍首相はこれに焦ったかのように、緊急事態宣言に踏み切りました。オリンピックを『レガシー』にしたい安倍首相も小池都知事も、コロナ対策以上に自らの政治的思惑を優先しているように見えます」高橋さんはそう語る。
 だが、安倍政権の対応には、単にチグハグであるとか、人々の意識とずれているということ以上のものを感じる、という。
 第2波の襲来は明白であるのに、医師会や専門家の警告も無視して、「経済を回す」路線に固執している。財界の意向というだけでなく、誤解を恐れずにあえて言えば「人口調整」の思惑があるのではないか、と疑ってしまうという。その「思惑」とは、次のようなものだ。
「若い世代は感染しても回復するから問題がない。むしろ集団免疫を獲得するには感染したほうがよい。それで高齢者に広がって死者が増えたらどうするのか。絶対に表立っては言えないが、それはそれで、『人口調整』になるのではないか」
 「絶対に表立っては言えない」はずのことを、中には公然と言ってしまう人もいる。「れいわ新選組」から次期国政選挙に立候補を予定していた大西つねき氏が、「命の選別をするのが政治の役割だ。高齢者から逝ってもらうしかない」と発言して、党から除籍された。一定の人々を「生かしめる」一方で、一定の人々を「死ぬにまかせる」政治、ミシェル・フーコーの言う「生権力」による「生政治」。これが、今このコロナ禍の中で作動しているのではないか。高橋さんは、そう危惧しているという。
 こうした政治は、日本でも「津久井やまゆり園事件」で顕在化したような優性思想と、深い親和性がある。そして、「ヤスクニ」の論理と同じとまでは言えないが、国家・社会を維持するためとして一定の人々の「犠牲」を肯定する点では、その論理ともつながる。さらにそれは、福島や沖縄に見られるような構造的差別ともつながっている。安倍政権によるコロナ対策が、隠れた「人口調整」戦略になっていないかどうか、厳しく監視していく必要があります、と高橋さんはいう。
知識人が提起、社会が長年吟味し政治が決断
 高橋さんは90年代、「ポスト構造主義」と呼ばれるフランスの哲学者、ジャック・デリダらの研究をしてきた。レヴィ・ストロースら「構造主義」が批判した「西欧中心主義」の考えをさらに推し進め、「脱構築」などの概念で「ロゴス中心主義」の歴史を批判的に検証してきた思想家だ。
 デリダはフランスの植民地だったアルジェリアのアルジェ近郊の地で生まれたユダヤ人だった。アルジェリアのユダヤ人はクレミュー法によって市民権を与えられ、フランス人植民者、他の欧州人に次ぐ階層に属していた。
 その「周縁」的な出自は、オーストリア・ハンガリー帝国領のプラハに生まれ育ち、ドイツ語で作品を書いたユダヤ人作家のフランツ・カフカによく似ている。帝国の周縁で生まれ、帝国の母語を使いながら、社会においては少数派という立場だ。
「デリダは、欧州の外部ではなく、縁(へり)で育ち、それを自覚せざるをえない立場にいた。そこから、権力が他者を排除し、暴力的に恫喝することを暴き、批判する視点が生まれた。私自身は60年代に青春期を送ってその時代の空気を吸い、戦争責任や植民地主義をどう考えるべきかを、思想的な課題として突きつけられた。その点で、デリダの批評精神と、ある程度リンクしたような気がする」
 欧州では戦後、思想家や知識人が問題を提起し、社会が長い歳月をかけてその問題を吟味し、政治的な決断に結び付くということがあった。高橋さんはその例として、敗戦直後にドイツの哲学者カール・ヤスパースが、「罪への問い」という論文でナチス・ドイツの罪を論じた例をあげる。ヤスパースは「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上の罪」に区別し、その審判者は最終的にそれぞれ、裁判所、戦勝国、個人の良心、神であると説いた。罪はひとつではなく、それぞれ個々の罪を贖ったからといって、他の罪の責任から逃れることはできないことになる。
「当時は敗戦で余裕がなく、その論文は関心を引かなかった。しかし1970年、当時西ドイツの首相だったブラントが議会でナチス・ドイツの過去を直視することを説き、ワルシャワを訪れてはゲットー英雄記念碑の前で両膝をついて黙祷を捧げたころから、西ドイツ社会が徐々に変わり始めた。1985年のワイツゼッカー大統領による『荒れ野の40年』は、ドイツ社会が長い時間をかけてヤスパースの問題提起に答えた結果です」
 高橋さんはフランスにおいても、似た事例があるという。シラク大統領は1995年、ナチス・ドイツ占領下、ヴィシー政権のもとでフランスが自国のユダヤ人をアウシュヴィッツに送るという「償えないことを犯してしまった」と認めた。これは、「ヴィシー政権はフランス共和国ではなかった」として、フランスの責任を認めなかったミッテラン政権までの立場を覆すものだった。
 シラク大統領の決断の背景には、フランスのユダヤ人哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチの思想があった。1960年代に、ナチスのショアーに加担した容疑者に時効が認められるかどうかがフランスでも激論を呼んだ。ジャンケレヴィッチは、「人道に対する罪」に時効はありえない、という論陣を張った。そこにあるのは、「無数の死者たちの運命は、私たち皆にかかっている。もし私たちが彼らのことを考えるのを止めてしまうなら、私たちは絶滅を完成することになるだろう」という思想だ。シラク大統領はのちに、ジャンケレヴィッチ夫人に感謝の書簡を送ったのだという。
 高橋さんの話を聞いて、日本の思想家、哲学者のことを思い浮かべようとした。戦後もある時期までは、戦争責任や、植民地責任について発言する人たちがいた。だが戦後50年を過ぎたころから、そうした発言は鳴りを潜め、代わって、「自虐史観」を糾弾する声高な発言が目立つようになった。第2次安倍政権のもとで、「歴史」は論争の対象ではなく、むしろ忌避のラベルがつけられるテーマになった。
 20世紀末には、欧米でオリエンタリズム批判、カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズム、フェミニズムなど新たな研究分野が次々に生まれ、「西欧中心主義」や「ロゴス中心主義」、「男性中心主義」の言説を批判的に分析する潮流が生まれ、数々の成果をあげてきたように思う。
 日本でも、若い世代を中心に、そうした研究手法で歴史や言説を分析する論文が数多く出た。
 だが、私が日本の研究に感じるのは「当事者性」の喪失だ。研究手法は目覚ましく、新たな領域を切り拓いているのに、なぜその研究をするのか、著者はどの立場で研究するのかが、見えてこない場合が多い。
 ショアー(ホロコースト)後のヨーロッパでは、「だれもが加担者になりえる」という重い歴史事実が思想家の課題となり、その問題から目を逸らして何かを論ずることは無意味か、不可能になった。新たな思想の潮流は、その思想的課題に対する苦闘から生まれたのだと思う。
 ではこの国で、そうした潮流を、思想課題と共に受け継ぎ、発展しようとするなら、それはホロコーストを論じるだけでなく、日本の戦争責任、植民地責任に、正面から向き合うことではないだろうか。
 たぶん、高橋さんは、そうした課題を誠実に引き受けた、数少ない思想家の一人なのだと思う。歴史認識をめぐるお話をうかがって、そんなことを感じた。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2aa9f5b70e376c7b316890549177975c505f3501

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150万円自腹を切って伝える。お笑いコンビ「アップダウン」を変えた特攻隊への思い

2020-08-16 | アイヌ民族関連
エンタメ総合 8/15(土) 10:34
 お笑いコンビ「アップダウン」が“笑いと歌で伝える戦争”をテーマに製作した二人芝居「桜の下で君と」を8月15日から22日まで無料配信します。2019年に初演し各地での公演が話題となり、今年3月から東京、福岡、北海道などで全国公演を開催予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で延期に。しかし、戦後75年の節目にどうしても伝えたいとの思いから、会場使用料や撮影費など約150万円を阿部浩貴さん(43)、竹森巧さん(42)が自腹で負担し、コンビのYouTubeチャンネル「アップダウンチャンネル」で無料公開することにしました。そこには生き方を変えるほど衝撃を受けた、特攻隊との不思議な縁がありました。
到底かけない文章
 竹森:9年前、鹿児島の「知覧特攻隊平和会館」に行ったんです。
 それまで、もちろんそういう歴史があったことは認識していましたけど、でも、実際はフワッとしか分かっていなかった。ただ、友人に誘われて「ま、ちょうど仕事もないし、せっかくだし一度行ってみようか…」くらいの感じで向かったんです。それが、生き方が変わるほどの衝撃をそこで受けました。
 当時、僕は33歳。特攻された方々は17歳から22歳ぐらいの若い人たち。書かれた遺書も読んだんですけど、言葉を生業にしている僕でも到底書けないような文章が綴られていて。変な表現かもしれませんけど、その遺書を見て、挫折感に苛まれたほどでした。いかに自分がのうのうと生きているかを思い知らされたというか。
 阿部:僕もこの芝居をやることになって知覧で遺書を読んだんですけど、当時は検閲もあるので、手紙の書き出しは“しっかり”書いているんです。「お国のために行ってきます」とか「男らしく散ります」とか。でも、後半になると、やたらと「お母さん」という言葉が続いたりして…。そこにリアルな感情が見えてくるんです。
 逆に、最後までとことん感情を抑えて書いている人もいて。それはそれで、胸に迫るものがある。とにかく“熱”と“気”にあふれた手紙ばかりで、理屈なしに胸に刺さりました。
29歳の特攻
 竹森:9年前、僕が最初に行った時に何とも不思議なだったのは、会館に特攻隊の方々の写真が1000人くらい並べられてるんですけど、その前を何回行き来しても、常に、ある一人の写真が目に留まるんです。
 「なんで、この人ばかり気になるのか…」と思ってその人の半生を調べたら、当時、自分が悩んでいたことを解決するヒントのど真ん中みたいなことがたくさんありまして。
 少し長くなっちゃうんですけど、そもそも僕は芸人にはなりたくてなってないんです。親への反発で芸人の道を選んだんです。なので「芸人でトップを目指すぞ!」といった他の芸人とは感覚も違うし、いったい自分が何のために芸人をやっているのかが見いだせない時期でもあったんです。
 その写真の方は藤井一(はじめ)中尉という方で、特攻に行ったのが29歳の時。特攻隊としては、ずば抜けて歳をとっていた。というのも、藤井中尉は特攻隊に教える教官だったんです。
 教官は士気を高めるために「お前たちだけを行かせるわけじゃないぞ。俺たちも後からお国のために向かうから先に待っててくれ」と言って教育するのが常だったと。でも、教官は次々と特攻隊を訓練しないといけないし、そうは言うものの特攻はしない。良い悪いじゃなく、それが当時の流れだったそうなんです。
 でも、藤井中尉は「言った手前、嘘はつきたくない」と特攻を志願した。でも、教官だし、そんな慣例もないし、却下されるんです。そして、却下される理由はもう一つあって、実は腕をケガしていて、操縦かんが握れなかったんです。
 でも、何回も志願しているうちに、奥さんと小さな娘さんたちが「自分たちがいるからお国のために戦えないんじゃないか」と思って自殺してしまうんです…。そこまでのことがあったので、さすがに軍も藤井中尉の思いを受け入れて特攻を認めたんですけど、操縦はできない。
 結果、どうやって行ったのかというと、2人乗りで行ったんです。操縦席の後ろに乗って。正直、この話を聞いた時に、僕は「犬死だろ」と思いました。何のために行くのか分からない。
 ただ、さらに詳しい話を聞くと、この話には後日談があって。戦争から数十年後に知覧におじいちゃんのアメリカ人がやってきたそうなんです。「話したいことがある」と。
 実は、その人は特攻隊に激突されて沈没した戦艦に乗っていたアメリカ兵だったんです。仲間はたくさん死んだけど、自分は命からがら生き延びた。今、日本兵に対して敵意はない。自分の国を守ろうとした思いは同じだし、むしろ、戦友だと思っている。純粋に、その時の話を伝えたいんだということでやってきたと。
 戦艦が沈没した日、たくさん特攻機が飛んできた。こちらも必死に撃ち落とし、1機減り、2機減り、5機減りと、何とか撃墜していった。そして、最後の1機になったが、その1機がなかなか撃ち落せない。でも、どうにか撃ち落して「やったー!」となったが、そこから海面スレスレで立ち直って、火を上げながら戦艦に追突して沈没させられた。そして、その時にはっきり見えたのが、その機は二人乗りだったと。
 後ろから教え子に指示をしていたのか、励ましたのか、何か見えない力が働いたのか。それは分からないけど、結果、2人乗りの特攻機が任務を果たした。
 その話を聞いた時、瞬間的に「意味のないことなんてないのかもしれない」と思ったんです。ということは、自分が芸人になったのも、やりたくてやった仕事じゃないのも、全てに意味があるんじゃないか。そう強く思ったんです。
 そこから、これはもう説明のしようもないんですけど、なぜか、役者の仕事が来て、それが特攻隊の役だったり。何かの力に導かれているとしか思えないことが続きまして。これは僕らが何かをやらないといけないんだろうなと思うようになったんです。
笑いの意味
 阿部:その頃から、芝居のお仕事もいただくようになって、ミュージカルもさせてもらったりした。そして、相方は音楽の仕事もするようになった。そういうものを一つにして、二人だけで2時間くらいの舞台ができないか。1分ネタ全盛の時だったんですけど、コンビとしてそんなことを考えていたんです。それが5年前ほどのことです。
 それを受けて、2018年に初めて二人芝居をやったんです。僕らは北海道出身なんですけど、北海道命名150周年というタイミングで北海道のこれまでの歴史を歌と笑いを入れながら伝えるというコンセプトで。
 アイヌのお話も出てきますし、テーマとしては非常に繊細なものでもあったんですけど、やってみて実感したのは笑いの力でした。笑いを入れることによって、難しいテーマでも若い世代が最後まで集中して見てくれるとか、メッセージが伝わりやすくなる。自分たちがやってきた笑いというものには、こういう力もあったんだと思い知らされたと言いますか。
 竹森:そういう文脈があって、北海道の物語に続く新作を作ろうとなった時に、特攻隊を題材にしようとなったんです。そこでようやくパズルのピースがぴったりハマったというか。
 去年初演で、今年は10公演やる予定だったんですけど、コロナで延期になりまして。ただ、今年は終戦75年と言う節目でもある。世の中には残すべきもの、伝えるべきものがあるんだろうな。今、吉本興業の劇場もなかなか本来の形には戻っていないし、あらゆるエンターテインメントが中止や延期を余儀なくされてはいるけど、その中でも、何かできる方法はないのか。
 それを今一度考えて、無観客で、無料で公演を配信する。公演の配信なんてやったこともなかったけど、なんとか、頑張ったらできるんじゃないか。そんな思いから、今回の流れになったんです。ものすごく長い説明でしたけど(笑)。
 阿部:でもね、作品を作るにあたって、いろいろな方に取材をして思ったのは、当時の若者も今の若者と変わらないんです。空襲警報が鳴って防空壕に入っても、中でふざけあったり。普段は本当にバカみたいなことを言いあって遊んでたり。本当に、今の若者と変わらない。でも、当時は、生きたくても生きられない人がたくさんいた。それが今とは違うところです。この事実をただただ伝える。それが僕らがやる意味だと思っています。
 竹森:あと、意味という部分で言うと、笑いへの影響も確実にありますね。今までだったら、面白いボケとか、面白い設定とかに執着していたところがあったんですけど、ほんの些細なことでも、緩急さえつけられればドーンと笑いに繋がる。それは二人芝居をやることによって、新たに付け加わったパーツだと思います。
 阿部:それと、シリアスな部分もある二人芝居をやることによって、スベることへの耐久力はつきました。芸人って、笑いがない時間が続くと焦るんですけど、2時間の二人芝居の中には、笑いがないパートもありますから。そこそこの時間、笑いが起きなくても大丈夫。たとえ、本当にスベってるぽくても「今は芝居のシリアスパートをやっていたんだ」と思ったら、なんてことないです!そんな意外な効能も二人芝居にはあったりしました(笑)。
(撮影・中西正男)
■アップダウン
1977年4月20日生まれの阿部浩貴と78年3月1日生まれの竹森巧のコンビ。ともに北海道出身で高校の同級生だった2人が96年に結成。吉本興業所属。阿部はフジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした」の「第11回細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で優勝。竹森は音楽活動も行い、2017年には岩崎宏美に「絆」を楽曲提供してもいる。「笑いと歌で伝える戦争」をテーマに製作した二人芝居「桜の下で君と」を8月15日から22日までYouTubeの「アップダウンチャンネル」(https://www.youtube.com/channel/UCIn1-2UWVGkU6gQiRNoj5bA?view_as=subscriber)で無料配信する。
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakanishimasao/20200815-00193323/

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北方四島の美しさを歌に 函館のユニット「カポ」 返還の願い込め

2020-08-15 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/14 11:40
 【函館】8月の「北方領土返還要求運動強調月間」に合わせ、函館市を拠点に活動する2人組の音楽ユニット「カポ」が、北方四島をテーマにした「エトピリカの歌」を制作した。祖先が択捉島の網元で、領土返還運動に携わってきた函館市の駒井惇助(じゅん すけ)さん(86)の思いに応えた。歌を通じ、手付かずの自然が残る四島の魅力を伝え、領土問題に関心を持ってもらうのが願いだ。
 楽曲の歌詞には、北方四島の一部に生息する希少な海鳥エトピリカが見た島々の光景が描かれている。四季折々に咲くチシマザクラやハマナス、近海を泳ぐサケ・マスの群れのほか、択捉島の最北端にあり、アイヌ語が由来の地名「カモイワッカ岬」も登場し、北方四島とアイヌ民族の深いつながりも紹介している。
 駒井さんは函館生まれ。曽祖父から父までが択捉島で漁業を営んでいた。「祖先の漁場を取り戻したい」との思いから、北方領土復帰期成同盟渡島地方支部(函館)の事務局長を40年間務め、現在は同島の漁業関係者でつくる択捉島水産会(同)の代表管理役。
 講演などを通じ、領土問題を考えてもらう活動を続けてきたが、参加者から「北方四島はどんな場所なのか」といった質問を何度も受けた。「領土問題に関心を持ってもらうには、何より島のことを知ってもらう必要がある」。昨年11月にカポの2人と知り合い、曲作りを依頼した。
 作詞作曲はカポのギター兼ボーカルの高島啓之(ひろゆき)さん(51)が担当した。北方四島については「ほとんど知識がなかった」が、駒井さんが所有する戦前の島の資料や、ビザなし交流で撮影された択捉島の写真などを見てイメージを膨らませた。「故郷へ自由に帰ることができない島民の思いや、水産業をはじめ北方四島が経済に果たす役割を知ることができた」と振り返る。
 曲を聴いた駒井さんは「四島の風景が描かれ、若い人たちが行ってみたいと思ってもらえるのでは」と仕上がりに満足する。
 子供たちに親しんでもらえるよう、曲は童謡調の明るいメロディーにし、ボーカルの土橋亜央(あみ)さん(47)が優しく語り掛けるように歌う。新型コロナウイルスの影響で、聴衆を前にした機会は限られているが、高島さんは「動画で演奏する姿を見てもらうなど、今できる形で島の素晴らしさを伝えていきたい」と話す。
 曲は択捉島水産会が29日午後1時半から、函館市地域交流まちづくりセンターで開く「択捉島アイヌ民族を知る講演会」で、カポが歌う映像を流してお披露目する。入場無料。CDも販売予定で、問い合わせは、同会(電)0138・23・0080へ。(池野上遥)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/450344

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鬼畜扱い理不尽な差別 被爆者の苦悩に共感 アイヌ活動家 宇梶静江さん(87)

2020-08-15 | アイヌ民族関連
読売新聞 2020/08/15 05:00
 生まれ育った荻伏村姉茶(現浦河町)はとても美しかった。プクサ(ギョウジャニンニク)などの薬草や、白や黄色のかれんな花があちこちに顔をのぞかせ、私たちアイヌは自然に感謝しながら、のどかに暮らしていました。
 食べ物や布が足りなくなり始めたのは1941年、小学2年の頃。食料や衣類にするため、タヌキやシカなどの動物もみな捕り尽くしてしまいました。
 《この年6月に独ソ戦、12月には太平洋戦争が始まった》
 小学3年の時、赴任してきたばかりのやさしい先生が召集され、帰ってきませんでした。「自然は破壊され、大切な人は帰ってこない。これが戦争か」。幼心に戦争の足音をじわじわと感じ始めていました。
 学校の廊下には、赤ら顔の鬼の絵と「鬼畜米英」という文字が書かれた大きな紙が貼られ、校長先生は「アメリカのアイヌ」と呼びました。アイヌは鬼畜と同列にされたのです。
 戦況の悪化とともに、近所のアイヌたちも出征しました。日常では鬼畜扱いされるのに、戦争では和人と同等にかり出されるなんて理不尽なものです。
 暮らしも困窮を極めました。石油の代わりにサメの油でランプをともし、ワカメとトウモロコシで飢えをしのぎました。
 配給で出される米は、外米で、父は「こんなまずい米を子どもに食わせられるか」と一念発起し、本業の昆布採りとは別に農業も始めました。妻子7人を支えようと、父は働き過ぎて倒れたこともあります。私も田植えや刈り取りなど働きづめで学校の欠席が続き、ついに卒業証書は受け取れませんでした。
 終戦の日の午後、畑仕事を手伝っていると、近所のアイヌのおばさんが「日本が負けた。悔しい」と言って、去っていきました。母は「子どもたちにつらい思いをさせてきた戦争が終わったなら、こんなにいいことないさ」と受け止めていました。
 でも実際は、戦後も状況は変わらなかった。食べるものがない戦争孤児や朝鮮人を、うちでしばらく預かったこともありました。私が働き先を探したら、アイヌだから、中学校を出ていないから、と断られました。
 《19歳の時、札幌市内の私立中学校に入学を直談判。20歳で入学が許された。1956年に23歳で卒業後、東京に出て、喫茶店で働き始めた》
 当時住んでいたアパートに、妊娠して結婚を控えている長崎県出身の女性がいてね。でも、ある日突然、「破談になった」と泣きそうな顔をして報告してきました。
 彼女が静かに差し出した腕には、吹き出物のような痕がありました。被爆による後遺症で、婚約者の両親から「被爆者の嫁はいらない」と言われたそうです。彼女の生きづらさにアイヌと似たものを感じ、後にヒバクシャをモチーフにした詩を発表しました。それは、私が一生涯かけて、「アイヌ同士で痛みを分かち合い、差別の原因をともに考えよう」と呼びかける活動のきっかけになりました。
 戦争や差別は、自由や生きる権利、人の情を徹底的に奪い、心や生活を貧しくするだけで何も生みません。未来を担う若い人たちには、どうかそのことを覚えていてほしいと願っています。(聞き手・平井翔子)
 うかじ・しずえ 1933年、浦河町生まれ。72年、新聞への投稿を通じ、アイヌの結束を呼びかけた。以来半世紀にわたるアイヌの精神性を伝える活動が評価され、今年7月、後藤新平賞を受賞した。
https://www.yomiuri.co.jp/local/hokkaido/feature/CO046394/20200814-OYTAT50093/

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『大地よ!』宇梶静江著 アイヌとして真に立つまでの軌跡

2020-08-15 | アイヌ民族関連
山陽新聞 (2020年08月14日 07時08分 更新)
 水や火や風を尊び、大地と「添寝」してきたという先住民、アイヌ。現代社会に生きる私たちは、いまこそアイヌの精神性や感性に学ぶべきではないのか。アイヌとして生きる87歳の女性、詩人で古布絵作家の宇梶静江が自らの半生をつづった『大地よ!』を読み、そんな思いを抱いた。
 北海道・浦河町に1933年に生まれた著者は、誇り高いアイヌの魂を持つ両親に愛されて育った。子どものころは、夏は浜辺の村に、それ以外の季節は姉茶(あねちゃ)という村里で過ごした。6人きょうだいの上から3番目、幼いころは病弱だったが、成長するにつれてどんどん健康になっていった。
 暮らしは楽ではなかった。学校へ行っても和人の先生や同級生からいじめられるのでまともに行く気になれず、また生活のために小さいころから働かねばならなかった。
 和人によって、あるいは日本政府によって、アイヌは土地や言葉、生活習慣まで奪われ、人間としての尊厳を傷つけられてきた。第2次大戦中の生活は、さらに厳しくなった。
 11歳の時のこと。街にお使いに出た著者に、同年代の姉妹がすれ違いざま「アッ、“犬”が来た!」と言った。著者は動けなくなった。
 すさまじい差別と抑圧。でも常に学ぶことへの渇望があった。その思いがかなったのは戦後になってから。53年、20歳のときにやっと、札幌にある中学に入学した。
 中学卒業後に上京し、27歳で結婚。やがて詩作を始める。詩を書くことは、一つの解放だった。だが、アイヌのことは伏せていた。どう表現すればいいのか分からなかったのだ。
 そんな「内なるアイヌ」が臨界に達したのだろう。72年、「ウタリたちよ、手をつなごう」と題した文章が新聞に掲載されて、注目を集める。出自を隠して生きる同胞に向けて、連帯と解放への取り組みを呼びかける投稿だった。同時期に書いた詩「灯を求めて」は、こう結んだ。「いま私は大地にたつ」
しかし壁は厚かった。「自分たちは、別に“アイヌ”として生きたいとは思っていない。どうか放っておいてほしい」という同胞が大半だったのだ。彼らが抱えているであろう空虚は、自分の中にもあった。
 63歳で古布絵と出会ったことが、最大の転機となったようだ。アイヌの村にいるときに遭遇したシマフクロウを描こうと思った。真っ赤な目のシマフクロウに「アイヌはここにいるよ、見えますか?」という意味を込めた。それが彼女を再生させた。古布絵には、アイヌ刺☆(糸ヘンに肅)でアイヌの叙事詩・ユーカラを織り込んだ。
 いったんは手放した詩作も取り戻した。「天から零れ落ちてきた言葉の雫を、静かに私が受け止めて書き留めたような言葉」を刻んでいった。
 古布絵と詩という表現によって、アイヌらしく、真に大地に立ったのだ。
(藤原書店 2700円+税)=田村文
https://www.sanyonews.jp/article/1041515

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<金口木舌>島国の苦境

2020-08-15 | 先住民族関連
琉球新報 2020/08/14 06:00
 美しい海とサンゴ礁に囲まれた島。かつてはサトウキビが基幹産業だったが、今は観光が島の経済を支える。人口は約130万人。日本から約1万キロ離れたインド洋の島国モーリシャスだ▼今、この国が苦境にある。沖合で商船三井が運航する日本の大型貨物船が座礁し、燃料の重油が大量に流出した。同国政府は「環境緊急事態」を宣言した。多くの住民がサトウキビの葉を束にして重油をかき集めているという
▼流出した海域の近くにはサンゴ礁が広がり、沿岸部には国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約に指定された地区もある。自然環境への影響は甚大だ
▼モーリシャスは英領ディエゴ・ガルシア島に住んでいた先住民族チャゴス人が、英国政府によって強制移住させられた島でもある。米軍基地建設のためだった。沖縄でも戦後、住民が収容所に隔離されている間に基地が建設されている
▼重油流出といえば1997年、ロシア船籍タンカー「ナホトカ」の事故で日本海沿岸が汚染された。環境や漁業を守るため住民らが総出で油を回収した。沖縄でも2018年、東シナ海での石油タンカー事故後に油が漂着した
▼ただ今回は日本側が被害を与えた事故だ。政府は国際緊急援助隊6人を派遣したが、これで十分とは言えまい。遠い島国の苦境をわがことと考えれば、できることは多くあるはずだ。
https://news.goo.ne.jp/article/ryukyu/region/ryukyu-20200814060003.html

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アイヌ伝統の技 刀のさやに彫刻 実践講座【浦幌】

2020-08-15 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞 2020.08.14 
刀のさやにアイヌ文様を彫るラポロアイヌネイションの会員らを指導する清水会長(右)
 アイヌ民族の儀式で使われる伝統の刀「エムシ」の柄とさやを作る初めての実践上級講座「木彫・エムシ製作教室」の最終回が11日、浦幌町内の厚内公民館で開かれた。
 ラポロアイヌネイション(浦幌アイヌ協会から改称)と町立博物館が共催。エムシの製作技術を受け継ぐために開かれた。
 同ネイションの会員10人が参加。7月2日から8月11日までの計12回の作業で製作した。上士幌アイヌ協会の清水勇会長が指導した。
 エムシは、長さ約50センチの刀身に合わせ、スギの木で柄とさやを作り、モレウ(渦巻き)などのアイヌ文様を彫刻して仕上げた。完成したエムシは22、23の両日に行われる先祖の遺骨を埋葬するカムイノミ、イチャルパで帯刀する。
 清水会長は「アイヌ文化の大切さを分かってもらえたと思う。教えがいがあった」とし、同ネイションの長根弘喜会長は「自分の手で自分らしいものを作りたいとの思いで取り組んだ」と話していた。
http://www.hokkaido-nl.jp/article/18472

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アイヌ文化発信に活用 ホテルいずみで屋外ステージ完成祝賀会 白老

2020-08-15 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 2020/8/14配信
 白老町の虎杖浜温泉ホテルいずみ(福田茂穂社長)は10日、アイヌ古式舞踊を演じる屋外ステージの完成祝賀会をホテル内で開いた。白老町と登別市の首長や観光関係者が集まり、アイヌ文化発信のステージ誕生を祝った。  木製のステージ(幅10メー…
この続き:316文字
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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/26327/

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ウポポイにコロナの逆風 年間100万人目標、開業1カ月は3.5万人 予防最優先、予約制限で一部混乱

2020-08-14 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/13 11:03 更新
 【白老】国が胆振管内白老町に整備したアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」が12日で開業丸1カ月を迎えた。新型コロナウイルスの感染防止策で入場制限する中、10日までの来場者は3万5409人(11日は休館日)と、国が設けた年間100万人の目標達成は困難な厳しい船出となった。背景には感染対策で設けた複雑な予約方法もあり、ウポポイを運営するアイヌ民族文化財団(札幌)はシステムを見直す方針だ。
■手応え強調も
 ウポポイ運営本部の対馬一修本部長は12日、現地で記者会見し、「コロナ対策で制約がある中、多くの方々に来場してもらえた。アイヌの文化と歴史への関心の高さを改めて実感した」と手応えを強調した。
 ただ、来場者数の稼ぎ時とも言える開業1カ月の実績は1日平均1300人余り、最多でも4連休中の7月24日の2129人で、8月の休日は1300~1800人程度。国の年間目標を達成するには1日平均3千人以上、冬季の来場者減少を踏まえると夏季はそれ以上の来場者が必要となるが、感染症対策のために設けた1日の入場制限数(土日祝日2500人、平日2千人程度)を大幅に下回る日が続く。修学旅行の予約は680校6万5千人と好調だが、現状では年間目標の半数に達するかも微妙だ。
 対馬氏は「現状は感染対策の徹底を最優先にしたい」と強調するが、来場者が伸び悩む背景には首都圏などでの感染拡大に加え、コロナ対策で急きょ設けた複雑な予約システムもある。
 ウポポイに入場するにはネットで日付を指定した入場券を事前に購入し、なおかつ博物館は1時間当たり最大100人の入館券を事前に予約する必要がある。その結果、ウポポイに入場したものの、博物館は見学できずに施設を後にせざるを得ない来場者が続出。「ウポポイに入場すれば全ての施設を見られると思っていた。ウポポイ入場料には博物館の料金も含まれているのに納得いかない」などと苦情も相次ぎ、博物館の佐々木史郎館長は12日の会見で「予約方法の見直しを検討したい」と約束した。
■続く慎重判断
 感染対策で楽器演奏やアイヌ料理の食事など一部の体験プログラムを中止したことも足かせとなった。アイヌ文化にじかに触れられるウポポイの売りだっただけに、訪れた人からは「衣装の試着や食の体験ができないのは残念」との声が漏れた。財団は「感染状況を見ながら少しずつ体験を増やし、本来のプログラムに近づけていきたい」とするが、首都圏などで感染拡大が続く中、当面は慎重な判断を強いられる。
 一方、北大や東大などが保管していたアイヌ民族の遺骨と副葬品を収納した慰霊施設は、中核施設の博物館から約1・2キロ離れているため、訪れる人はまばらだ。明治時代以降、アイヌ民族の遺骨が研究名目などで無断で盗掘された差別の歴史を示す重要施設といえるが、国にとって「負の歴史」はウポポイPRで置き去りにされたままだ。
 感染対策に努めつつ、先住民族アイヌの歴史と現状をいかに幅広く伝えていくか、財団は当面、厳しいかじ取りを迫られそうだ。(斎藤佑樹)
■歴史伝え、担い手育成を アイヌ民族ら、期待と提言
 開業1カ月を迎えたウポポイにはアイヌ民族の関係者も文化発信拠点としての役割に期待を高めている。一方、言葉や文化が存立の危機にあることなどその歴史的背景や現状も含め先住民族アイヌへの理解を広げていくよう求める声は根強く、文化を継承・発展させる担い手育成の仕組みづくりも今後の課題だ。
 ウポポイを運営するアイヌ民族文化財団の理事で、旭川市の川村カ子(ね)トアイヌ記念館副館長の川村久恵さん(49)はウポポイの展示やプログラムについて「職員の熱意が感じられた」とする一方、「多くの人に見てもらうだけでなく、アイヌ民族への理解を促す教育施設としての役割もしっかり果たさないといけない」と話す。
 開業直前には、アイヌ民族が差別されてきた歴史について、萩生田光一文部科学相が「価値観の違い」と発言するなど政府内でアイヌ民族を取り巻く歴史や現状への認識不足も露呈した。川村さんは「来場者と丁寧に対話し、なぜアイヌ文化の復興拠点が必要になったのか、歴史的背景を含めて理解を促す取り組みを国が率先して行うことが不可欠だ」と訴える。
 ウポポイ中核施設の国立アイヌ民族博物館には、アイヌ民族の権利回復に努め、民族初の国会議員となった故萱野茂さんを紹介する展示もある。日高管内平取町の萱野茂二風谷アイヌ資料館長で、次男の萱野志朗さん(62)は、ウポポイについて「全国のアイヌが気軽に訪ね、自身のルーツや文化に触れ、探求できる拠点であることが大切だ」と強調。所蔵品や資料の開示などについてアイヌ民族のための仕組みづくりを求める。
 またアイヌ文化は、各地域のアイヌ民族がそれぞれに独自性を育んできたことを踏まえ、「各地で活躍する担い手を育てる体制づくりも重要だ」とも述べ、ウポポイだけではなく、各地域で担い手育成の学校や講座を展開することを提言した。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/450011

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【特集】「トナカイ」「ラッコ」「ノンノ」は実は『アイヌ語』 「日本の民族として伝えたい」“大阪アイヌ”が思うこと

2020-08-14 | アイヌ民族関連
MBSNEWS 8/13(木) 16:02配信

『アイヌ』という言葉を聞いて「北海道の先住民族?」「今もいるの?」などと思う方もいるかもしれませんが、実は大阪にも、アイヌの血を受け継ぐ人がいます。アイヌの文化や伝統を受け継ごうと、いわゆる「アイヌ新法」が施行され関心が高まりつつある今、“大阪アイヌ”が思うこととは。
民族共生象徴空間『ウポポイ』(北海道・白老町)
7月12日、北海道の白老町にオープンした民族共生象徴空間『ウポポイ』。北海道を中心に暮らしてきた先住民族アイヌの固有の文化を知ってもらおうと、工芸品や資料などが約1万点展示されています。国が約200億円を投じた一大事業なのですが、大阪の人はどのくらい関心があるのでしょうか、『ウポポイ』という言葉を知っているかどうか、街の人に聞きました。
【大阪の街の人】
「ウポポイ?生き物っぽい?」
「植物かな?」
「デザート?ハワイの。」
「夏の暑さをはらうのに『ウポポイ!』みたいな。」
まだまだ認知されているとはいいがたいようです。ちなみに『ウポポイ』とはアイヌ語で「大勢で歌うこと」という意味です。アイヌにルーツを持つ人は、現在日本に数万人~数十万人いるとされています。
大阪にも「アイヌ文化」を学べる施設が
実は大阪にもアイヌ民族について学べる施設があります。大阪府吹田市の国立民族学博物館です。ここでは、かつてアイヌが使っていた道具や衣服などが展示されています。
例えば、アイヌの伝統的な家屋『チセ』。北海道の寒い冬を乗り越えるための工夫が施されています。
「ヨシを使っています。空気をためこむようなストローのようになっていますよね。断熱性がある。冬でも外の寒さをこの厚みによって入れないことができると。」(国立民族学博物館 齋藤玲子准教授)
またアイヌは「アイヌ語」という独自の言語を持っています。文字を使わずに口頭で伝承されてきたということですが、現在の日本語の中にもアイヌ語がそのまま浸透して使われているものがあります。
「北の方の動物だとかは、元々はアイヌ語というものがたくさんある。『トナカイ』『ラッコ』『シシャモ』とか。あとは雑誌の『ノンノ』ってありますけど、“花”と言う意味のアイヌ語です。」(齋藤玲子准教授)
最近ではアイヌをテーマにした漫画「ゴールデンカムイ」が大ヒットし、幅広い世代で関心が高まっています。これがきっかけで足を運ぶ人もいるそうです。
アイヌ新法の施行を受け、博物館では現代の工芸家による作品などを展示するようになりました。アイヌは『現在も続く文化』だというメッセージです。
「こういう暮らしをしている人が、ずっと過去に閉じ込められているという誤解を与えてはいけないので、やはり今の人たちがどういう生活をしているのか、どうやってアイヌ文化を受け継ごうとしているのかをぜひ紹介したい。」(齋藤玲子准教授)
大阪に住む「アイヌ」
大阪府羽曳野市に住む藤戸ひろ子さん(44)。北海道釧路市で生まれたアイヌです。藤戸さんは小さいころからアイヌのコミュニティで歌や踊り、手仕事を教えてもらいました。今の生活にもアイヌ文化が息づいていました。
藤戸さんの愛犬・イタ(9)の名前の由来は、アイヌ語の「イタク」で「話す」という意味です。
藤戸さんが料理を作ってくださいました。
「ユクオハウ(鹿肉の汁物)を作ります。元々アイヌ民族の主食とも言われていたものなんですけど。」(北海道出身のアイヌ 藤戸ひろ子さん)
材料はジャガイモやタケノコなどの野菜に、実家の北海道から送ってもらったという鹿肉。味付けは昆布の出汁と塩というシンプルな汁物です。さらに、鹿肉とギョウジャニンニクが入った手作りのソーセージ、特別な時に食べていたとされるジャガイモで作った団子「シト」などいずれも伝統的なアイヌ料理です。
藤戸さんは長男の大貴くん(13)と長女の若夏菜さん(10)の3人で暮らしています。
「(2人の子どもは)大阪アイヌです。生まれも育ちも大阪だけど、アイヌの血を受け継いでいるので、それはね、偽りでもなんでもないので。」(藤戸ひろ子さん)
(Q学校でアイヌを何と話しているの?)
「アイヌの血を引き継いでるでって。」(大貴くん)
(Q自分がアイヌであることをどう思う?)
「うれしい。珍しいから。」(大貴くん)
「きょうから遊べない」日常的にあった差別
藤戸さんが小さな頃はアイヌ民族への差別が日常的にあったといいます。
「その日まですごく仲が良い友達が、次の日の朝になったら急に『きょうから遊べないから』って言われたりね。『なんで?』って聞くと、『だってアイヌでしょ。親が遊んじゃいけないって言われたから』っていうね。アイヌだから仕方がないかっていう気持ちで過ごしていたので。」(藤戸ひろ子さん)
明治維新以降、政府は一方的に北海道の開拓に乗り出し、川でのサケの捕獲を禁止したり日本語の使用を強制したりと、アイヌ民族に対して同化政策を進めてきました。それが差別を生むことにもつながりました。
「アイヌ」が知られていない現実に衝撃 自分のルーツ見つめなおすきっかけに
結婚を機に28歳で大阪へやってきた藤戸さんですが、今度はあまりにもアイヌが知られていない現実に衝撃を受けたと言います。
「『アイヌって実際にいたの?』とか、『物語だけの世界じゃなかったの?』とか、『まだ生きている人がいたの?』って言われるくらいだったんですよ。大阪に来て。そんなに差がある?って。」(藤戸ひろ子さん)
大阪に来たことが自分のルーツを見つめなおすきっかけになりました。現在は学校での講演会や刺繍教室などを開き、アイヌ文化を広める活動をしています。
2人の子どもも揃ってアイヌ文化に興味津々です。
「エムシ(刀)とエムシタラ(刀の帯)で、こうやって(刀を出したりしまったりして)音を鳴らして、刀の帯をぶら下げて踊る。」(大貴くん)
(Q(刀の)どこがおすすめ?)
「ここ(刀の柄)!」(大貴くん)
「鹿の角!」(若夏菜さん)
「こっち(刀の帯)を母さんが作って、こっち(刀)をじいじが作った。」(大貴くん)
子どもたちが学校で自らアイヌだと発信することに、うれしい反面、複雑な思いもあるようです。
「いつ自分のようになる(差別される)だろうかっていう不安はやっぱりあるけど、自分たちがアイヌのことを伝えたければ伝えていいし、嫌だったらそこでやめてもいいし。でも受け継いでいる血はやめることはできないし、残っていくものなので。ただそれだけはちゃんと感じ取ってもらえたらなとは思いますね。」(藤戸ひろ子さん)
「日本という国の中での民族として知ってほしい」
漫画やウポポイでアイヌへの関心は広がりつつあります。藤戸さんは観光や一時的なブームで終わらないでほしいと願っています。
「自分たちの住んでいる日本には、違う言葉を持ち違う文化を持っている人たちがいるんだっていうのを、北海道じゃないからアイヌ民族とは大阪はあんまり関わりないからじゃなくて、日本という国の中での民族としてやっぱり知ってもらいたい。」(藤戸ひろ子さん)
(8月12日放送 MBSテレビ「Newsミント!」内『特集』より)
https://news.yahoo.co.jp/articles/c76d173338ee4e4571858389f80dd90e3ed022c8

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