「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

楽譜で音楽を聴く?

2021年06月16日 | 音楽談義

それほど好きな作家でもないのだが、いつも気になるのが「村上春樹」さん。

たいへんな「音楽通」なので、このブログでも音楽の話題となると度々登場していただく。


今回は「村上春樹インタビュー集」~夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~が面白かった。1997年から2011年にかけて、19本のインタビューが紹介されている。

               

つい読み耽ってしまったが、185頁に音楽ファンにとっては実に興味のある問答が収録されている。

「20世紀の偉大な文学作品の後にまだ書くべきテーマがあるでしょうか?文学にはもはや書くべきテーマも、言うべきものごともない、という意見に同意されますか?」と、一人の外国の愛読者が発する「底意地の悪い」問いに対して村上さんはこう答えている。

「バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。」

卓見だと思います、さすが!(笑)

(ふと「人生はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン以外の作品を聴くにはあまりにも短すぎる」という言葉を思い出した。)

さらに続くが、長くなるので要約すると


「音楽を作曲したり物語を書いたりするのは”意味があるからやる、ないからしない”という種類のことではありません。選択の余地がなく、何があろうと人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」とある。

文学的には、村上さんが理想とする書いてみたい小説の筆頭は「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)だ。

村上さん曰く「世の中には2種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことがある人とない人です。」

それほどの小説であり、物語に必要なすべての要素が詰まっているが、以降、これ以上の文学作品は出現していない。

そのことを念頭に置いて回答しているわけだが、興味を引かれるのは音楽的な話。


「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人組に対して、はたして他の作曲家の存在意義とは?」

これはクラシック音楽における永遠のテーマではないだろうか。

ほかにも「ブラームス、ワーグナー、マーラー、ブルックナーなどが居るぞ」と、いくら声高に叫んでみても結局のところ前記「三人組」の後世に及ぼした影響力と重量感にはまったく抗しようがないのも、なんだか虚しくなる事実である。


本書には、もうひとつ音楽に関して興味あることがあった。(312頁)

村上さんは映画が好きで青春時代に台本(シナリオ)を読み耽ったそうだが、それが嵩じてそのうち自分なりの映画を空想の中で組み立てていくクセがついてしまった。

それは、近代音楽の雄であるアーノルド・シェーンベルクが「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ。」と、言っていることと、ちょっと似ているとのこと。

「実際の音は邪魔だ」とは実にユニークな言葉。


「楽譜を読みながら音楽を頭の中で想像する」ことが出来れば実にいいことに違いない。第一、それほど広くもない部屋の中で我が物顔で大きなスペースを占めているオーディオ・システムをすっかり駆逐できるのが何よりもいいし、金銭的にも大いに助かる(笑)。

文学は「行間を読む」、つまり文字という記号で行間の意味を伝える仕組みになっているが、音楽だって音符という記号で情感を伝える仕組みだから似たようなものかもしれない。

したがって、楽譜が読める音楽家がオーディオ・システムにとかく無関心なのもその辺に理由があるのかもしれないし、人間が勝手に描くイマジネーションほど華麗なものはないので、頭の中で鳴り響く音楽はきっと素晴らしいものに違いない。

これからはオーディオを排除しないまでも、できるだけ頭の中で創造しながら聴くことにしようとも思ったが、自分のような即物的な人間にはやっぱり無理そうですね
(笑)。



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