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20年祭

 母が亡くなって今年で20年になるので、7日の命日に先立って20年祭を催した。と言っても、20年も経てば大袈裟なことをする必要もなく、私の妹と弟の家族、そして母の長姉を集めただけのごく内輪の式だった。私の娘と息子も前日夜遅く戻ってきて、久しぶりに一族郎党が集まったため、私の父は朝早くから上機嫌だった。いつの間にかお神酒を飲んでいたらしく、式が始まる前からやたらテンションが高く一同かなり閉口したが、父にとってはひとつの節目の日でもあろうから、苦笑いするしかなかった。
 父の従兄弟である禰宜が式を執り行ってくれた。私たちが準備したものは、海の物として黒鯛・するめ・昆布、山の物として大根・人参・椎茸など、母の葬儀のときに供物として並べた物を思い出して供えた。これで本当に大丈夫なのか?と心配にもなったが、内輪の式だから・・と無理に納得しておいた。


 
 掛(かけ)まくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に成(な)りませる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち)諸諸(もろもろ)の禍事罪穢有(まがごとつみけがれあ)らむをば祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)も白(まを)す

 禰宜の祝詞に合わせて拝礼を繰り返すうちに、玉串を捧げる段になった。一人一人祭壇に進み、玉串を捧げて拍手を2度打った。弟の小さな子供たちも可愛い手を合わせて、祭事は滞りなく終わった。仏式の法事と比べたら、拍子抜けするほど短時間で終わってしまった。しかし、それぞれが母が亡くなってからの20年を心の中で思い起こしたであろうから、きっといい供養になったはずだ。私も久しぶりに生前の母の姿が瞼に浮かんできて、少しばかり胸が熱くなった・・。



 神事が終わって、母のお墓に詣でた。私は月命日には欠かさず詣でているが、身内一同揃っての参拝は実に久しぶりだ。これだけの人が一度に来てくれて、さぞや母も嬉しかったことだろう。
 母が亡くなったのは52歳、私もあと3年ほどしたらその歳になってしまう。その時も「死ぬにはまだ早い」と嘆き悲しんだものだが、実際に自分がその年齢に近づいてみると、本当に短い一生だったなあ、と思う。私があと3年しか生きられないとしたら、どうだろう。特にこれがやりたいとか、何かやり残したことがあるなどとは思わないが、いくらなんでももうちょっと生きていたいとは思う。今までと同じようにダラダラ過ごすだけだろうが、それでも生きていたいと思う。そう思えば、母はきっと多くの思いを残して死んでいったことだろう。死に際に途切れ途切れの声で私に言った、「お父さんを・・」という言葉は今でも耳に残っている。私が母の思いを十分に果たしてきたかは心もとないが、20年経ってかなり老人となった父を見て、母は何を思っただろう。自分が生きていたら、もっとちゃんと世話をしたのに、と私を怒るかもしれない。そうかもしれないが、それでも、元気で酔っ払って、20年祭を立派に差配してくれた父には感謝しているに違いない、私はそう思っている。
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