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「友だち地獄」

 日々、子供たちと接していて、今の子供たちを理解しがたいと思ったことは余りない。毎年塾の生徒たちとは確実に年齢が離れていっているわけだから、ジェネレーションギャップを感じるのは当たり前だ。少し以前は子供たちとうまくやっていくのに自信をなくしかけたこともあるが、今はもう、親子以上に年の離れた子供たちと同じ土俵に立つことなどできるわけないと開き直って、自分の思い通りにやっているだけなので、「今の子供たちは理解できない」などと思ったりすることは少なくなった。それでもやっぱり子供たちの肉声を絶えず聞いているのだから、彼らについて思うことは多々ある。ただそれを意識すると身動きが取れなくなってしまいそうなので、あえて知らん振りをしていることも多い。
 そんな私にとって、土井隆義著「友だち地獄」(ちくま新書)は多くの示唆に満ちた本だった。「『空気を読む』世代のサバイバル」と副題が示しているように、今の若者たちが感じている「生きづらさ」を中心にして、彼らを取り巻く時代状況を明らかにしようとしている。学校生活における子供たちの人間関係から、リストカット少女・ネット集団自殺まで、現代の若者が共有している意識を私たちに示してくれているが、さすがの私も、リストカットを繰り返す少女やネット集団自殺をするような若者たちに接したことはない。果たして本書で語られたことがある特別な若者たちに限られたことなのか、それとも若者誰もが感じていることなかは軽々に判断できないが、「多分そうなんだろうな」と思わせるだけの論が積み重ねられていて、「現代の若者たちはこんなに生きづらさを感じているのか」と思うことたびたびであった。私はこういった新書を読むときには、チェックペンを近くにおいて、「なるほど」と思う箇所には線を引くようにしているが、本書を読み終えて、全編通してやたら線が引いてあるのに気づいた。それだけ私にとっては、読み応えのある本だったということになる。

 筆者は現代の若者たちの、対立の回避を最優先にする人間関係を「優しい関係」と呼ぶ。それは、他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうことを危惧すると同時に、それによって自分も傷つけられてしまうことを危惧する「優しさ」のことである。したがって彼らの間では微妙な距離感を保つことが大切であり、それができない者はKY(空気が読めない)と呼ばれて疎まれてしまい、それがいじめへとつながっていくこともある。すなわち現代のいじめ問題は「個々の自律性を確保できずに互いに依存しあわなければ自らの存在確認さえ危うい人々の人間関係から、そしてその関係自体が圧倒的な力をもってしまった病的な状態から生まれている」(P.51)のだと、作者は言う。
 こうした状況から若者が感じている「生きづらさ」は、何も現代の若者特有のものではなく、いつの時代の若者も感じていたものであるが、その内実がすこぶる変容している。作者は、自死した二人の女性、「二十歳の原点」の高野悦子と「卒業式までは死にません」の南条あやとの間の差異に注目して、「生きづらさ」がどう変わったのかを明らかにしていく。「『周囲の人びとから自立したい』という焦燥感かがもたらす高野の生きづらさは、30年という歳月を経て、周囲の人びとから『承認されたい』という焦燥感がもたらす南条の生きづらさへと変転している」という指摘は、作者と同じように高野と南条の間の世代である私にとっては、両者それぞれのメンタリティーが私自身の中に共存しているのを感じるだけに、大いに首肯してしまった。特に南条の他者に見つめてもらいたいという欲求は、現代の若者を理解する上で重要なキーワードとなる。
 現代の若者は思想・信条といった言語的・社会的な観念に対してではなく、内発的な衝動や生理的な感覚のみに依拠した脱社会的な「純粋な自分」に強い憧れを示すが、そんな自分が簡単に見つかるはずもなく、かえって自分を見失い自己肯定感を失うという事態に陥ってしまっている。そのため、人間関係に対する依存度がかつてよりも格段に高まり、具体的な他者に自分を認めてもらいたい欲求が高まっている。しかも、その時々の状況に応じて移ろいやすい気分に根拠を見出そうとする「純粋な自分」は、一貫性に乏しく断片化したものになってしまうため、他人からの自己承認は己の存在をサポートするためになくてはならないものとなる。そうした若者たちにとって、携帯電話は生きていくための羅針盤、微妙な人間関係の中での自分の位置を知るための、いわば「自己ナビゲーション」のために今や欠かすことのことのできないツールとなっている。このように、本来無限の広がりを持つはずのネットは、現代の若者たちにとって、ごく狭い世界の中での「優しい関係」を維持して行くための必須アイテムとなっているのだ。
 最後に、こうした現代の若者に向かって作者は述べている。「生きづらさを抱えながら生きることは、世界をただ漫然と生きるだけでなく、その世界に何らかの意味を求めざるをえない人間の本質である。したがって、生きづらさの放棄は、人間であることの放棄でもある。むしろ、いま何かを問うべきだとしたら、それは(中略)いかにこの生きづらさと正面から向きあい、むしろ人生の魅力の一部としてその困難をじっくり味わっていけるのか、その人間らしい知恵のあり方についてだろう」(P.228)
 要するに、「困難から決して逃げるな、困難を楽しめ」ということになるだろう、簡単にできることではないが・・。
 
 今まで読んだ新書の中でも1・2を争う名著だと思う。
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