桜島の表情が面白く、時間を見つけては車で島を周回している。特に島の北川と南側の表情の違いに興味をひかれる。今の季節、北側は緑が多い山の姿。南側はごつごつとした溶岩が海まで流れ込んだ跡があり、荒々しい火山の姿になる。
車で周回するうちに「かまぼこ形」のコンクリート建造物があるのに気づいた。運転しているので、ほんの一瞬見えるだけだが、通過する度に気になる。
フェリー乗り場でもらった観光案内図には記載されていない。調べてみたら、戦時中の「特攻艇倉庫」らしい。桜島に特攻艇が配備されていたのだろうか。が、梅崎春生さんの小説「桜島」にそんなくだりがあることを思い出した。
読み直すと確かに「桜島には、震洋がもう来てるかね」の会話部分があった。ボートに爆薬を搭載した特攻艇「震洋」である。
こうなったら、今回は歩いて現地まで行き確かめるとにした。フェリー乗り場から赤生原方面へ。車ではわずかな距離だと思っても、歩くとけっこう時間がかかる。この辺だろうと検討を付けた場所に目標物はない。
通りがかりの年配の女性に聞いたら「この山の上に海軍の基地があった。この先の学校の子どもが海岸で石拾いしていたらアメリカの飛行機の機銃掃射で4人が死んだ。基地から銃を撃つけれど当たらなかった」などと話してくれた。特攻艇の倉庫については「防空壕は知っとるけど、倉庫は知らない」と言う。
さらに進むと桜洲小学校があった。さっきの話の中で、犠牲になった子どもたちが通っていた学校だったかもしれない。その先に目指す建物があった。近づいてみるとかなり古い。近くの男性に聞いたら間違いなく「特攻艇倉庫」だった。いまでも民間の倉庫として使われているそうだ。
小説「桜島」には、終戦直前に見張りの兵がグラマンの機銃掃射を受けて死に、それに絡めてツクツクボウシが印象深く書かれている。私は15日を過ぎて赴いたが、まだクマゼミとアブラゼミが激しく鳴いていた。
気がかりな建物の正体が分かった喜びよりも、今でもひっそりと建つ特攻艇倉庫と、子どもが犠牲になった忘れられない思い出を初対面の私に話してくれた女性との出合い。何とも言えない気持ちが交錯した。
毎日新聞鹿児島支局長 竹本啓自 (2006/8/28日掲載)