♪6月6日に雨ザァーザァー降ってきて…の絵描き歌のとおり、今日は冷たい雨の降り続く空模様となりました。そして今日、気象庁から関東地方が昨年より8日早く梅雨入りしたことが発表されました。
ところで、今日6月6日はハチャトゥリアンの誕生日です。
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903〜1978)は、プロコフィエフやショスタコーヴィチと共に旧ソ連を代表する作曲家の一人です。
ハチャトゥリアンは1903年グルジア(現在のジョージア)の首都トビリシに、5人兄弟の末っ子として生まれました。ただ、両親が共にアルメニア人だったため、ハチャトゥリアンはグルジア人ではなくアルメニア人としてのアイデンティティを生涯貫き通しました。
実はハチャトゥリアンは他の作曲家のように幼少期から音楽の教育を受けていたわけではなく、本格的に音楽の勉強を始めたのは18歳になってからでした。それまでは、何と楽譜も読めなかったと言われています。
それでも、19歳で数々の有名音楽家を輩出している名門校であるグネーシン音楽学校に入学してチェロと作曲を学び始め、更に1929年からはモスクワ音楽院に在籍して作曲や管弦楽法を学びました。
モスクワ音楽院在籍中に作曲したピアノ曲《トッカータ》には既にアルメニアの民族音楽が垣間見られ、早い時期からハチャトゥリアンが民族音楽と西洋音楽の融合を模索していた形跡をうかがい知ることができます。その後は順調に音楽家としてのキャリアを重ねていき《交響曲第二番》や《ヴァイオリン協奏曲》、バレエ《ガイーヌ》など数々の名作を発表して、音楽家としての名声をよりいっそう高めていきました。
順調にキャリアを重ねたかに見えたハチャトゥリアンでしたが、ある時期ピンチが訪れます。スターリン体制下の1948年に、ソビエト中央委員会書記であったアンドレイ・ジダーノフによって前衛芸術の取り締まり強化を敢行した『ジダーノフ批判』と呼ばれる政策が布かれ、その監視の矛先がハチャトゥリアンにも向けられてしまったのです(この監視は1948年から1958年にかけての10年あまりにわたって続きました)。
当時のソビエトの芸術的指針は
「(芸術とは)形式においては民族的、内容においては社会主義的でなければならない」
とされ、ハチャトゥリアンの作風はその精神に反するものと当局からみなされてしまいました。これはハチャトゥリアンだけに限ったことではなく、当時のソ連で活躍していたプロコフィエフやショスタコーヴィチなどもジダーノフ批判の槍玉にあげられ、彼らは新作作品の上演禁止や、当局の『国意高揚・民意高揚』といった意向に沿った作品の制作を半ば強要されていたのです。
しかし、スターリンの死後は少しずつ監視の目から解放されるようになり、1956年には母校であるグネーシン音楽学校とモスクワ音楽院の教授に就任して後進の教育に勤め始めました。また1960年代になると日本へも来日し、読売交響楽団との共演も果たしています。
さて、ハチャトゥリアンといえばバレエ音楽《ガイーヌ》が有名です。中でも『剣の舞』は圧倒的人気を誇っていて、管打楽器が活躍することからオーケストラだけでなく吹奏楽アレンジのものもよく演奏されています。
勿論『剣の舞』も好きなのですが、私が個人的に好きなのが『レスギンカ』です。コーカサスの勇壮なリズムにのせて奏でられるメロディには、爆発的なエネルギーが満ちています。
そんなわけで、ハチャトゥリアンの誕生日である今日は、その『レスギンカ』をお楽しみいただきたいと思います。古いハチャトゥリアンの自作自演の動画もあるのですが、今回はヴラィミール・フェドセーエフ率いるモスクワ放送交響楽団が1991年にNHKホールで演奏した『伝説のアンコール』をお聴きいただきたいと思います。
このアンコールの前にはチャイコフスキーの交響曲第5番という大作を演奏したばかりのはずなのですが、その疲れを微塵も感じさせない迫力とエネルギー満載の演奏は圧巻の一言です。確かバレエ音楽のはずの『レスギンカ』ですが、恐らくこのフェドセーエフのテンポで踊れるバレエダンサーはいないのではないでしょうか…。
特にサムネイル画像になっているアレクサンドル・サモイロフさんのパワフルなスネアドラムの叩きっぷりと、トランペットの超っ早メロディの超絶技巧に注目してお聴きいただきたいと思います。そして、演奏後の嵐のような大喝采も聞きものです。