「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

いつも大事な時の「後知恵」(あとぢえ)で困る

2024年07月16日 | オーディオ談義

我が家のオーディオって「シーソー」の両端に座っているようなものではなかろうか・・、と思うことがある。

どういう意味なのか・・。

このところ、よく聴いていたのは大型スピーカーと新しいウッドホーンの組み合わせ。



目新しさも手伝って、まったく不満は無かったのだが、1週間ほどすると変化が欲しくなって次のようなスタイルへ~。



大型スピーカーから小型スピーカーへと極端な変わり様~、まるで「シーソー」遊びみたいです(笑)。

「PL100」(英国モニターオーディオ)+口径20cmのサブウーファー(ハイカット100Hz)

大型スピーカーに求めても得られないものが小型スピーカーには有り、その逆も当然有りうるというわけですね。

で、前者に求めるものは、「ゆとり」と「スケール感」で 細かいちまちま したことは気にせずにゆったりと音楽に浸れるところが素敵。

その一方、後者の小型スピーカーに求めるものは、シャープな音像と繊細な表現力である。

この両方が備わっているスピーカーがあればそれがベストだと思うが、世の中にはそういうスピーカーは存在しないと思っている。

まあ自分が知らないだけかもしれないけどね・・、それに求めるレベルも各自で違うし~(笑)。

で、この小型スピーカーを3台の真空管アンプで鳴らしながら1週間ほど聴いてみたのだが、そのうち悪くはないんだけどうも食い足りなくなる・・、何だか無理して音を出している印象を受けてしまう。もっと自然な響きが出せないものか~。

というわけで、とうとう二転三転後の落ち着き先はこれに~。



これでいろんな不満も万事解決~(笑)。

いわばシーソーゲームの中点の「支え」になっている感じで、スピード感、繊細な再生、適度な量感、そして楽器の音色をそのまま出す表現力のバランスの良さにウットリさせられる、やっぱりコレコレ・・。

そして、いつの間にかスピーカーの存在をすっかり忘れて音楽に聴き耽っている。

この音なら永遠に続けてもいい~(笑)。

それに、手がかかる子供ほど可愛いというが、この「AXIOM80」も釣り具の仕掛けのように独自の工夫を施している。

というのも、通常このユニットはそもそも箱に容れて微妙に背圧を利用しながら低音を出すツクリになっている。

したがって裸で鳴らすなんて論外だが、それを知らなかったために初めの頃に平面バッフルに取り付けて鳴らしていたときに
音量を少しでも大きくするとすぐに故障して、ガサゴソとノイズが出だしたものだった。

修理費用が1回あたり「2万5千円」なり~、こういう繰り返しを懲りずに4回ほど繰り返してきたが近年はまったく無縁である。

何故なら故障しないコツを掴んだからで、上記の画像を御覧になっていただくと判ると思うが、ユニットの後部にあたる植木鉢の中に はみ出ない ように工夫して吸音材(羽毛)をぎゅうぎゅう詰めに押し込んでいる。

すると、容れないときに比べてシットリとした湿り気のある響きに変化するのが不思議・・、むしろ箱に容れて鳴らすときよりも自然な印象を受ける。

そして「100ヘルツ以下」を口径20cmのユニットが入った箱で心持ち補ってやる。

もちろん故障とは無縁だし場所も取らない・・、「AXIOM80」にはこの鳴らし方がベストじゃないかしらんと自惚れているのもご愛嬌~(笑)。

「AXIOM80」をお持ちの方で、現状にご不満をお持ちの方や飽いてきた方はぜひ試してご覧あれ~。手間は別として、お金は木製の植木鉢代だけだからね~(笑)。

シマッタ・・、6月に「AXIOM80」を聴くためにわざわざ岡山県からお見えになったお客様にこのスタイルで聴いてもらうと良かったのに~、いつも大事な時の「後知恵」で困るんだよねえ(笑)。



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付け入るスキを与えない作品

2024年07月15日 | 音楽談義

「クラシック音楽がすーっとわかるピアノ音楽入門」(山本一太著、講談社刊)を読んでいたところ、「ベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ」について次のような記述(95~96頁)があった。

          

~以下引用~


『ベートーヴェンは、1820年から22年にかけて「第30番作品109」、「第31番作品110」、「第32番作品111」のピアノ・ソナタを書き、これらがこのジャンルの最後の作品となった。

この三曲をお聴きになったことのある人なら、これが現世を突き抜けた新しい境地で鳴り響く音楽だとして理解していただけると思う。

とにかくこういう超越的な音楽の神々しさを適切に美しく語ることは、少なくとも著者には不可能なので、簡単なメモ程度の文章でご容赦ください。
ベートーヴェンの晩年の音楽の特徴として、饒舌よりは簡潔、エネルギーの放射よりは極度の内向性ということが挙げられる。

簡潔さの極致は「作品111」でご存知のようにこの作品は序奏を伴った堂々たるアレグロと感動的なアダージョの変奏曲の二つの楽章しか持っていない。ベートーヴェンは、これ以上何も付け加えることなしに、言うべきことを言い尽くしたと考えたのだろう。

こんなに性格の異なる二つの楽章を、何というか、ただぶっきらぼうに並べて、なおかつ見事なまでの統一性を達成しているというのは、控え目にいっても奇跡に類することだと思う。

もっとも、この曲を演奏会で聴くと、何といっても第二楽章の言語に絶する変奏曲が私の胸をしめつけるので、聴いた後は、第一楽章の音楽がはるかかなたの出来事であったかのような気分になることも事実だが。』

以上のように非常に抑制のきいた控え目な表現に大いに親近感を持ったのだが、「音楽の神々しさを適切に美しく語ることは不可能」という言葉に、ふと憶い出したのがずっと昔に読んだ小林秀雄氏(評論家)の文章。

「美しいものは諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。」(「美を求める心」より)

いささか堅苦しくなったが・・(笑)、自分も「作品111」についてまったく著者の山本氏と同様の感想のもと、この第二楽章こそ数あるクラシック音楽の作品の中で「人を黙らせる力」にかけては一番ではなかろうかとの想いは20代の頃から今日まで一貫して変わらない。

とはいえ、ベートーヴェン自身がピアノの名手だったせいか、ハイドンやモーツァルトの作品よりも技術的には格段にむずかしくなっているそうで、標記の本では「最高音と最低音との幅がドンドン大きくなっている」「高い音と低い音を同時に鳴らす傾向が目立つ」といった具合。

言い換えるとピアニストにとっても弾きこなすのが大変な難曲というわけで、聴く側にとっては芸術家のテクニックと資質を試すのにもってこいの作品ともいえる。

以前のブログでこの「ソナタ作品111」について手持ちのCD8セットについて3回に分けて聴き比べをしたことがある。

そのときの個人的なお気に入りの順番といえば次のとおり。

 
 1 バックハウス  2 リヒテル  3 内田光子  4 アラウ  5 ケンプ  6 
ミケラジェリ  7 ブレンデル  8 グールド


         

       


ちなみに、天才の名にふさわしいピアニストのグールドがこのベートーヴェンの至高のソナタともいえる作品でドンジリというのはちょっと意外・・。

しかし、これは自分ばかりでなく世評においてもこの演奏に限ってあまり芳しくない評価が横行しているのだが、その原因について音楽好きの仲間が面白いことを言っていた。

『グールドはすべての作品を演奏するにあたって、いったん全体をバラバラに分解して自分なりに咀嚼し、そして見事に再構築して自分の色に染め上げて演奏する。

だが、この簡潔にして完全無欠の構成を持った「作品111」についてはどうにも分解のしようがなくて結局、彼独自の色彩を出せなかったのではないだろうか。』


グールドの演奏に常に彼独自の句読点を持った個性的な文章を感じるのは自分だけではないと思うが、この「作品111」にはそれが感じられないので、この指摘はかなり的(まと)を射たものではないかと思っている。

天才ともいえる演奏家がどんなにチャレンジしても分解することすら許さない、いわば「付け入る隙(すき)をまったく与えない」完璧な作品を創っていたベートーヴェンの晩年はやっぱり凄いと思う。



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音のスピード感、繊細な表現力、適度な量感のマッチングを求めて

2024年07月14日 | オーディオ談義

オーディオ機器に求めるものといえば当然「性能」なんだけど、趣味の世界なのでどうしても好き嫌いの「感情」が伴ってくる・・、で、どちらを優先させるかといえば、我が家では後者の方かな~。

もちろん両者が揃っていればいうことなし・・、実例をあげてみよう。

先日のこと、オークションにワーフェデール(英国)の口径38センチ(15インチ)のユニットが1本出品されていた。

お値段は「13,800円」と超安いうえに、音がメチャいいとされている「赤帯マグネット」付き!

我が家のウェストミンスターに使えそうなユニットなので落札したいところだが、なんといってもペアとしてあと1本欲しいところ。

そこでヨーロッパのSPユニットに関して独自の輸入ルートをお持ちの「T」さんに伺ってみた。

「現在オークションにワーフェデールの口径38センチのユニットが1本出品されてます。落札したいのですが、ステレオ用としてあと1本欲しいところです。

そこで、T様のルートから同じ口径38センチが手に入る可能性はありますでしょうか。まことに勝手のいいご相談ですが、いかがなものでしょうか。」

すると、ご親切にも次のような返信があった。

「お元気ですか。

ご照会の件ですが、当該のオークションも覗いてみましたが、アルニコの15インチタイプはなかなか見つけられないと思います。

15インチはどちらかというとアメリカ人好みのようで、イギリス国内では、Wharfedaleに限らず、15インチのユニットそのものが、あまり見受けられないように思います。

ご期待にそえず申し訳ありませんが、これに懲りず、また何かありましたら、いつでもご照会なり、ご相談なりしてください。 では、失礼いたします。」

というわけで、手に入れるのが難しいとなればオークションの出品物を諦めざるを得ない。1本だけではどうしようもないしねえ~。

さて、ここで何が言いたいのかといえば、イギリスでは15インチ(38センチ)のユニットがあまり見受けられないということ。

たしかにグッドマンやワーフェデールなどの有名どころにしても、15インチがあることはあるがめったに見かけないし、有名なタンノイにしても使えるのは往年の「モニター・シルヴァー」か「レッド」、せいぜい「ゴールド」あたりまでだろう。

後日、この件を「有識者」にご注進したところ次のようなコメントがあった。

「そうなんです。イギリスは口径30センチのユニットが圧倒的に多いです。音のスピード感と繊細な表現力と適度な量感をマッチングさせるとなると口径30センチのユニットがベストと考えているのでしょう。

私もそう思います。したがって、あなたのユニットの選択は間違っていないと思いますよ。口径38センチのユニットを思いどおりに動かすのはたいへんです。タンノイの昔のユニットがなぜいいかというと、コーン紙の重さが軽いのも一因でしょう。」


私見だが、口径38センチのユニットはそれなりの魅力もあるのだが、どうしても空気を押し出す量とそれに付随する抵抗、そしてコーン紙の重さを考え合わせると、音声信号に対する追従性に問題が出てきそうに思えて仕方がない。

そういう先入観があるだけでもうダメ・・、で、我が家のユニットはウェストミンスター内蔵のユニットまで含めてウーファー系はすべて「口径30センチ」に留めている。



左からグッドマンの「AXIOM150マークⅡ」、ワーフェデールの「スーパー12」、そしてJBLの「D123」でいずれも「12インチ」(30cm)


もちろん我が家で常用している小出力の「3極管シングル」アンプとの絡みもあるので一概には言えないが、これまで使ってきた口径38センチのユニットのJBLの「D130」やタンノイなどすべてオークションに放出してしまった。   

そういえば、タンノイの創始者「G.R.ファウンテン」氏が愛用していたのは「オートグラフ」ではなく、口径25センチの「イートン」だったことはよく知られている。

これがイギリス人の良識ある一般的なオーディオ観といっていいだろう。

自分もタンノイは「ⅢLZ・イン・オリジナル・キャビネット」「インパルス15」「ウェストミンスター」と使ってきたものの、一番バランスが良かったのは最初に使った「ⅢLZ」だった。今となっては手放さなきゃよかった(笑)。

まあ、「口径38センチ」のユニットが好きという方も当然いらっしゃるだろうし、さらには箱の容量とかパワーアンプの出力との兼ね合いもあるので一律には論じられないが肝心の「お耳のセンス」の方は「?」だと内心秘かに思っている。

もちろん、これは「クラシック愛好家」だけに通じる話で、「ジャズ愛好家」には別次元の話なので念のため申し添えておきます・・(笑)。



この映像は、つい最近メールを寄せていただいている、クラシック愛好家でプロカメラマンの「K」さん撮影のものです。


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日頃から「いい音」で聴いてはいけない

2024年07月13日 | 独り言

「21世紀は文明の衝突になる」と予告したのはS.P.ハンチントン元ハーバード大学教授だが、いまだに「イスラム教」と「他宗教」との対立は世界各地の紛争の火種になっている。

で、現代人にとって世界中にあるいろんな宗教に対して無関心であることはもはや許されない状況になっているが、その一環としてずっと以前のブログで
「寒い地域でイスラム教が広まらなかったのは戒律によりアルコールが禁じられていたのが原因」という趣旨のことを書いたことがある。

そして、同様に疑問に思ったのが
「豚肉を食べることが禁止されている理由」。

これはイスラム教だけでなく、ユダヤ教でも同様だが、豚肉の赤身は(2007.6.7:「脳によく効く栄養学」)のところで記載したとおり、精神の安定に必要なセロトニン生成の原料となるトリプトファンの割合の含有量においてトップクラスの食物とされているので、栄養学上これを食べないというのは実にもったいない話。

合理的な理由を是非知りたいと思っていたところ、たまたま朝日新聞社発行の月刊誌(「一冊の本」)
を見ていたらその理由が詳細に記載されていた。         
                            
「宗教聖典を乱読する 5 」~ユダヤ教(下)~(61~65頁)著者:釈 徹宗氏

豚は食材として大変効率がいいのは周知の事実。中国料理では「鳴き声以外は全部使える」といわれているほどである。栄養価、料理のバリエーションなどとても優れている食材をわざわざ避けるのは生物学的にも不自然だし、人類学的にも一つの謎となっている。

この豚肉がなぜ禁止されているのかは昔からラビ(ユダヤ教の聖職者)たちの間ですら論争が続いている。様々な理由づけを列挙してみよう。

 美味しいものを避けることによって、大食の罪を諫めた。美味しいからこそ食べない!

 豚は雑菌が多く、当時の保存法では問題が多かったため食することが禁じられた。これは今でもよく使われる説明で、雑菌が発生・繁殖しやすい風土というのも関係している。

 異教徒の中で豚を神聖視する人たちがいたので差異化を図った。

 豚という動物が悪徳を表すイメージからタブーとした。たとえばひづめが割れているのは「善悪の識別が出来ない」などで、宗教はシンボルが重要な概念になっている。

 合理的説明は不可能。食規範はまったくの恣意的であり何の秩序もないという説。

 克己心や人格を形成するためという説。つまり不合理な禁止により結果的に人格が鍛錬される。これは1と関連している。

 食事のたびごとに神への忠誠を再確認させる。

以上のとおり、さまざまな理由づけがなされているが、人間の生理(食、性、睡眠など)にまで価値判断が持ち込まれているのは宗教だけが持つ特徴であり、その背景としては人間の本能がもろくて簡単に壊れやすいことが念頭に置かれている。

たとえば、「好物を見たら、満腹でも食べてしまう」「繁殖以外の目的で性行為をする」といった行動はほとんど人間だけの特性といえ、人間以外の動物は本能の働きにより、過剰な行動には自動的にブレーキがかかる。

ライオンが満腹のときは目の前をシマウマが通っても襲わないというのはよく聞く話で、「自分の生存を維持するための行動」「自らの遺伝子を残すための行動」が基本となっている。

結局、それだけ人間というのはエネルギーが過剰であり旺盛なので一歩間違うと人間という種自体を滅ぼす危険性を有している

その意味で、人間は本能が壊れやすい動物であればこそ、その過剰な部分をコントロールしストッパーの役目を果たしているのが「宗教」である。

したがって、「なぜ、豚肉を食べないか」に対する最も適切な答えは「神が禁じたから」となる。つきつめればそこへと行き着いてしまう。

ユダヤ教にはさまざまな宗派があるが共通基盤があって、それは「唯一なる神を信じ、安息日や食規範などの行為様式を守ること」にある。

この基本線に関してはどの宗派も共有している。そして敬虔なユダヤ人にとっては、「律法を守ることそれ自体が喜び」
なのである。

以上のとおりだが、「自分を律するために、あえて美味しいものを食べない」というのは、まったくの「眼からウロコ」で、それからすると総じて「仏教徒」たるもの、ちょっと自分に甘すぎて「快楽主義」に走り過ぎるきらいがあると思いませんかね・・。

で、最後にこれが言いたかったのだが「オーディオ愛好家は自分を律するために、日頃から“いい音”で聴いてはいけない」な~んちゃってね(笑)。



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「いい音」って何?

2024年07月12日 | 音楽談義

我が家では「好きな音楽」を「いい音」で聴きたい一心なので「音楽とオーディオ」がおおよそ一体化している積りだが、いったい「いい音って何?」と考えさせられたのがこの本だ。

                          

著者は「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏。巻末の経歴欄によると1963年生まれで現在、慶應義塾大学法学部教授。

過去に「音盤考現学」「音盤博物誌」「クラシック迷宮図書館(正・続)」などの著書があり、「吉田秀和賞」をはじめ「サントリー学芸賞」「司馬遼太郎賞」など数々の賞を受賞されている。

本書では様々な作曲家や演奏家について取り上げている。たとえば

1 バッハ  精緻な平等という夢の担い手
2 モーツァルト  寄る辺なき不安からの疾走
3 ショパン  メロドラマと“遠距離思慕”
4 ワーグナー  フォルクからの世界統合
5 マーラー  童謡・音響・カオス
6 フルトヴェングラー  ディオニュソスの加速と減速
7 カラヤン サウンドの覇権主義
8 カルロス クライバー  生動する無
9 グレン・グールド  線の変容

といった具合。


この中で特に興味を惹かれたのが「フルトヴェングラー」と「グレン・グールド」の項目だった。

前者では「音は悪くてかまわない」と、小見出しがあって次のような記述があった。(137頁)

「1970年代以降、マーラーの人気を押し上げた要因の一つは音響機器の発展があずかって大きいが、フルトヴェングラーに限っては解像度の低い音、つまり『音がダンゴになって』聴こえることが重要だ。

フルトヴェングラーの求めていたサウンドは、解析可能な音ではなくて分離不能な有機的な音、いわばオーケストラのすべての楽器が溶け合って、一つの音の塊りとなって聴こえる、いわばドイツの森のような鬱蒼としたサウンドだ。したがって彼にはSP時代の音質が合っている。」


これはオーディオ的にみて随分興味のある話で、そういえば明晰な音を出すのが得意な我が家の「AXIOM80」でフルトヴェングラーをまったく聴く気になれないのもそういうところに原因がありそうだ・・。

通常「いい音」とされているのは、「楽器の音がそれらしく鳴ってくれて透明感や分解能に優れ、なおかつ奥行き感のある音」で、いわば「解析的な音」が通り相場だが、指揮者や演奏家によっては、そういう音が必ずしもベストとは限らないわけで、そういう意味ではその昔、中低音域の「ぼんやりした音」が不満で遠ざけたあの「スピーカー」も、逆に捨てがたい味があったのかもしれないとちょっぴり反省(笑)~。

ずっと以前のブログで村上春樹さんの「バイロイト音楽祭」の試聴記を投稿したことがあるが、その会場ではオーケストラ・ピットが沈み込んでおり、その音が大きな壁に反響して「音が大きな一つの塊のようになって響く」とあったのを思い出した。

そういえばフルトヴェングラーが指揮したあの感動的な「第九」(バイロイト祝祭管弦楽団)がまさしくそういう音で、こういう「鬱蒼とした音の塊」からしか伝わってこない音楽があることも事実で
「いい音って何?」、改めて考えさせられる。

次いで、グールド論についても興味深かった。

稀代の名ピアニスト「グレン・グールド」(故人、カナダ)が、ある時期からコンサートのライブ演奏をいっさい放棄してスタジオ録音だけに専念したのは有名な話でその理由については諸説紛々だが、本書ではまったく異なる視点からの指摘がなされており、まさに「眼からウロコ」だった。

まず、これまでのコンサートからのドロップアウトの通説はこうだ。

 グールドは潔癖症で衛生面からいってもいろんなお客さんが溜まって雑菌の洪水みたいな空間のコンサート・ホールには耐えられなかった。

 聴衆からのプレッシャーに弱かった。

 極めて繊細な神経の持ち主で、ライブ演奏のときにピアノを弾くときの椅子の高さにこだわり、何とその調整に30分以上もかけたために聴衆があきれ返ったという伝説があるほどで、ライブには絶対に向かないタイプ。

そして、本書ではそれとは別に次のような論が展開されている。(188頁)

「グールドによると、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。

たとえばゴールドベルク変奏曲の第七変奏はどうなっているか、第八変奏は、第九変奏はとなると、それは生演奏で1回きいたくらいではとうてい分かるわけがない。たいていの(コンサートの)お客さんは付いてこられないはず。


したがって、ライブは虚しいと感じた。よい演奏をよい録音で繰り返し聴く、それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しないし、ありえない。」

以上のとおりだが、40年以上にわたってグールドを聴いてきたので “いかにも” と思った。

「音楽は生演奏に限る・・、オーディオなんて興味がない。」という方をちょくちょく見聞するが、ほんとうの「音楽好き」なんだろうか・・。

さらにオーディオ的に興味のある話が続く。

「その辺の趣味はグールドのピアノの響きについてもつながってくる。線的動きを精緻に聴かせたいのだから、いかにもピアノらしい残響の豊かな、つまりよく鳴るピアノは好みじゃない。チェンバロっぽい、カチャカチャ鳴るようなものが好きだった。線の絡み合いとかメロディや動機というものは響きが豊かだと残響に覆われてつかまえにくくなる。」といった具合。

グールドが「スタンウェイ」ではなくて、主に「ヤマハ」のピアノを使っていたとされる理由もこれで納得がいくが、響きの多いオーディオ・システムはたしかに心地よい面があるが、その一方、音の分解能の面からするとデメリットになるのも愛好家ならお分かりだろう。

結局、こういうことからすると「いい音」といっても実に様々で指揮者や演奏家のスタイルによって無数に存在していることになる・・、さらには個人ごとの好みも加わってくるのでもう無限大といっていい。

世の中にはピンからキリまで様々なオーディオ・システムがあるが、高級とか低級の区分なくどんなシステムだってドンピシャリと当てはまる音楽ソースがありそうなのが何だか楽しくなる、とはいえ、その一方では何となく虚しい気持ちになるのはいったいどうしたことか・・(笑)。 



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反響が大きかった音楽関連の記事

2024年07月11日 | 独り言

前々回のブログ「読書コーナー~音楽の本~」は予想外にも反響が大きくて「アクセス」も好調だった・・、何がヒットするかいまだにどうもよくわからない(笑)。

こういう記事ばかり書いているといいんだろうけど、調子に乗って続けてしまうと「またか・・」と飽きられてくるだろうし、その辺の兼ね合いがなかなか難しい。

「賢いものが生き残るとは限らない、強いものが生き残るとは限らない、ただ変化するものだけが生き残る」(ダーウィン「種の起源」)だそうで、このブログも内容はともかく「絶えず変化する」ことをモットーにしています、あっ、そういえばオーディオもそうでしたね(笑)。

で、その反響とやらを時系列で紹介させてもらうとしましょう。

まずは南スコットランド在住の「ウマさん」からメールをいただきました。

「こちらのクリスマス…、お店はパブ以外すべて休み。街の目抜き通りは閑散としていて、人通りはほぼありません。
一年で一番重要な日、クリスマスは家で過ごします。何年か前、たまたまクリスマスの当日、所用があって、家族一同、街に出たときの写真がありました。

ご覧の通り、日頃賑やかな街の目抜き通りに、人通りはまったくありません。



日本におけるクリスマスの「はしゃぎ方」とは大違いのようですね!

次いで、メル友の「YO」さんから、「レクイエム」の名盤についてご教示いただきました。

「私もフォーレとモーツァルトのレクイエムは好きですね。良く聴くのは
フォーレがサマリー盤、モーツァルトはシュペリンク盤です。
モーツァルトの方は是非CDで聴いていただきたいです。驚きますよ(笑)」

「驚きますよ」という言葉にメチャ弱いのでさっそく「そんなに音がいいのですか?」と問い合わせたところ「CDのボーナストラックが素晴らしいとのこと」 なるほど・・。

そして、最後はプロカメラマンOBのKさんからだった。

「暑い日が続きます。家内がやっているシニア劇団員の中にも 最近新型コロナ感染者が2人出ています。

公演も近いことですので 皆さん元気で練習の成果が出せるように祈らずにはおれません。

運よく家内ともども 子供、孫達は感染経験者が結構いますのに かかる事も無く ありがたい事と思っています。

私のつたない写真が添付されていましたが まあ多くの人達に楽しんでもらえたら良いかなあと言うところです。

これからも時々メール差し上げる事があると思いますが その時の写真普通にブログ主様のメールの最後に載せていただいてもかまいません。

人により写真の雰囲気も変わってきますので 良いんじゃないでしょうか。今回は 友人の方も撮っておられる被写体ですが どうぞごらんになってください。特別に撮りにいったんではなく 偶然庭先で見つけた蝶です。

後輩達の中には 趣味の集まりの方たちが作っているクラブで教えているのが何人かいますが 私は会社時代で此の世界からはおさらば、ただ習性なんでしょう 

旅行先や自宅周辺で目の前に心留める景色を見てしまいますと 思わずシャッターを押してしまいますので定年後24年、何枚かの作品が残っています。添付できるのは 其の中からです。又楽しみにしていただければありがたいです。

宗教曲ですか、モーツアルトやフォーレのレクイエム、定番どおり ベームとコルベです。

ただベームは 我が家では美しくは響いてなく 合唱のところの再生が難しい。

アリエル ラミレスのMISA CRIOLLA(ミサ クリオージャ(南米大陸のミサ)ホセ カレーラスが歌っているCD(PHILIPS) 聞いておられますか。

ヴァティカン公会議で ミサは必ずしもラテン語に限ることなく諸国語で行っても良いとなってアフリカ ブラジル、アルゼンチンなど各国からミサ曲が誕生したそうですね。

雪の中ではない 真夏のクリスマス また面白いです。
此の曲が気にいって 私は夜寝る前になど時々聞いています。
レコードのベームのとは違って音が良い。凡人には 矢張り良い録音で聞けるのがありがたいです。」

ホセ・カレーラスのCDぜひ聴いてみたいです!

最後に、ありがたいことに写真が添付されていたのでご紹介させていただきます。



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無知というものの哀しさ

2024年07月10日 | オーディオ談義

「右チャンネルから音が出たり出なかったりするんだけど、ちょっと診てもらえませんか~」とオーディオ仲間のMさんへメッセージ。

Mさんはれっきとしたベテランの「アンプ・ビルダー」さんである。「ああそれは、半田の接着不良でしょう。明日お伺いします。」と即座に返事が返ってきた。

対象のアンプは「2A3」シングルアンプである。



ご覧の通り、大きな出力トランスのせいでやたらに重たい・・、こういう大きな出力トランスを持つアンプが繊細な音を出す事例をこれまで見聞したことはないが、低音域のゆとりに関しては大いに重宝しているので、専ら低音域用として使っている。

出力管の「2A3」は比較的ポピュラーな球なのでRCAを始めとしてブランドがいくつも出回っているが、我が家では「VISSEAUX」(フランス:刻印)を選択している。

刻印付きともなると今や希少品だそうで海外のオークションでは軽く「15万円以上で取引されている」との噂・・、まあスペアを含めて売るつもりはないけどね~(笑)。

で、お見えになったMさんがアンプの裏蓋を開けて点検したところ、すぐに「ボリューム」周りの半田が接触不良で「ついたり離れたり」の状態。

半田ごてが入りにくい部分というのが原因だった。

「音が出たり、出なかったり」というケースでは、まず半田の接触不良を疑った方が良さそうだ。

まずは一件落着だったが、Mさんがついでに持参されたのがこのほど落札された「TR式」のプリアンプだった。価格はわずか「8千円」というから、超安っ!

なぜこれほど安かったのかといえば、出品者が「STORE」だったせいで、ぞんざいな取り扱いだったことに尽きる・・、たとえば上蓋を開けて内部の画像を見せて欲しいと要望しても聞き入れてくれない。

したがって、入札者はMさん含めてたったの2名という有様~。

ところが、到着して上蓋を開けてみたところ、なんと希少なマイカ・コンデンサーがペアで使われていた!



画像上部の「茶色のコンデンサー」がそれで、市価ともなると確実に3万円ぐらいはするという代物、おまけに電源トランスは「TANGO」という有名どころが使われている。

もし、「STORE」が手間を惜しまずに「上蓋」を開けて画像を公開していたら、入札者が殺到し落札価格もきっと跳ね上がったことだろう。

Mさんのチャレンジ精神に拍手といったところだが、一方では「無知」というものの哀しさにやりきれなくなりますな・・(笑)。

で、修繕とか掘り出し物の話が一段落してから、「久しぶりにAXIOM80を聴かせてくれませんか」との要望に応えた。



この頃はこういう聴き方をしています、というわけで、オイルコンデンサーで「500へルツ」あたりでローカットし、それ以下の低音域は後方に控えるウェストミンスター(改)で補完するという世界中でも「ここだけ」のシステム。

両者、すなわち「AXIOM80」と「ウェストミンスター」内蔵の「スーパー12」(ワーフェデール:赤帯)ユニットの「位相」すなわち振動版の位置関係については、言わずもがなだが音の速さは秒速「340m」なので、100ヘルツのときの波長は「3.4m」、「500ヘルツ」のときは「1.7m」だからまあ許容範囲ではなかろうか・・。

ちなみに、植木鉢に据え付けた「AXIOM80」(復刻版)の背後には、「羽毛の吸音材」をこぼれ落ちないように工夫して詰め込んでいる。

「まったく違和感がないです!」と聞き惚れるMさん・・。

ついでに、コーラルのドライバーとウッドホーンのコンビも聴いてもらい、どちらが「お好きですか・・」と単刀直入にお訊ねしたところ「もっと長時間聴かないと簡単に応えは出せませんね・・」、誘導しようというこちらの思惑が見事に外れて、ギャフン~(笑)。



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読書コーナー~音楽の本~

2024年07月09日 | 音楽談義



図書館の「新刊コーナー」でたまたま見つけたのが「交響曲名盤鑑定百科」という本。

「交響曲」でいちばん好きなのは「第39番K543」(モーツァルト)なのでどういう鑑定をしているのか、真っ先に目を通してみたところガッカリ・・、肝心の「第4楽章」に言及していない。

50年以上も前に読んだ「モーツァルト」(小林秀雄著「無私の精神」所蔵)では、この4楽章についてこう書かれている。

「部屋の窓から明け方の空に赤く染まった小さな雲の切れ切れが動いているのが見える。まるで「連なった♪」のような形をしているとふと思った。

39番のシンフォニーの最後の全楽章が、このささやかな16分音符の不安定な集まりを支点とした梃子(てこ)の上で、奇跡のようにゆらめく様はモーツァルトが好きな人ならだれでも知っている」

以上のような表現だが、この「揺らぎ」こそモーツァルトの音楽の真骨頂なのに、これに触れないなんて音楽評論家としてあるまじき行為だと思うよ~。

腹が立ったので、もう読まずに返却することにした(笑)。

もう一冊・・。



「宗教音楽の手引き」に目を通していたら、次のような箇所があった。(60頁)。

「クリスマスが近づいてきました。一時代前の日本ではクリスマスというと顔を真っ赤にして酔っ払ったご機嫌の紳士がケーキの箱をぶらさげて きよしこの夜 を歌いながら千鳥足で歩く姿をよく見かけたものでした。

それでも普段キリスト教に関心を持たない日本人が年に一度でもキリストの誕生を祝う気持ちになるならそれはそれでいいことだと思っておりましたが、どうも話はそう簡単ではなかったようです。

その頃たまたまテレビを見ておりましたところ、若い芸能人たちが「連想ゲーム」をしていました。「クリスマス」という題を出されて、それぞれ「プレゼント」「シャンパン」「パーティ」などと言い合っています。その中で一人だけ気の利いた若者が「キリスト」と言ったとたん「バカァー、お前、何言ってんだョー」「何の関係があるんだよョー」と一斉にののしられ、当人も自信をなくして「アア、そうか」と引き下がってしまったのです。

なるほど、これが日本の現実かとわたくしはしばらく考え込んでしまいました。」

そして、各国のクリスマスの祝い方に移り「アメリカは商業的」「ヨーロッパは地味で静かで、フランスは聖夜のミサが秘かに捧げられ教会堂から流れ出る鐘の音がいかにもそれらしい雰囲気を醸し出す、もっとも好ましいのはドイツで質実剛健で浮かれ上がったところが無く堅実で素朴です」といった具合。

ブログ主は「クリスマス」に限らず、外国の風習を安易にとり入れる日本独特の浮かれ方について、苦々しく思っているうちの一人です。

あっ、そうそう、ふと思い出した・・、何かの雑誌に書いてあったことだが、「イブともなると若者たちで都会のラブホテルが満員になる、聖なる夜をみだらな性欲で汚さないで欲しいと外国人が嘆いていた」というお話。アハハ、と笑い話で済ましていいのかどうか・・。

皆さまはどう思われますか?

さて、本論に移ろう。

宗教曲といえば死者の霊魂を天国に送る「レクイエム」、正式には「死者のためのミサ曲」に代表される。日本でいえばお坊さんの念仏みたいなものですかね~。

本書では「レクイエム」の代表曲として「ガブリエル・フォーレ」と「モーツァルト」が挙げてあったが、まったく異論なし~、「ヴェルディを忘れちゃいかん!」と怒り狂う方がいらっしゃるかもねえ(笑)。

前者には「クリュイタンス」盤が推薦してあったが、「ミシェル・コルボ」盤を忘れてはいませんかと言いたくなる~。

後者では「ワルター」盤と「ベーム」盤が推してあったが、ちょっと古いかなあ・・、近代の名演をご存知の方があればご教示ください。



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暑い、暑い・・、懐かしのヒット曲集

2024年07月08日 | 独り言

このところ連日35度以上の猛暑が続いている。はたしてもう梅雨が終わったのだろうか・・、という疑問がつきまとうが、天気予報を見ると今週の後半から雨模様なのでそんなに甘くはないらしい。

昨日(7日)のこと、あんまり暑いので午後のウォーキングを久しぶりに公園に移すことにした。日影が多いので、家の周囲より少しはマシだろうとの思惑。

クルマに乗り込んで車内の温度表示を見ると何と「38℃!」~。

15分ほどで到着して公園に入ってみると、さすがに人が少ない。



ウォーキングを開始してみると、木立を縫って「そよ風」が吹いており、想像以上に快適だった。

夏のウォーキングはこれに決めた・・、しめしめと40分ほどで切り上げてから自宅に戻るとさっそくオーディオ機器のスイッチをオン。

さっそく「You Tube」を検索。

公園の「そよ風」に誘発されて、お目当ては往年のヒット曲「そよ風の誘惑」。歌手は「オリヴィア・ニュートン・ジョン」・・。2年ほど前に「乳がん」で73歳で死去、まだ若いのに・・、合掌。



それにしても、大ヒットしたこの「そよ風の誘惑」は名曲だと思う。

原題は「Have You Never Been Mellow」。英語は不得手だが「あなたは憂鬱になったことなんてないの?」という感じかな~。

それがどうして「そよ風の誘惑」というタイトルになったのか・・、実に上手い付け方だと思う。

それに反して実に拙いタイトルだと思うのが「白い渚のブルース」。

1960年代初頭に「ビルボード誌」で1位を獲得したヒット曲だが、しんみりと哀愁を帯びたクラリネットの音色が実に美しい。イギリスのテレビドラマのテーマ曲だったそうで、いかにもイギリスらしい内省的な雰囲気に満ち溢れている名曲。



クラリネット奏者は「エッカー・ビルク」(自作自演)だが、学生時代にこのレコード(シングル盤)を何度聴いたかわからないほど愛聴した。

そして原題は「Stranger On The Shore」・・、直訳すると「渚の見知らぬ人」~。

これがどうして「白い渚のブルース」というまことに陳腐なタイトルになるのか、もう歯がゆくて、歯がゆくて・・(笑)。あえて「白い渚」に拘るとすれば「白い渚の異邦人」ぐらいかな~。

調子に乗って、ほかにも往年のヒット曲を次から次にサーフィンした。

「ウォーク・ドント・ラン」(急がば回れ)。



このレコードのジャケットは実に懐かしいという方が多いのではなかろうか・・。

そして真打は「Walk On By」。歌手は「ルロイ・ファン・ダイク」



ウェスタン風の軽快なロック調の曲目で、女声のバックコーラスが冴えわたっている。どんなに探しても見つからなかった曲目でもう諦めていたのだが、やっと見つけました!

さらには「パッツィ・クライン」(飛行機事故で死亡)の「アイ・フォール・ツ・ピーシズ」・・。

「You Tube」万~歳!(笑)



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悪貨は良貨を駆逐する

2024年07月07日 | 音楽談義

前々回のブログ「理系人間にクラシック好きが多い理由」の続きです。

大好きな音楽を聴くときに「数学」を意識する方はまずいないと思うが、じつはその底面下にはそれが秘かに横たわっているというお話。



本書を読んでみたが、なにぶん自分の読解力では荷が重すぎたようで完全に理解するにはほど遠かったが、概ね理解できたエキスだけを記して恰好だけつけておこう(笑)。

「古代ギリシャでは数論(算術)、音楽、幾何学、天文学が数学の4大科目とされていた。そのうち音楽は数の比を扱う分野とされ、美しい音楽は調和のとれた音の比によって成り立っており、それこそが美の原点と考えられた。

もっともよく協和する二つの高さの音は1対2の関係(つまり1オクターブ)により作られているというように、ここでは常に音は数と対応して考えられ、また美しい数の比は美しい音楽を表すとも考えられた。

そもそも音楽は数学とは切っても切れない関係にあり、メロディーもビート(拍)も和音も、数の並びそのものである。つまり書かれた音符は数の並びなのである。数として認識された音は、身体的行為としての演奏を通して音楽になる。

したがって、私たちは何気なしに音楽を聴いているが、それは無意識のうちに数学にふれていることにほかならない。

「音楽を考えることは数学を考えることであり、数学を考えることは音楽を考えることである」
 

とまあ、簡単に噛み砕くと以上のような話だった。

どんなに好きな音楽であろうと長時間聴くと自然に(頭が)疲れてしまう経験もこれで説明がつくのかもしれない。

とにかく、本書は超難しかったけど音楽と数学とは切っても切れない縁を持っており、これで理系人間に音楽好きが多い理由が、何となく分かってもらえたかな~?

「ど~もよく分からん、もっと詳しく知りたい」という方は、直接本書を読んで欲しい(笑)。

さて、実はこのことよりも、もっと興味のある事柄がこの本には記載されていたのでそれを紹介しておこう。こういう思わぬ“拾いもの”があるから濫読はやめられない。

第3章では数学家(桜井氏)と音楽家(坂口氏)の対談方式になっており、数学の観点から「アナログのレコードとCDではどちらの音がいいか」について論じられた箇所があった。(158頁)

数学家「これは数学と物理学で説明できます。デジタルを究極にしたのがアナログです。レコードの音はアナログだから時代遅れだと思う方がいるかもしれませんが、数学を勉強した人は逆なのです。アナログの音が究極の音なのです。

CDは1秒間を44.1K(キロ)、つまり4万4100分割しています。その分割した音をサンプリングと言って電圧に変換してその値を記録する。これをA/D(アナログ→デジタル)変換といいますが、このCDになったデジタルデータはフーリエ変換によってアナログに戻されます。

しかし、レコードの原理はマイクから録った音の波形をそのままカッティングするので原音に近いのです。だから究極では情報量に圧倒的な差があるのです。CDは情報量を削っているから、あんなに小さく安くなっていて便利なのです。」

音楽家「ただし、アナログで圧倒的にいい音を聴くためには何百万ものお金が必要になりますよね(笑)」

数学家「それなりのリスニングルームとそれなりの装置と、そこに費やされる努力はいかほどか・・・。だから趣味になってしまうんです。それはやはり究極の贅沢みたいなことになります。そんなことは実際に出来ないということでCDができて、さらにiPodができて、どんどんデジタルの音になっています。」

音楽家「結局、それで一つの文化というものが作られました。アナログの時代には“オーディオマニア”という人種がいたのだけれども、今、そういう人種はいなくなってしまいましたね。ほんのわずかに残っているみたいですが。」

その「ほんのわずかに残っている人種」のうちの一人が自分というわけだが(笑)、いまだに続いているアナログとデジタルの優劣論争においてこの理論は特に目新しくはないものの、いざ改めて専門家からこんな風に断定されると、
「ハイレゾ」をどんなに詰めてみても所詮「アナログには適わない」ということを頭の片隅に置いておいた方が良さそうだ。

我が家のケースではもう20年以上も前にワディアのデジタルシステムを購入してアナログとあっさり手を切ったわけだが、それではたしてよかったのかどうか?

その後にはさらにエスカレートして「ワディア」から「dCS」に乗り換えてしまったがこれらの機器の
値段を書くと「お前はバカの上塗りか!」と言われそうなので差し控えるが、これだけのお金をアナログに投資する術もあったのかもしれない。

   

つい最近も仲間のお宅でレコードの音を聴かせてもらったが実に自然な「高音域」が出ているのに感心した。

いまだにアナログに拘る人の存在理由を現実に思い知らされるわけだが、貴重なレコード針が手に入りにくくなったり、ターンテーブルの高さやフォノモーターの回転精度、アームの形状で音が変わったり、フォノアンプの性能に左右されたり、有名盤のレコードがたいへんな値上がりをしていたりと、いろいろ腐心されていたのでレコードマニアにはそれなりの悩み(楽しみ?)もあるようだ。

また、DAコンバーター、真空管プリ・パワーアンプ、あるいはスピーカーなど周辺システムに細心の注意を払ったCDシステムと、幾分かでもそれらに手を抜いた場合のレコードシステムのどちらが「いい音」かという総合的な問題も当然残る。

結局のところ、俯瞰(ふかん)しないと、その優劣について何ともいえないのがそれぞれの現実的なオーディオというものだろう。


まあ、CDにはCDの良さもあって、前述のようにソフトの安さ、取り扱い回しの便利さなどがあるわけだし、今さらアナログに戻るのはたいへんな手間がかかるし、第一、肝心のレコードはすべて処分してしまっている。

もはや乗ってしまった船でオーディオ航路の終着駅もぼちぼち見えてきたので、CDで「潔く “まっとう” するかなあ」と思う今日この頃~。

あっ、そうそうこのところ聴いてる音楽ソースといえば 昔好きだった希少な曲目をタダで聴ける、そしてリモコン一つで簡単に聴ける 「You Tube」オンリーになっているが音質にまったく不満はないので大いに重宝している・・、「悪貨は良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)のかな~(笑)。



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今を大切にしよう

2024年07月06日 | 独り言

「孝行したいときに親は無し」・・、誰しもが耳にタコができるほど馴染んだ言葉だと思うが、改めてその意味は「親の気持ちがわかるような年になって孝行がしたいと思っても、もう親はいない。 親の生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することが多いということ。」(大辞泉)

これを、無理やり「音楽&オーディオ」にこじつけると、「いきなり難聴が襲ってきて音楽を楽しめなくなることがあるので健常な今のうちに大いに楽しんでおこう」。

なぜこういう心境に至ったかというと、昨日(5日)見知らぬ方から次のようなメールをいただいたから~。

匿名ということで、無断でご紹介させていただきます。

「こうして 初めての方に メールするのは 初めての事です。はじめて此のブログを読ませていただいたのが1年前ぐらいでしたか。

オーディの話、他の色々な話題などなど 毎日楽しみにしています。

私、84歳 音楽を聴き始めたのは 60年以上前。

親父にねだって買ってもらった当時 トライアンプと言っていた FM,プリ、メインアンプが一緒になっていた

機器(モノーラル)でした。

パイオニア製で、まだ福音電気と呼ばれていた頃の話です。

勿論FMもモノ放送の時代。FM放送が始まって直ぐの頃です。

39800円でしたか、無論 真空管でした、それにクライスラーの20インチウーハー+高音セットのボックス。

これは1万円だったはずです。高校3年の時です。うれしかったですね。

それから現在までーーー。

今は、球のアンプ使用、SPUで 聞くのは90㌫がレコード。クラシックが60㌫他ジャズ、歌です。

4年前から片方の耳が突発性難聴にかかってしまいほとんど聞こえず、昔感じられていた演奏会場の雰囲気、演奏者のたたずまいなど わかりにくくはなっていますし、高音も聞こえなくなってきて寂しいかぎりです。 

ブログ主様も いずれは経験されるかもです。今の幸せを大切になさってください。

今日メール差し上げたのは、オーディオの話ではなく(こちらは又いつか お聞きしたい事など多くありますのでその時によろしくお願いいたします) 何時も 載せておられる写真の事でです。

今日の写真も気に入りましたが ご本人様が撮っておられるのでしょうか。すばらしい写真が何時も載っていますので 文章もそうですが楽しみにしています。

私も新聞社の写真部で35年間 毎日仕事にしていましたので 撮影の苦労などもよく理解できるんですが。

最初はスピグラ、3年後ぐらいからニコンになって、フィルムもモノクロからカラー、現像も皿現像から自動現像へ。そして撮影機材も露出設定、ピントも自動、昔はこれがちゃんと出来るのがカメラマンの最初の腕でした。

作品のセンスなどは 其れからの話でしたね。
最後の2年ぐらいでしたか、デジタルに変わり、あらゆるものが自動になってきて卒業でした。

考えれば 私達の年齢が 映像機材の進化、変化をすべて経験している最後の人間です。

私の5年後の後輩達はもうスピグラ、シートフィルムの皿現像の世界は知らない時代でしたから。

これからもよろしく、又メール差し上げます。

写真、7-8年前に家内とスキー旅行に行った時の写真です。ごらんになってください。」 

以上のとおりです。

「人生」そして「音楽&オーディオ」の大先輩からこうしてメールをいただけるなんて、ブログ冥利に尽きます!

さっそく「写真のプロ」宛て次のような返信を差し上げました。

「メールありがとうございます。人生そして音楽&オーディオ歴の大先輩に拙ブログをご愛読していただき恐縮と感謝です。大いに励みになります。

わたしは馬齢を重ねて当年77歳になりますが、難聴どころか持病がありますのでいつ天に召されてもおかしくありません・・、お説のように今を大事にしたいと痛切に感じます。

それから、写真の件ですが高校時代の同級生(神奈川県)の配信から借用しています。

ニコン・カレッジに長年通っているベテランです。カメラは当然のごとくニコンといってました。

今後ともご指導、ご鞭撻よろしくお願いします。お写真楽しみに待ってます」

そして、ご愛読歴「1年」ということでまだ日も浅い方・・・、「(過去ブログの)複製大いに有効!」と意を強くしましたぞ(笑)。

最後に、同封されてきた「素晴らしいお写真」をご紹介させていただこう。




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理系人間にクラシック好きが多い理由

2024年07月05日 | 音楽談義

「音楽、特にクラシック好きは理系人間に多い」これは争えない事実だと思う。

実際に身辺を見回してもお医者さんあたりに該当者が多いし、ちょくちょく我が家にやって来る高校時代の同級生(福岡在住3名)だってそう。


いずれも理系出身で、卒業後の進路は建築科、機械科、電気科と見事に色分けされるし、自分だって理系の “端くれ” なのでいわば4人すべてが理系を専攻している。

”たまたま” かもしれないが、「4人そろって」となると確率的にみてどう考えても意味がありそうである。

全員がオーディオというよりも音楽の方を優先しているタイプで音楽を聴くときに、より興趣を深めるために仕方なくオーディオ機器に手を染めているというのが実状である。

これは、なかなか興味深い事象ではなかろうか。

周知のとおり、ほとんどの人が高校時代に大学受験のため「文系と理系のどちらに進むか」の選択を迫られるが、これはその後の人生をかなり大きく左右する要素の一つとなっている。そのことは、一定の年齢に達した人たちのそれぞれが己の胸に問いかけてみるとお分かりだろう。

「自分がはたして理系、文系のどちらに向いているか」なんて、多感な青春時代の一時期に最終判断を求めるのは何だか酷のような気もするが、
生涯に亘る総合的な幸福度を勘案するとなれば、なるべくここで誤った選択をしないに越したことはない。

現代でも進路を決める際の大きな選択肢の一つとなっているのは、おそらく本人の好きな科目が拠り所になっているはずで、たとえば、数学、理科が好きな子は理系を志望し、国語、英語、社会などが好きな子は文系志望ということになる。もちろんその中には「数学は好き」という子がいても不思議ではない。

それで概ね大きなミスはないのだろうが、
さて、ここからいよいよ本論に入るとして、なぜ、音楽好きは理系人間に多いのだろうか。

その理由について実に示唆に富んだ興味深い本がある。

                      

音楽と数学の専門家によって書かれた本書の
序文の中で音楽と数学の関わり合いについてこう述べられている。

「私たちは、数の世界の背後には深い抽象性があることを、ほとんど無意識で感じています。音楽によって与えられる快感は、ときにはこの抽象世界の中を感覚的に漂う心地よさで高まり、それは広がっていく心の小宇宙に浮遊し、魂が解放されるような感動まで到達することがあります。~中略~。音楽は数の比によって成り立っており、それを考える数学の一分野です。」(抜粋)

抽象的だけどなかなか含蓄のある文章だと思うが、要するに音楽は数の比によって成り立っており数学の一分野というわけ。

以下、さらに分け入ってみよう。

続く。


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「休載」するのと「複製」するのとどちらがいいですか

2024年07月04日 | 独り言

ときどき読者からメールをいただくが、「知らん振り」の方々が大半の中、いつも感謝しながら読んでいる。

昨日(3日)は、馴染みの「K」(横浜)さんからだった。

「レグラ・ ミューレマンを知らずお恥ずかしい。スコットランドのウマ様そして〇〇さん推薦なら勿論聴かねばと・・。今日アマゾンから届くはず。明日は休み、じっくりと聴かせてもらいます。

「英国人は握手嫌いゆえ手は後ろに組む」、なるほどチャールズ王で頭に浮かぶのは”後ろで組んで歩く姿”(ジャケットのポケットに手を入れても浮かびます。

(私は小学一年の時「ズボンのポケットに手を突っ込むのは紳士ではない。ポケットに手を入れたいなら上着のに」と教えられたが後にこれは英国の小学生への教育と知りました。)

今日「は」と「が」の使い方を(記憶では以前貴兄のブログで拝読と思うのですが賢明な〇〇さんが同じ話題出すと考えられぬので、誰かほかの方から聞いたのか?)ともかく使い方再確認で、感謝。」

さっそく返信~。

「レグラ・ミューレマンですが、拙文を信用していただいて感謝です!それにしてもCDを買うのはもったいない・・、「You Tube」で聴けないのですか?

もしできないのであれば、すぐに試聴できる環境整備をした方がいいと思います。なにしろ、タダで音楽を聴ける時代が到来しているんですから利用しない手はありません! 簡単ですよ。電気店でも相談にのってくれると思いますよ。

それから「は」と「が」の使い方ですが、ブログのネタに困って昔のを引用しました(笑)。

ブログを「休載」するのがいいか、過去の「複製」がいいのか、いつも悩んでいますが、いまのところ後者を選択しています。Kさんはどちらがいいですか?」

すると、折り返し次のメールが届いた。

「早速にありがとうございます。CD購入は「CDがなくならないように」と(大げさですが!!!)

You tubeはTVで観れますが、オーディオとは繋いでません。オーディオのスイッチは私が入れる(入り切りの順番、ワイフは理解せず)ので~。

ワイフのCD鑑賞用には小さなシステム与えてますが、CDはわたしのシステムで聴きたいといい、今はラジオしか聴いてないようです。

「本は三回読む」高校教師の教えですが、〇〇さんのブログはためになるものばかりゆえ「三回」繰り返し可・・、繰り返しは意義あり、これに異議はありません。」

アハハ・・、まさか「忖度」(そんたく)されてないですよねえ(笑)。

コツコツと繋いできて今や19年目を迎えたブログだが、初め頃の意欲はどこへやら・・、惰性も手伝って近年では新規と複製とが入り混じりながら「(この程度で)ま、いっか」が口癖になっている。

ちなみに複製といっても、およそ5年以上前の投稿に絞っているし、内容も今風に合わせて「加除修正」しているのはいうまでもない。

で、肝心の読者のアクセスだが、新規も複製もほとんど変わらないのがやや救い~。

これは憶測になるが1日当たり1000人の読者の内、「これは復刻版だ・・、この人サボってる!」と気付いている方が6割程度、残りの4割はフレッシュな気持ちで読まれているのではないかと踏んでいる・・。

まあブログの出来がいいからといって、別にご褒美をもらえるわけでもないしねえ~(笑)、自己満足の世界なのでペンを放り投げるときまで余命と相談しながらこのスタイルでいかせてもらうとしようかな~。

それに「K」さんから「3回まで複製可」のお墨付きをもらったことだし~、大いに心強いです(笑)。



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「音響・音楽心理学」と「”は” と ”が”の使い分け」

2024年07月03日 | 読書コーナー

つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆく よしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(兼好法師「徒然草」より序段)

およそ700年前の鎌倉時代に書かれた書物だけど、万物が流転する中で人間の心理(内面)はいっさい変わってないことを思い知らされます。

✰ 「音響・音楽心理学」



「音楽は好きだけど、大がかりなシステムで聴くのは億劫だ」という若者たちの声が聞こえて来そうな気がする。

アパートの間借りやマンション住まいなどの住宅事情もあるのだろうが、魅力あふれるオーディオを楽しむ層が減少していくのはやはり寂しい。

一介の「市井の徒」がそんなご大層なことを心配しても何の役にも立たないけれど、いずれ自宅のSPユニットや真空管などがオークション市場に出回ることになるだろうから、そのときに少しでも活気を帯びていて欲しいと思うのは自分だけだろうか(笑)。

さて、このほど「音響・音楽心理学」に目を通していたら、今どきの「大学生」(平均年齢20歳)182名に対するアンケート調査の結果が記載されていた(P156頁)。

「音楽を毎日聴く」「ときどき聴く」を合わせて83%に上るほど、音楽の人気は高い。

その一方、「利用するオーディオ機器」の割合となるといささか寂しい結果が明らかとなった。

割合の多い順に羅列すると次のとおり。

「コンポ:34%」「カーステレオ:19%」「携帯電話15%」「パソコン:14%」「ウォークマン:11%」「iPod:5%」「その他:2%」と、いった具合。

興味深いのは「カー・・」「携帯・・」「パソコン」で48%とほぼ半分を占めていること。

これらの層をいかに「コンポ」へ引きずり込むかが今後の課題だろう・・、たとえば性能が良くてコスパに優れた「コンポ」をいかに普及させるか。

となると、小口径のフルレンジユニットや低価格でも設計次第では比較的簡単にいい音が出せる真空管アンプの出番でしょうよ、いや我田引水じゃなくて~(笑)。

ただし、若者たちから「なぜそんなにシステムに拘るんですか?」と、問われる可能性が高い。

そこで「システム次第で音楽から受ける感動はかなり違ってきますよ、それにデジタル社会に潤いをもたらす音楽の役割は増えることはあっても減ることはないんだから~」と答えるとしよう。

で、実際に商売気なしに相談できたり、聴く機会があるのがいちばん効果的だと思うけど、昔と違って世話焼きの「ご隠居」さんが減ってしまい、そういう老人と若者の交流の場が少なくなりました。

そういう意味では、2か月前のブログでご紹介させていただいた「田中」さん開設の「音の館」(ブログ:「ボロトレーンの日記」)は実に貴重な存在ですね・・。

✰ 「日々翻訳ざんげ~エンタメ翻訳この40年~」



たいへん興味深く読ませてもらったが、31頁に次のような叙述があったのでご紹介しよう。

「”は”と”が”の問題というのは日本語表現の永遠のテーマのように思うが、その使い分けについては私は次の二つの定義を一番のよりどころにしている。

ひとつは国語学者、大野普先生の有名な定義、未知の主語には”が”つき、既知の主語には”は”がつくというやつ。

<昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました>

という説明を初めて知ったときには軽く感動した。最初のお爺さんとお婆さんはまだ未知の存在だから”が”で、二番目のお爺さんとお婆さんは既に分かっている既知の主語だから”は”になるというわけだ。何とも明快である。

もうひとつは作家の井上ひさし氏の”は”はやさしく提示し、”が”は鋭く提示するというものだ。大作家の感性が光るこれも明解な定義である。

”は”と”が”の使い分けに迷ったときには、この二つの定義を思い出せばだいたい解決できるはずである。

ついでにもうひとつ言っておくと、”は”と”が”の使い分けに迷うのはたいてい言いたいことがハッキリしていないときである。

ということだった。

自分のケースで言わせてもらうと、たかがブログにしろ18年もやっていると、これまで「は」と「が」の使い分けについては「何となく」カンに頼ってきたものの、こうして明解に指針を提示していただくと非常に分かりやすいし、頭の訓練にもなる。

これだから、ブログは(が)止められない(笑)。



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音楽ソースに振り回される「悲しいオーディオ」の顛末

2024年07月02日 | 音楽談義

クラシック愛好家なら「ワグネリアン」という言葉をご存知のはずですよね!

とはいえ、読者の中にはジャズ愛好家もいらっしゃることだろうし、確率は五分五分くらいかな~。

一言でいえば「リヒャルト・ワーグナー」(1813~1883年)の音楽が好きで好きでたまらない連中を指す。

昨日(1日)のこと、梅雨真っ只中の鬱陶しい気分を吹き飛ばそうと久しぶりに「ワルキューレ」(ショルティ指揮)を聴いてみた。

すると「威風堂々と辺りを睥睨(へいげい)する」かのような独特の音楽に大いに痺れてしまった。

平たくいえば、自分がまるで天下の英雄になったかのような痛快な気分とでもいおうか・・、なるほどとワグネリアンの心境の一端が分かるような気がした。

そういえば第二次世界大戦のさなか、あの「ヒトラー」(ドイツ)が聴衆を鼓舞するのにワーグナーの音楽をよく利用していたことは有名な話。

たとえ一時的にせよ「こういう錯覚」を起こさせてくれるのだから「凄い音楽」である。

これまでにもたびたびワーグナーの音楽に親しんできたがこういう気分になったのは初めてで、これは明らかにオーディオ・システムのおかげ・・、というか豊かな低音域を誇る「ウェストミンスター」(改)の面目躍如といったところかな~(笑)。

あの「五味康佑」さんの言葉・・、「オートグラフはワーグナーを聴くためにつくられたスピーカーだ」と、一脈通じるものがあると思いますよ~。



というわけで、いつものように「熱に浮かされるタイプ」(博多弁でいえば「逆上(のぼ)せもん!」ですな)なので次から次にワーグナー三昧。

  

聴けば聴くほどに凄い音楽ですよ~(笑)。

で、そのうちいつものように「欲」が出てきた・・、もっとスケール感が出るといいなあ


というのも、ワーグナーを聴いている限り、通常の音の「彫琢とか艶とか奥行き感」などの「”ちまちま”した音質」の心配は吹っ飛んでしまう、というか、もう ”そこそこ” でいい(笑)。

とにかくマッシブで雄大で力強い低音が出てくれればそれで十分な気になるのが不思議。こればかりはもう「ワーグナーの魔法」にかかったとしか言いようがない。

で、この低音域に相応しいアンプをあてがうとなると、我が家の9台のアンプの中では「EL34プッシュプル」アンプにとどめを刺すといっていい。

我が家では一番の「力持ち」だが、やや繊細さに欠けるところがあって、日頃はめったに登板の機会が無いアンプ・・。



こうして「ワーグナー」さんのおかげで、眠っていた「アンプ」が見事に蘇ってくれました~、メデタシ、メデタシ。

以上、音楽ソースに振り回される「悲しいオーディオ」の顛末でした(笑)。



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