昼前から降り始めた雨はどんどん強まって、夕方頃には上着を一枚羽織っていないと肌寒く感じるくらいまで気温が下がりました。昨日まで夏日騒ぎをしていたというのに、こんなに一気に気温が下がると面食らいます。
ところで、今日5月7日はチャイコフスキーの誕生日です。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜1893)は、言わずと知れたロシアを代表する作曲家で、叙情的で流麗、メランコリックな旋律と和声、華やかで効果的なオーケストレーションなどから、クラシック音楽界の中でも人気の高い作曲家のひとりとなっています。
チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)イリヤ・ペトローヴィチ・チャイコフスキーの次男として生まれました。8歳でピアノを始めたチャイコフスキーでしたが、その後法律家になるために勉学に勤しんで法務省に勤めていました。
しかし1861年、21歳でロシア音楽院に入学すると23歳で法務省を辞職し、1865年に卒業しました。本格的に音楽家として歩み始めたのは翌年の1866年、なんとチャイコフスキーが26歳の時でした。
チャイコフスキーの音楽家としての最初の仕事は、モスクワ音楽院での教師でした。はじめはとても貧しかったようですが、音楽院の校長であったニコライ・ルビンシテイン(1835〜1881)の暖かい助けによって救われたといいます。
1866年1月にモスクワへ転居したチャイコフスキーは、この年に《交響曲第1番『冬の日の幻想』作品13》の作曲を始め、12月に第2楽章が初演、翌年2月に第3楽章が初演されました。因みに、全曲が初演されたのは1868年のことです。
国民的色彩の強い《交響曲第1番》の初演をきっかけに、1868年にはサンクトペテルブルクでロシア民族楽派の作曲家たち、いわゆるロシア5人組(ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフ)と知り合い、交友を結びました。同年、バラキレフの意見を聞きながら《幻想的序曲『ロメオとジュリエット』》を作曲し、それをバラキレフに献呈しています。
チャイコフスキーは、5人組の音楽とはある程度距離をとっていました。それでも、この後のチャイコフスキーの音楽にはロシア風の影響が随所に現れるようになっていきました。
さて、そんなチャイコフスキーの誕生日にご紹介するのは《イタリア奇想曲》です。これは私が高校生の頃に初めて演奏に参加したチャイコフスキー作品として、個人的に思い入れの深い曲でもあります。
《イタリア奇想曲 作品45》は、チャイコフスキーが1880年に作曲した管弦楽曲です。イタリア様式の伝統的な奇想曲風の作品で、原題は『民謡旋律によるイタリア組曲』といいます。
実はこの前あたりから、チャイコフスキーは精神的な打撃を受けてノイローゼに悩んでいました。チャイコフスキーは37歳の時に結婚したのですが、彼の芸術を全く理解しようとしない妻との生活がたった3ヶ月で破綻してしまったことが大きな要因でした。
この精神的な落ち込みを回復するべく、チャイコフスキーは弟とともにイタリアへの旅行へ出発します。フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリなどを経たのち、チャイコフスキーは目的地であるローマへたどり着きました。
この旅でチャイコフスキーはイタリア人の「人生をおおらかに楽しむ生き方」を見た影響もあり、ノイローゼの症状は和らいでいったのでした。その時にイタリア各地で聴いた民謡や踊りなどから刺激を受けて、チャイコフスキーはこの曲作りを開始しました。
イタリアから帰国後の1880年5月15日に本格的に作曲に取り組み、同年夏に妹のアレクサンドラが住むウクライナのカメンカでオーケストレーションを施して《イタリア奇想曲》は完成しました。同年12月6日にモスクワのロシア音楽協会の定期演奏会でニコライ・ルビンシテインの指揮によって初演されてかなりの好評を持って迎えられたこの作品は、高名なチェリストのカルル・ダヴィドフに献呈されました。
トランペットの華やかなファンファーレで始まると、いかにもイタリアらしい楽しげなメロディが次から次へと現れます。やがてタランテラのリズムが始まると音楽は熱を帯びてどんどん盛り上がっていき、最後には打楽器を含めた全オーケストラの華やかな響きの中で音楽を締めくくります。
そんなわけで、チャイコフスキーの誕生日である今日は《イタリア奇想曲》をお聴きいただきたいと思います。マリス・ヤンソンス指揮、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団による、1985年のライブ映像でお楽しみください。