はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

「栗、しぶかわ煮」

2011-10-17 21:58:38 | 世の中、ちょっとやぶにらみ


季節の移ろい・出来事      

     栗飯や 病人ながら 大食らい       子規

お腹がすく。病人といえどもお腹はすく。大食漢であったという正岡子規の心情。
食欲をそそるこの時期を象徴する、簡潔にして明瞭な一句である

手間暇かけて栗の渋皮煮が出来つつある。
大粒の栗が売られているお店へ、朝からわざわざ買い出し。その中からさらに大きい粒よりを選ぶ。先ず鬼皮を剥く。これが大仕事。内側の渋皮を傷つけないよう、丁寧に、後生大事に鬼皮を取り除く。包丁持つ手がしびれる。と、言うのを黙って聞いている。
栗ご飯やお煮しめに使うのなら、鬼皮・渋皮一緒に剥いて、中の実だけを取り出せばいい。
そう簡単に行かないところに、渋皮煮の深い味わいと上品さがある。と、食べる人が言う。

火にかけて、炭酸を入れ煮込む。次々出てくる泡を、付きっきりですくっては捨てる。
これ以上はこの目で確かめてはいないが、まだまだ相当な手間がかかりそう。

出来上がったのを賞味するするのは明日の午後になるのだろう。
それにしても、あのフン詰まりになりそうな渋皮をつけたままの栗を煮込んで、姿・形をを崩さないまま、名状しがたい味に仕上げるなどを誰が考えたのだろうか。

よほど口の肥えた宮中人が、気まぐれに所望した栗の美味しい食べ方に、料理人が必死に応えようとして編み出したものか。
それとも、愛する君に格別美味しいものを食べさせようと、甲斐甲斐しく思いを巡らせるうちに編み出されたものなのだろうか。

単に、ネットからレシピを取り出してプリントしただけのこの身。
ひたすら低姿勢で有り難く頂くことにしよう。

世の中ちょっとやぶにらみブログからお借りしました。



「雲流れて・・・」

2011-07-05 17:58:20 | 世の中、ちょっとやぶにらみ



2011年07月02日        
 
水平線の向こう、積乱雲までに至らない雲が流れて

7月2日、はんげしょう。
なにゆえこの日が「はんげしょう」なのか。諸説があって掴みどころのない不思議な日。
子供心に耳に残っている、おふくろがよく口にしていた言葉を思い出す。
「はんげの禿げあがり」このころになると梅雨が上がる・・・という意味のことだったと思う。

「半夏生(はんげしょう)」これは半夏と呼ぶ毒草が生えるという意味で、昔はそのために毒気が空中に立ち込めると言って、畑の野菜類を取って食べることを控え、井戸には前の日からふたをする習慣があった。と言われている。

実際には「はんげしょう」という名の草があってこの時期に白い花を咲かせる。
花の周囲の葉っぱが一斉に白い色に変って見える。その様子が、草全体が半分お化粧をしたように見える。
つまり「半化粧」というのが語源と言われているから、呼び方は同じでも、半夏生と半化粧は別物として考えるのがよい。と歳時記の拾い読みでsる。

それにしても「半化粧」とは、どうして半分なの?何か急なことでも起きて、半分しか出来なかったの?などと、なんとなく男心をそそる呼び名ではある。

梅雨も上がらぬ蒸し暑さと湿っぽさの中で考えることではないような気もするが、日本の夏を彩る風物詩であるなら、ちょっと理屈を飲み込んでおこうかと・・・。
それにしても、同じ発音でまるで意味が異なる日本語。その難しさを改めて知る思いの、文月の冒頭である。 世の中ちょっとやぶにらみブログより転載

「2年越しのアマリリス」

2011-05-30 22:00:56 | 世の中、ちょっとやぶにらみ


2011年05月30日 | 季節の移ろい・出来事        

梅雨に入ったとたんの台風襲来による大雨。この雨を待っていた植物もある。
大きなツボミを抱え、開こうかどうしようか・・・迷っていた感じの純白のアマリリス。
雨と共に一気に開いた。背こそ高くはないがその大輪の華やかさ。応援して待った甲斐がある。

昨年は全く花の兆候を見せないまま、梅雨をやりすごした。
今年は2年越しの開花である。
たかが庭に咲くアマリリスではあるが、咲いて見せてくれると嬉しくなる。

咲くべき花が咲かなかったり、生るべき実が生らなかったりすると、「手入れを怠ったのだろうか」「水遣りの手間を省いたのだろうか」あれこれ自分を責めることになる。

遠く離れた共に久しぶりの手紙を出してみる。
返事が返ってくればホッとする。同時に先方の元気に触れて嬉しくさえなる。
ところが、なかなか返ってこなかったら「それまでの無沙汰が失礼だったのだろうか」「今回の手紙になにか余計なことを書いたのだろうか」「体調を崩しているのではないだろうか」と心配になってくる。

こんな時は決まって、良い方向に考えることはない。
否定的で後ろ向きな想像ばかりが頭をよぎる。
「いやぁ元気ならそれでいいよ・・・」などと言ってはみるが、内心複雑である。

2年ぶりとはいえ見事に咲いた花にホッとさせられる。枯れてなどいなかった。
こんな心配をしないですむよう、花が終わったらまた一つ手をかけてやろう。
たかがアマリリス。されど命ある生き物には違いない。
 
by yattaro-さん

「世の中ちょっとやぶにらみ」ブログより転載

「無縁社会」から「絆社会」へ

2011-05-23 21:08:46 | 世の中、ちょっとやぶにらみ
2011年05月19日 |


    「困難さに打ち勝つ」「ひたむきさ」
(震災当時は満開だった「さざんか」。花言葉を添えて)


 東日本大震災から2ヶ月が過ぎた。被災者がこの間どんな思いで過ごされたのか、考えるだけで言葉を失い、胸が痛くなる。
 一方、今も厳しい避難生活を余儀なくされている方々の周辺で、集団生活の在り方のお手本が示されていることに、勇気を頂く思いがする。
 お互いに肩を寄せ合い、助けあい、喜びも悲しみも食糧も労働も、すべてを分かち合い、笑顔を作り出す努力をされている姿がある。そこには必ず、世話役や自治会長のような頼もしいリーダーがおられる。
 このような切迫した状況の中で「隣人を思い遣る」気持ちを前面に出し、他人同士を絆で結び、まとめ上げ、大きな家族を作り上げる努力に対し、心からのエールを贈りたいと思う。 
 向こう三軒両隣、お互い助け合った良き時代の町内会を思い出す。
「震災後の生活の見直し」を掲げる中に、隣近所の付き合いの大切さ、自治会や福祉協議会など地域社会に、積極的に溶け込んでいく意識改革も盛り込みたい。
 人間一人では生きていけない。
「無縁社会」などとは無縁な、お互いが寄り添う「絆社会」を今一度築き上げていけたらいいなと思う。山口県岩国市 吉岡賢一
(2011.5.19 朝日新聞「声」掲載)世の中ちょっとやぶにらみブログより転載


梅雨のはしり

2011-05-14 08:34:23 | 世の中、ちょっとやぶにらみ


田んぼの畦道を彩る緑が、ここ2・3日の雨で一段と生気を放つ。
遠くの山は、低く垂れ込めた雲に覆われ、さながら一幅の墨絵かと・・・。

よく降った。局地的豪雨で災害の心配もされたが、大きな被害もなく一段落したようだ。
稲にしてもレンコンにしても、この植え付け時期の雨は貴重である。
災害さえ起こさなければしっかり降ってくれと祈りたいほどの恵みの雨だ。

この時期、梅雨を前にして2日も3日も続けて降る雨を「梅雨のはしり」という。
はしりとは、物事のはじめとなったもの、先駆けのことである。

かつては、精一杯の事をやっていく中で、ふと気が付いたら、OOのはしり・OOの先駆け、といったような一歩先んじたことをやらかした時もあったように思う。
それが若さというものだったのだろうか。
ということは、そのような先駆け的な行動がほとんどなくなった今は、やはりそれなりの御年ということか。

中天高く光彩を放つ太陽でさえ、日暮れが近づけば柔らかく丸味を帯びた夕陽となる。高いつもりで実は低い教養をひけらかす愚を避け、後進の育成に手を貸そう・・・。

と、自ら気付いて欲しい人が、自分を含めて、世の中には意外に多いものだ。

ブログ「世の中ちょっとやぶにらみ」より
yattaro-さん


「香水瓶の世界」

2011-04-28 17:54:22 | 世の中、ちょっとやぶにらみ



2011年04月27日 | 旅行・レジャー山の中腹にそびえる美術館

 

美術館から見下ろす宮島全景

国道2号線を広島に向かって40分も走ると、左手山の中腹に、御殿を思わせる立派な建物が見えてくる。なんじゃろうあれは・・・と思いながら数年を経た。
美術館を併設していることは知っていた。春の陽気に誘われ、この建物で開かれている“きらめく装いの美・香水瓶の世界”という特別展を見学した。

お揃いのスーツを着て、あっちこっちに立っている駐車場案内のお兄さんに、建物の由来・目的など軽く尋ねてみた。
仏教を基盤とした新興宗教総本山の位置づけであるような話を手短にしてくれた。不得要領、もう少し聞きたかったが、先方も詳しく説明したがらない様子も見えた。それ以上掘り下げるのも憚られ、曖昧のまま駐車と本館を結ぶ送迎バスに乗った。

まさに一つの山を好きなように手を加え、豊かな自然を取り入れて豪快に開発した御殿そのものの雰囲気がある。瀬戸内海に浮かぶ安芸の宮島が、朱の鳥居を含めて一望に見渡せる贅沢なロケーション。見応えはある。

今回の目的は、飽くまでも「海の見える杜美術館」としての訪問であった。
古代より香水は神と人間、そして男女を結びつける役割を持っていたと言われる。宗教儀式では、神に芳香を煙として手向け、その煙に願いを込めたという。

それほどの貴重品・高級品を保管する容器である香水瓶にも、格別な思い入れがあって、金銀ダイヤオパールなど、最高級の装飾が施されているのだ。
それにしてもフランス王侯貴族などという人達は、遙か高いところで雲の上の生活をむさぼり、その下に何千万人という庶民が細々と生活していたのかと思うとちょっと切なさが頭をよぎる。 

どうしても庶民の悲哀のほうに目がいってしまうようだ。

山口県岩國市の「はがき随筆」仲間のブログ「世の中、ちょっとやぶにらみ」より転載させていただきました。 アカショウビン