平成19年1月5日(木)日中は、12℃。
いつものようにS事務所へ。いよいよあと30日その後、園へ
預かり保育「楽器作り」「かるた」をして楽しみました。
昨日、誕生日でご紹介したグリム兄弟について
偉大な業績を偲びたい。
1785年1月4日生 ヤーコプ・グリム
(ドイツ『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄)
彼の父が官吏としてその地に赴任したので、
子ども時代をシュタイナウ・アム・シュトラーセで過ごした。
彼は1798年弟ヴィルヘルムと共にカッセルのリツェウムに入学。
1802年彼はマールブルク大学に入学、優秀な成績で主席で卒業。
フリードリヒ・フォン・サヴィニーの元で法学を学んだ。
彼の法制史の研究とヴァッハラーの講義により、
彼はドイツ語と独逸文学の歴史的な発展に注目。
サヴィニーが、1804年中世ローマ法の研究のためにパリに赴いた時、
あとからグリムを呼び寄せる。
しかし、グリムはまもなく法学の研究に嫌気がさし、書簡でサヴィニーに
自分はドイツの古い文献の研究に生涯を捧げたいと打ち明ける。
1805年9月、母の居るカッセルの実家に戻り、彼は兵学校に職を得るが、
一年とたたない内に職場が解散され、職を失う。
1808年、母親が亡くなった後、家族を養う必要が生じ、
ウェストファーレンの国王ジェローム・ボナパルトのもとで図書館員の職を得る。
1809年2月には、国家顧問(Staatsrat)にも任じられた。
余暇を彼は古いドイツ語による詩歌や言語の研究に費やした。
1806年以降は、病弱な弟ヴィルヘルムと共に童話の聞き取り調査を行い、
それを清書し、編集した。
ヘッセン選帝侯国の再建と共にグリムは、
王の私的図書館員としての地位を失ったが、
なお復帰した選帝侯の外交スタッフの中に引き続き地位を与えられた。
1814/15年のウィーン会議でヘッセン選帝候国の特使秘書として彼は働き、
その後パリで奪われた芸術品のヘッセンとプロイセンへの返還交渉も短期間行う。
この時期、彼はスラヴ語の勉強も始めている。
1815年に、文学史や言語学研究に打ち込むため、外交官の職を辞任。
その一年後、彼はカッセルの図書館の次席図書館司書となる。
弟ヴィルヘルムは、1814年に既にそこの図書館司書の職についていた。
1829年主席図書館司書が死去した際、
グリム兄弟はその後任に…と期待したが、
その願いは叶わず、2人は新たなポストを探し始める。
1830年ヤーコプ・グリムは、ゲッティンゲン大学から教授での招聘を受ける。
ここで彼は1837年ゲッティンゲン7教授事件に連座し、その地位を奪われ、
追放処分になる。
1841年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世の招きでベルリンに移り、
プロイセン学士院の一員に推挙され、ベルリン大学で法学の講義を担当。
また、1848年のフランクフルト国民会議では、議員として名誉席を与えられた。
彼はその死に至るまで約20年間ベルリン大学で教鞭を採り、
そこでその弟と共にドイツ語辞典(Deutsch Woerterbuch)の編纂に携わった。
これは彼がマルチン・ルターからヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
に至るまでの著作から集めてきた近代高地ドイツ語の語彙のすべてを
網羅するものであった。
ドイツ語辞典はその膨大さから、グリムの死後100年近くたって、
冷戦時代の東西両ドイツの協力を得てまで完成した程である。
弟ヴィルヘルムと共に彼は、ゲルマンの古典文献学、ゲルマン語学、
そしてドイツ文献学の基礎を築いたといわれる。
「ドイツの職匠歌人の歌について」のような論文は、
カール・ラッハマンの研究と並んで、
中世のドイツ文学の第一級の不朽の業績と見做されている。
また、『ドイツ神話学』において、
彼は現代に至る比較神話学や民俗学の基礎をも築いた。
ヤーコプ・グリムは、自らの立場を貫徹するためには
論争や競合する場合には誹謗も辞さず、徹頭徹尾
真正面から渡り合うことを自らの学問のスタイルとした。
ドイツ語の文献学、即ち今で言う「ゲルマン学」の創成期の神話には、
フリードリヒ・ハインリヒ・フォン・デア・ハーゲンと
ヨーハン・G・G・ビュッシングに対する所謂「学問戦争」も含まれる。
グリム兄弟は、
その共同作業の産物である
『グリムの子どもと家庭の童話』(全2巻、1812年-1815年)と
『ドイツ語辞典』(1838年- 、第1巻 1854年)により
その名を知られるようになった。
グリム童話が出版された時代、ドイツでは
シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生、
ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。
その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、
その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠くなっていた。
そのため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の蒐集を始める。
1810年頃、ブレンターノから童話集出版の話を持ちかけられた兄弟は
草稿を貸し出すが、ブレンターノはこれを紛失し、童話集の話も流れてしまった。
(20世紀に入って、この草稿はエーレンベルク修道院で発見されたため、
『エーレンベルク稿』と呼ばれる。)
後に兄弟が自分たちの手で草稿の写しを元に
1812年(第2巻は1815年)に発行した童話集が
『グリム童話』の愛称で知られる『子どもと家庭の童話』である。
初版発行時に文章の拙さ(兄弟が無学な女性から聞き取ったためとされた)や
性的表現に対してクレームが出たため、数度改訂が行われた。
日本でグリム童話が初めて紹介されたのは1924年(大正十三年)で、
翻訳家、金田鬼一氏の手により完訳(断片、方言物を含む)。
今では計248篇ものグリム童話を手軽に読む事が出来る。
また、初版の訳本も出版されている。
フランスの『ペロー童話集』とは、同じ物語も収録されており、
しばしば比較研究の対象。
後世の研究により、グリム童話集は長い間信じられていたような
「ドイツの農家の文盲のおばあさんから聞き取りをして、
改変せずに出版されたもの」とは程遠いというのが、
今日では通説になりつつある。
グリムは版を重ねるごとに、物語を少しずつ改変(再話)している
(例えば、「白雪姫」の実母を継母へ変更)。
又、物語の採集元となった人物も少しずつ明らかになってきており、
文盲の老婆などというのは一人もいないのではないかとする意見もある。
ハインツ・レレケらの研究から例を挙げると、
「フィッチャーの鳥」「めっけどり」「三枚の羽」などの提供者
フリーデリケ・マンデルは、牧師の娘でフランス語を自由に操り、
文学的教養も非常に高い。
「一緒に暮らした猫とネズミ」「マリアの子ども」の提供者
カッセルの町の薬局の夫人ドロテア・ヴィルトとその娘は、
ヴィルト夫人の父親はスイス出身の解剖学教授であり、
母親は有名な言語学者の娘である。
又、「赤ずきん」「いばら姫」「盗賊のお婿さん」などの提供者
マリー・ハッセンプルークとその妹たちの父親は、
ヘッセン選帝侯国の高級官僚である。
このころ、ペローの童話集はすでに刊行され、
一部の作品についてはドイツの民話を採集したか疑う意見もある。
しかし、民話研究者にとっては引き続き見逃す事の出来ない
貴重な資料である事には間違いないであろう。
KHM 47 「百槇の話(びゃくしんのはなし)」のように、
「マザー・グース」と共通するモチーフが見られる例もある。
また、ヤーコプ・グリムは、
1822年「第一音声推移」を書いて、
最初の発音法則を定めた。
アングロサクソンの国々では、
これはグリムの法則として知られているものである。
ドイツ語勉強に欠かせない概念、
ウムラウトや強変化・弱変化もヤーコプの造語である。
ドイツ語辞典の「実り」(Frucht)の項を書き終えて、
ヤーコプ・グリムは、生涯独身で1863年9月20日に満78才で亡くなった。
彼は、ベルリン-シェーネベルクの旧聖マテウス墓地の名誉墓地に埋葬された。
彼の遺稿、並びに彼の書き込みのある蔵書の書籍の大部分は、
ベルリン国立図書館(SBB-PK)に収蔵された。
彼の名前にちなんで命名されたヤーコブ・グリムスクールがカッセルにある。
大人になるまで成長した兄弟としては男5人、女1人の6人兄弟であったが、
通常は後世にまで名を残した長兄ヤーコプと次兄ヴィルヘルムの二人を指す。
(今日では末弟で画家のルートヴィッヒも含むこともある)
ヤーコプは弟ヴィルヘルム夫妻と同居し、兄弟コンビとして活躍したが、
グリム童話集ではルートヴィヒも挿し絵を手がけている。
かえるの王様
狼と七匹の子山羊
ラプンツェル
ヘンゼルとグレーテル
灰かぶり(シンデレラ)
赤ずきん
ブレーメンの音楽隊
白雪姫(雪しろ姫)
などは代表的で、
誰もがくり返し親しみ
わくわくドキドキとイメージをふくらませ
その世界が広がった~思い出の童話
子どもたちにもくり返し読み聞かせを