今日は朝晩は涼しい風を感じるものの、それでも日中は夏日となりました。もう余程のことがない限り、神奈川県で最高気温が20℃を下回るようなことはなさそうです。
ところで、今日6月5日はヴェーバーの祥月命日です。
カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー(1786〜1826)はドイツ・ロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニストです。因みに、モーツァルトの妻であるコンスタンツェ・ヴェーバーは彼の従姉にあたります。
1786年にドイツに誕生したヴェーバーの一家は今で言う演劇興行一座を行っていて、幼い頃から音楽的才能を見せた彼は父親によって英才教育を受けていました。そして、一家の巡業に同行してはその地で作曲やピアノの手ほどきを受けながら、12歳の頃には本格的な音楽活動を始めて、18歳になる頃にはブレスラウ(現在のヴロツワフ)で音楽監督の職に就いて、その地で行われるあらゆる音楽活動に携わるようになりました。
作曲家の他にピアニスト、指揮者、音楽批評家としての執筆など様々な活動をしていたヴェーバーですが、その最大の功績とも言えば、何と言っても1821年に作曲した歌劇《魔弾の射手》でしょう。
当時ドイツでは、オペラの本場であったイタリアを一方的ながらライバル視していました。そんな中でドイツの作曲家たちは、イタリアオペラとは違うドイツ語の台本を用いたドイツならではのオペラの創造を模索していました。
ヴェーバーは《魔弾の射手》の中でドイツ人になじみのある森の風景や神話的題材を取り入れ、ドイツらしい独自のオペラ作品を完成させました。更にオーケストラ編成の斬新さや主題の超自然的要素などは古典主義からロマン主義への移行を予感させるものとして19世紀のオペラの重要な形式となって、
ヴァーグナーなど後の作曲家たちに多大な影響を与えることになりました。
ただ、ヴェーバーは生まれた時から病弱でもありました。にもかかわらず、その多才さから生涯にわたって多忙を極めたヴェーバーの身体には、知らず知らずのうちに無理が蓄積していっていたようです。
特に亡くなるまでの約10年間には結核を患って度々その症状に苦しんでいましたが、そんな中でも音楽活動を続けていました。しかし、1826年に自身のオペラ《オベロン》を上演するために訪れていたイギリス・ロンドンでの無理が決め手となってドイツに帰国する寸前に喀血してしまい、そのまま6月5日に僅か39年の生涯をロンドンの地で閉じたのです。
さて、《魔弾の射手》や《オベロン》といった歌劇や、後にベルリオーズによってオーケストラ編曲されたピアノ曲《舞踏への勧誘》等で有名なヴェーバーですが、ひねくれ拙ブログとしてはそういったメジャーどころは紹介しません。ということで、今回はヴェーバーの室内楽をご紹介しようと思います。
ヴェーバーは歌劇の他にも、交響曲や協奏曲、室内楽といった器楽作品も多く作曲しました。その中でもクラリネットのための作品をいくつか遺していますが、とりわけ有名なのが《クラリネット五重奏曲 変ロ長調》です。
この曲は、当時クラリネットの名手として知られていたハインリヒ・ヨーゼフ・ベールマンのために1811年に作曲が始められました。しかしヴェーバーの生活が安定しなかったため作曲は遅れてしまい、1813年2月14日のベールマンの誕生日に第3楽章までが贈られました。
その2年後の1815年8月25日に第4楽章が贈られて、同年中に初演も行われました。現在ではモーツァルトのイ長調、ブラームスのロ短調と並ぶクラリネット五重奏曲の代表的作品として演奏されています。
ヴェーバーのクラリネット五重奏曲はクラリネットに高度な技巧が要求される反面、弦楽合奏には比較的単純な伴奏に回る場面が多く、弦楽との室内楽的な調和を見せるモーツァルトやブラームスの作品と比べると、クラリネット独壇場の協奏曲のようなものとなっています。実際に弦楽パートを弦楽合奏に編曲して、クラリネット協奏曲の形式での演奏や録音も少なくありません。
そんなわけで、ヴェーバーの祥月命日の今日はその《クラリネット五重奏曲 変ロ長調》をお聴きいただきたいと思います。モーツァルトとブラームスの狭間にいる目立たない作品ながら、《魔弾の射手》や《舞踏への勧誘》を作曲したヴェーバーならではの優しい響きのクラリネット五重奏曲をお楽しみください。