今日は、比較的暖かな陽気となりました。今日は調子が良かったので散歩に出かけてみたのですが、日陰に入るとまだ風の冷たさが身に沁みました。
ところで今日2月15日は、かの名作ワルツ《美しく青きドナウ》が初演された日です。《美しく青きドナウ》(An der schönen, blauen Donau)作品314は、
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ヨハン・シュトラウス2世(1825〜1899)が1867年に作曲したウィンナ・ワルツで、現在は管弦楽作品として親しまれていますが、元々は合唱用のウィンナ・ワルツです。
この曲は《ウィーンの森の物語》《皇帝円舞曲》とともにヨハン・シュトラウス2世の『三大ワルツ』に数えられている中でも最も人気が高い作品で、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品です。オーストリアにおいては、正式なものではありませんが、帝政時代から現在に至るまで『第二の国歌』とも呼ばれています。
1865年初頭、シュトラウス2世は、ウィーン男声合唱協会から協会のために特別に合唱曲を作ってくれと依頼されました。この時シュトラウス2世は断ったのですが、
「今はできないことの埋め合わせを、まだ生きていればの話ですが、来年にはしたいとここでお約束します。尊敬すべき協会のためなら、特製の新曲を提供することなど、おやすい御用です。」
と約束しました。
約束の1866年には新曲の提供はされませんでしたが、シュトラウス2世は合唱用のワルツのための主題のいくつかをスケッチし始めました。翌1867年、シュトラウス2世にとって初めての合唱用のワルツが、未完成ではあったもののウィーン男声合唱協会に提供されました。
シュトラウス2世はまず無伴奏の四部合唱を渡しておいたのですが、その後、
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急いで書いたピアノ伴奏部を
「汚い走り書きで恐れ入ります。二、三分で書き終えないといけなかったものですから。ヨハン・シュトラウス。」
というお詫びの言葉とともにさらに送りました。シュトラウス2世からピアノ伴奏部が協会に送付されてきた当初、この曲には四つの小ワルツがワンセットになっていて、それに序奏と短いコーダが付いていました。
この四つの小ワルツとコーダに歌詞を付けたのはアマチュアの詩人であるヨーゼフ・ヴァイルという協会関係者でしたが、歌詞を付ける作業は一筋縄ではいかなかったようです。というのも、ヴァイルが四つの小ワルツにすでに歌詞を乗せた後で、シュトラウス2世がさらに五番目の小ワルツを作ったからで、シュトラウス2世はヴァイルに四番目の歌詞の付け替えと、五番目の小ワルツの新たな歌詞、そしてコーダの歌詞の改訂を要求したといいます。
初演の直前になって急に曲にオーケストラ伴奏を付けることが決まり、シュトラウス2世は急ピッチで作曲の筆を進めました。ドナウ川をイメージしたと伝えられる有名な序奏部分も、実は初演の直前に急いで書き足されたものです。
そして1867年2月15日、合唱曲《美しく青きドナウ》はウィーンのディアナザールで初演されました。当日夜、シュトラウス2世とシュトラウス楽団は宮廷で演奏していたため、合唱指揮者ルドルフ・ワインヴルム(ドイツ語版)の指揮のもと、当時ウィーンに暫定的に駐留していたハノーファー王歩兵連隊管弦楽団の演奏で初演されました。
初演は不評に終わったと言われることが多いですが、実際のところ当時のウィーンの新聞の多くはこの初演の成功を報じています。決して不評というわけではなかったのですが、アンコールがわずか1回だけだったことは作曲者にとって期待外れだったようです。
その後《美しく青きドナウ》は、パリやロンドンで絶賛され、こうした評判がウィーンにも届くとウィーンでも演奏されるようになり、その後たちまち世界各地で演奏されるようになっていきました。1872年6月17日にシュトラウス2世を招いてアメリカ合衆国ボストンで催された「世界平和記念国際音楽祭」では、2万人もの歌手、1000人のオーケストラ、さらに1000人の軍楽隊によって、10万人の聴衆の前でこのワルツも演奏されました。
やがて、この曲に「国歌」にふさわしい歌詞が伴うようになりました。1890年、フランツ・フォン・ゲルネルトによる現行の歌詞に改訂されたのです。
ゲルネルトもやはりヨーゼフ・ヴァイルと同様ににウィーン男声合唱協会の会員で、作曲や詩作をたしなむ裁判所の判事でした。新たに付けられた歌詞は、かつてヴァイルが付けたものとはまったく異なる荘厳な抒情詩でした。
Donau so blau,
so schön und blau
durch Tal und Au
wogst ruhig du hin,
dich grüßt unser Wien,
dein silbernes Band
knüpft Land an Land,
und fröhliche Herzen schlagen
an deinem schönen Strand.
いとも青きドナウよ、
なんと美しく青いことか
谷や野をつらぬき、
おだやかに流れゆき、
われらがウィーンに挨拶を送る、
汝が銀色の帯は、
国と国とを結びつけ、
わが胸は歓喜に高鳴りて、
汝が美しき岸辺にたたずむ。
改訂新版が初めて歌われたのは1890年7月2日で、この後広く『ハプスブルク帝国第二の国歌』と呼ばれるようになっていきました。ウィーンを流れるドナウ川をヨーロッパの国々に繋がる一本の帯に見立てた国土を謳う立派な歌詞が付けられたことで、このワルツはハプスブルク帝国およびその帝都ウィーンを象徴する曲に生まれ変わったのでした。
オーストリアでは帝政が廃止された後、ハイドンによる皇帝讃歌《神よ、皇帝フランツを守り給え》から別の国歌に変更され、さらに紆余曲折を経てモーツァルトの作品とされる『山岳の国、大河の国』に変更されました。その一方で《美しく青きドナウ》は、オーストリア=ハンガリー帝国時代と変わらず『第二の国歌』としての立ち位置を維持していきました。
1945年4月に、オーストリアはナチス・ドイツ支配から解放されました。しかし独立後の国歌が未定だったことから、オーストリア議会はとりあえず正式な国歌が決まるまでの代わりとして《美しく青きドナウ》を推奨しました。その伝統は、今でも続いています。
そんなわけで、今日は《美しく青きドナウ》を、初演時の合唱曲バージョンでお聴きいただきたいと思います。ヨハン・シュトラウス2世最大のヒット曲にして、『オーストリア第二の国歌』たる名曲をお楽しみください。