毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
データ
「大学で何を勉強した?」と問われたら、躊躇なく「麻雀!」と答える。講義には行かずとも、大学の構内には毎日麻雀をしに行っていた。牌をにぎらぬ日はなかったし、徹夜なんてほぼ毎日だった。何でそれほど麻雀ばかりやっていたのだろう?暇な時間がたっぷりあったからだとも言えるだろうし、それより他に面白いことがなかったのかもしれない。だけどやっぱり麻雀が好きだったんだろう。だから、大学を卒業して結婚してからも、しばらくは週末に麻雀をほぼ徹夜でやっていた。娘が生まれるくらいまでは月に2、3回はやっていたように思う。今ほどタイトな時間割で塾の授業をやっていなかったからそんなこともできたのだろうが、時々その頃のことを思い出した妻から嫌味を言われる。妻の言い分も至極もっともなことなので、そんな時は何も言い返さずに黙って聞いている。
そんな私ではあるが、もう10年以上も卓を囲んでいない。誰もが皆忙しくてのんびり麻雀をする時間がない。一人二人ならまだしも、四人が同時にまとまった時間の都合が付くなんてことはそうそうない。だからと言って特に寂しくもない。牌をにぎらぬ日は右手の雀ダコが疼く、などと嘯いていた私の面影など遠い昔のことになってしまった。年を取ったものだ・・。
それでも、先日書店で「科学する麻雀」(とつげき東北著・講談社新書)という本を見つけたときは久しぶりに血が騒いだ。「『数理の力』があなたの麻雀を変える!――裏スジは危険ではない/打ちまわしは無意味だ/ベタオリには法則がある/『読み』など必要ない」などと帯に書いてあるのを読んだら、今まで私が麻雀のセオリーだと信じてきたことが否定されたようで、どういう理論によってこういう大胆な発言が可能になったのか、一読してみなければ気が済まなくなった。お手並み拝見!、という意気込みで読み始めた。
しかし、すぐにがっかりしてしまった。著者はインターネット麻雀で圧倒的な実力を発揮し、「膨大なデータ収集と緻密な解析にもとづく理論は次々と定説を塗り替え、ネット雀士のカリスマ的存在」なのだそうだ。その成果の集大成だと思われる本書では、私にはとても理解できない数式を駆使し、多量のデータを分析した結果、どのような状況であっても迷うことなく、「こう打て!」といった戦術論を説いている。確かに、ツキとかカンとか読みといった不確定要素に満ちたものに頼って勝負していくよりは、数字的な裏づけのある勝つ確率の高い一手を積み重ねていけば、勝利する可能性は高くなるかもしれない。しかし、それはネット麻雀という無機的な空間においてこその話ではないだろうか。実際に麻雀卓を囲んで四人が対峙したとき、麻雀は生き物となる。それぞれ麻雀の実力の異なる四人が、己の知力・体力・胆力の限りを尽くして、卓を囲んでせめぎ合うのが麻雀だ。そこでは一瞬一瞬に状況は変わるのだから、その状況を考慮に入れずに、一定不変の打ち方をしていっても、状況に飲み込まれてしまって、結局は一敗地をなめてしまうような気がする。生々流転の縮図である実戦麻雀では、インターネット麻雀から得た機械的な手法は機能しないのではないか、そんな思いがページを進めるたびに募ってきて、とうとう半分ほど読んだところで、本を打っ棄ってしまった。
データを基にすべてを数字化して客観的に判断することが有効な分野はいくつもあるだろう。しかし、多くの人間の思いが交錯しながら胸が熱くなるドラマを形作るような分野では、このような客観的な指針ですべてを判定しようとするのは無理があるように思う。ヤンキースの新監督、ジラルディーはパソコンによるデータ解析を指揮に取り入れていると聞くが、今のところ、左打者は左投手に分が悪いなどというステレオタイプ化したデータを重要視しているようで、落胆するばかりである。データに向かい合う時間があるならば、もっと自分の目で選手一人一人のコンディションを把握するようにしなければ、ヤンキースのポストシーズン進出の芽は限りなく小さくなってしまいそうだ。
そんな私ではあるが、もう10年以上も卓を囲んでいない。誰もが皆忙しくてのんびり麻雀をする時間がない。一人二人ならまだしも、四人が同時にまとまった時間の都合が付くなんてことはそうそうない。だからと言って特に寂しくもない。牌をにぎらぬ日は右手の雀ダコが疼く、などと嘯いていた私の面影など遠い昔のことになってしまった。年を取ったものだ・・。
それでも、先日書店で「科学する麻雀」(とつげき東北著・講談社新書)という本を見つけたときは久しぶりに血が騒いだ。「『数理の力』があなたの麻雀を変える!――裏スジは危険ではない/打ちまわしは無意味だ/ベタオリには法則がある/『読み』など必要ない」などと帯に書いてあるのを読んだら、今まで私が麻雀のセオリーだと信じてきたことが否定されたようで、どういう理論によってこういう大胆な発言が可能になったのか、一読してみなければ気が済まなくなった。お手並み拝見!、という意気込みで読み始めた。
しかし、すぐにがっかりしてしまった。著者はインターネット麻雀で圧倒的な実力を発揮し、「膨大なデータ収集と緻密な解析にもとづく理論は次々と定説を塗り替え、ネット雀士のカリスマ的存在」なのだそうだ。その成果の集大成だと思われる本書では、私にはとても理解できない数式を駆使し、多量のデータを分析した結果、どのような状況であっても迷うことなく、「こう打て!」といった戦術論を説いている。確かに、ツキとかカンとか読みといった不確定要素に満ちたものに頼って勝負していくよりは、数字的な裏づけのある勝つ確率の高い一手を積み重ねていけば、勝利する可能性は高くなるかもしれない。しかし、それはネット麻雀という無機的な空間においてこその話ではないだろうか。実際に麻雀卓を囲んで四人が対峙したとき、麻雀は生き物となる。それぞれ麻雀の実力の異なる四人が、己の知力・体力・胆力の限りを尽くして、卓を囲んでせめぎ合うのが麻雀だ。そこでは一瞬一瞬に状況は変わるのだから、その状況を考慮に入れずに、一定不変の打ち方をしていっても、状況に飲み込まれてしまって、結局は一敗地をなめてしまうような気がする。生々流転の縮図である実戦麻雀では、インターネット麻雀から得た機械的な手法は機能しないのではないか、そんな思いがページを進めるたびに募ってきて、とうとう半分ほど読んだところで、本を打っ棄ってしまった。
データを基にすべてを数字化して客観的に判断することが有効な分野はいくつもあるだろう。しかし、多くの人間の思いが交錯しながら胸が熱くなるドラマを形作るような分野では、このような客観的な指針ですべてを判定しようとするのは無理があるように思う。ヤンキースの新監督、ジラルディーはパソコンによるデータ解析を指揮に取り入れていると聞くが、今のところ、左打者は左投手に分が悪いなどというステレオタイプ化したデータを重要視しているようで、落胆するばかりである。データに向かい合う時間があるならば、もっと自分の目で選手一人一人のコンディションを把握するようにしなければ、ヤンキースのポストシーズン進出の芽は限りなく小さくなってしまいそうだ。
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