テレビを観ていたら、どこの局も、何かしらの方法で長野の中継をしており、それ自体、マスコミの「何かが起こるだろう」的な嫌な期待が感じられて観る気がしなかったが、聖火リレーが星野監督によってスタートした、午前8時15分、NHKは関係なく、いつもそうしているように、連続テレビ小説「瞳」をスタートさせていたことが、少し救いだった。
それにしても、長野の光景を見ていると、複雑である。
うまく言えないが、ここまでくると、もう、ナショナリズムの台頭がオリンピックの本質をも変えてしまいそうだ。
今でも、人が殺されているチベット。どこまでも思い上がりな中国。その巻き添えになっている感のある長野。
しかし、10年前、その長野でも、いくらかのナショナリズムを感じざるを得なかった。
聖火は、もちろん、オリンピックのシンボル的要素だ。そして、もともと、火というものは、人間を高揚させる要素も持っている。
それゆえ、このようなことになるのは理解できるが、僕が思うに、今回のことで、世界にチベットのことを考えさせる機会は十分に与えることはできているように思うので、あとは、僕らが、チベットの真実を知り、考えることが不可欠で、同時に世界の現実を想うことが重要なのだろう。
「chinese soldiers shooting tibetan pilgrims at mount everest」