goo

援助

 ここ数日気持ちのいい五月晴れが続いている。からっと晴れた今の季節は、暑くもなく寒くもなく快適に過ごせる。みずみずしい青葉に陽光がキラキラ反射して眩しくてたまらない、それもこの時期にしか味わえない喜びだ。
 などと生きている実感、喜びに満たされる毎日だが、そんな小さな喜びさえも味わえない、悲しみのどん底に突き落とされ悲嘆に暮れる時を送っている大勢の人々がいる。ミヤンマーではサイクロン、中国四川省では大地震に襲われて多くの人が亡くなり、行方不明者も数知れないほどだと言われている。ミヤンマーは軍事政権の下報道管制がしかれ、災害の実態はなかなか伝わってこないが、四川省からの報道では日に日に被害の甚大さが明らかになり、そうしたニュースに接するたびに目や耳を覆いたくなる。倒壊した建物の瓦礫に埋まった人々や、必死で救助活動を行う人々の姿を見ると胸が熱くなる。阪神淡路大震災の時は街のあちらこちらで燃え盛る火に地震の恐ろしを見て心が凍り、まるで地獄の業火を見ているようで涙が止まらなかった。四川省では大規模な火災が発生したとの報道はないものの、建物の倒壊は激しく、瓦礫の下に埋もれた多くの人々が救助を待ちながらも力尽きてしまう、まさに地獄絵図のようだ・・。
 
 こうした災害が起きるたびに、「自分はいったいどうしたらいいんだろう」と思う。何かをできるわけでもないのは自分が一番よく知っている。ボランティア精神とはかけ離れたところで毎日暮らしている私が、被災地の人々の生活を救うために・・などと言い出しても、誰も取り合ってはくれないだろう。確かに現地まで救援物資を山盛り担いでいって、救助作業を手伝うことができれば、それなりに役立つかもしれない。しかし、現実にはそんなことはできないし、それだけの互助精神を持ち合わせた男でもない。しかし、それでも何かしなければいけないのではないか、そんな気持ちは沸き起こってくる。だが、それも、被災者を慮ってのことというよりも、苦しむ人たちにのために何かしたい、しなければならないと自分は思ったんだという、謂わば自分自身に対するアリバイ作りのためであるような気がしてしまう。果たして私は、心から現地の人々の生活を案じているのだろうか、と考えてみると、しどろもどろになってしまう。
 実際中国やミヤンマーという自分にとっては縁もゆかりもない土地で苦しむ人々のために、私が心から何かしなければならない、などと思っているとは正直思えない。いくら想像力の欠如だ、と指摘されたとしても、虚心に己の心を覗き込むとそうだから仕方ない。仕方ないのはどうしようもない・・・。だが、やっぱりそれでも何かしなければ!と思うのは、たとえそれが思いやりの気持ちとか、助け合い精神の発露からではなく、人としての義務感や自分自身に対する言い訳、さらに言えば自分は何かしたんだぞ、という満足感を求めての結果だとしても、大事にしなくてはならないと思う。慈愛の心に満ち、傷つき倒れている人々の姿に涙しながらも、それ以上何もしないよりも、たとえ心のどこかでは他人事だと思いながらも、自分でもなぜだかよく分からないけれども、どうしても救援活動の一助となるようなことをしないではいられない方が、現地の人々にとって多少なりとも役立つことではないだろうか。
 そこで、思いついたのが救援募金だ。それなら私にでもできる、というか、それくらいしかできない。調べてみたら、いくつかあった。 

<ミャンマーを襲ったサイクロンと、中国・四川省の地震の被災者救援のための募金>
 ・朝日新聞社と朝日新聞厚生文化事業団・・「ミャンマー救援募金」または「中国・四川大地震救援募金」と明記し、郵便振替(00130・1・9166)で朝日新聞厚生文化事業団「救援募金」係へ。
 ・毎日新聞社と毎日新聞社会事業団・・「ミャンマー・サイクロン救援金」または「四川大地震救援金」と明記して、郵便振替(00120・0・76498)で。

 しかし、一番簡単なのが、「ちょコム」という制度だ。電子マネーを使って一口100円から募金を送ることができ、四川地震とミャンマーのサイクロン被害のどちらにも募金できる。早速試してみた。Pちょコム貯金箱の開設が必要なため、その手続きに少々手間取ったが、郵便局に出向くのと比べたら大したことではない。手続きを終え、四川地震とミヤンマーのサイクロンの両方に募金をした。小額ではあるが、私のせめてもの心だ。
 でも、ミヤンマーの場合、軍事独裁政権を助けることになってしまいそうなのが辛い・・。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする