じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

カミュ「シーシュポスの神話」

2017-09-20 22:21:57 | Weblog
☆ カミュの「シーシュポスの神話」(清水徹訳 新潮文庫)を読んだ。

☆ シシューポスは神から罰を受け、岩を山頂まで運ぶ仕事を課される。苦労して山頂まで持ち上げた岩は自らの重みで、ふもとに落ちていく。シシューポスはふもとまで駆け下り、また岩を頂上まで運ぶ。

☆ 何も考えなければ、ただ同じ作業の繰り返し。しかし、意識があればこそこの作業は苦しみだ。無駄だと知ってしまうからだ。苦しみから逃れるために自ら命を絶って、神に反抗の意を示そうか。しかし、そんなことをしたって、また同じ罰を与えられるだけだ。

☆ 何とも悲観的な状況だ。

☆ しかし、シーシュポスは、やがて微笑みながら下山するようになる。彼は何かを見つけたのだ。


☆ シーシュポスに与えられた罰。それは私たちにも当てはまる。生まれたからには必ず死が訪れる。私たちはそのことを知りながら、でも毎日生きている。死ぬために生きている。よく考えると不思議だ。

☆ 仏教の言う六道輪廻にも通じるものがある。生まれては死に、また生まれては死ぬ。解脱するまで繰り返される宿命。


☆ 夏の蝉。何年も地中に身を潜め、地上に出れば数日で死ぬ。それは「神」が与えた運命、あるいは「罰」と呼ばれるものかもしれない。何も考えずに「神」に逆らわなければそれまでだが、もし意識に目覚め、「神」に逆らう蝉が現れればどうなるだろうか。彼は地上には出ず、地中で死を待つか。

☆ ただ、地上に出ても、地中にいても死は必ず訪れる。


☆ 不条理とは「水に濡れないつもりで川のなかに飛び込む」ようなことだと訳者は言う。(9頁)

☆ 死ぬために生きている。肯定的に捉えれば、死を前にしていかに生きるべきかが問われるということか。

☆ 日蓮さんは言った。「死は一定なり」だからこそ「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」と。

☆ 思索を喚起する作品だった。
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桂米朝「落語と私」

2017-09-20 19:22:33 | Weblog
☆ 桂米朝さんの「落語と私」(文春文庫)を読んだ。

☆ この本は、「落語を10倍楽しく見る方法」と言っても良いだろう。

☆ 落語とはどんな芸能なのか、落語の面白さは何か、どのような話があるのか、落語の歴史はどうか、など落語に関するウンチクが山のように盛り込まれている。

☆ そのうえ、米朝さんが落語とどのように出会い、これからの落語をどう考えているのかまで書かれている。

☆ 文体はいつもの語り口調。本を読んでいると米朝さんの声が聞こえてくる。

☆ 最近は落語のテレビ放映が少なくなったが、ネットで名人芸を楽しみたいものだ。落語を楽しむ余裕を持ちたいものだ。
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「言いっぱなし」解散

2017-09-20 10:30:18 | Weblog
☆ 総理大臣の施政方針演説があって、即解散。代表質問なし。

☆ これって、第1次安倍内閣のようだね。

☆ あの時は、自民党内から「安倍おろし」が起こっていたけど、今は無風なのかな。

☆ 総理大臣のお腹の調子はどうでしょう。それは選挙が終わってからのお話か。
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