「日本を美しい国に」。但し安倍元総理の言葉ではない。今から60年前、敗戦直後の日本も日本人の心も貧しくすさんでいた頃、音楽を心から愛した私の恩師・宋鳳悦先生が残された言葉なのだ。
先日、女学校時代の友人が、ある事情で財産の全てを娘さんに譲り、シニアマンションで新しい生活を始めた。
1戸建ての住まいから、1DKに移るには、徹底したシンプルライフに生活スタイルを変えねばならない。彼女がマンションに持参した、ごく僅かの荷物の中にぼろぼろになった女学校1年の時に学んだ音楽副読本・A5版の小冊子「読譜の友」があった。
「これだけは持って来たの…」二人で頁をめくりながら、60年昔にタイムスリップしたようなひとときを過ごした。オリジナル版ではないが、20数年前、たまたま押入から見つけた友人が、コピーして同級生にプレゼントしたうちの一冊である。
宋鳳悦先生は、衣食住全てが満たされなかった時代、印刷する紙さえ充分になかったなかで、音楽をこの子等に! と音符も読めない子供たち一人一人に副読本を与え、熱心に指導する、当時としては異色の教師だった。
表紙にひとりで伸びる「読譜の友」初等篇、<はじめに>の言葉には
私は日本を美しい国にしたいのです。それには芸術ことに音楽をさかんにすることだと信じてゐます。そして私は日本ぢゅうの皆さんが一人残らず音楽を愛していらっしゃるといふ事も知ってゐます。それだのに音楽が上手になりさかんにならないといふ事はどうしたことでせう。それは私たちに楽譜を讀む力がないからです。(中略) みなさん、うんと勉強して、一日も早く私たちの日本を美しい文化のかおり高い国にしようではありませんか 昭和22年2月22日 そう ほうえつ
はじめに知っておかねばならぬことは、歌はどれでもたった七つのなまえの音でできてゐるといふことです。という言葉で始まり、実に平易に学べる工夫がされている。宋先生の「楽典」が私たちを音楽好きにしてくれた。
宋鳳悦先生は、昭和24年(1949)に上京され、都内の中学校音楽教師として40年勤務し1991年に78歳でなくなられたが、都の文化功労者として表彰されたり、昭和天皇の前で、自作の曲を演奏するなど音楽家、作曲家として活躍するかたわら、短歌にも親しむスケールの大きい教師であった。
宋先生がお別れの時に、作詞作曲して私たちに下さった「夜の公園」という、哀愁を帯びた懐かしい歌を彼女と二人で歌いながら、74歳で新しい生活を歩み始めた友の上に幸多かれと祈りつつ…家路についた。
宋→宗でした。
全然気がつきませんでした。
先生の消息をご存じとは‥。
うれしいニュースを有難うございました。
生存する教え子達も少なくなりましたが、小柄ながら、あふれるエネルギーの持ち主であられた先生の面影が浮かんでまいります。
本当にありがとうございました。