平成20年2月5日(火)
中江藤樹を師としたそのなかで大野了佐のエピソードは強烈に記憶に残る。
了佐は大洲藩時代の同僚の次男。
だが、知能がきわめて低かった。
父親はとうてい武士としてはやっていけないと見切りをつけ、
何か身に職をつけさせようと考えた。
了佐は武士の家に生まれながらも武士になれない自分を恥ずかしく思い、
せめて医者になって人の役に立ちたいと願い、
藤樹を訪ねてその門弟に加わった。
藤樹も了佐の熱意に応えて なんとか医者にしてあげたいと
了佐の医学への志を助けようと努力する。
しかし知的能力の低かった了佐に 医学を教えることは至難の業だった。
文章が読めないし、読んでもすぐに忘れてしまう。
同じことを何百回と繰り返し教え、
精も根もつきはてるばかりであったという。
しかし、それでも了佐はあきらめなかった。
その了佐の熱意に動かされ、
藤樹は、自ら了佐ひとりのために筆を執って
「捷径医筌」という教科書をつくる。
「捷径」は近道、「医筌」とは医学の手引きを意味する。
これを何度も繰り返し、読み、覚え、質問をし、
とにかく身に付くまで徹底して教えた。
「捷径医筌」は6巻もの大部。
了佐一人に教えるために、自らも医学を学び、
それをいかにして了佐に理解させるか、
精根尽き果てるような努力の積み重ねであった。
それが実り、了佐も医者になることができ、
藤樹自らも医学を学ぶことができた。
藤樹は、後でふり返って次のように述べている。
「わたしがいくら一生懸命に教えても、
了佐に学ぶ意欲がなかったら、
とうていできなかったことである。
彼は非常に愚鈍であったけれども、
医術を身につけようとする熱意たるや並大抵のものではなかった。」
自分は、了佐の熱意に応えただけのことである というわけである。
藤樹にとって大切なことは、よく生きることに全力を尽くすことであった。
彼は才能の有無も、貧富も、身分の違いも問題にはしなかった。
了佐が全力を尽くそうとしている限り、自分も全力を尽くさなければならない
と考えたのである。
このような藤樹の生き方は弟子たちだけでなく、小川村の人びとを動かした。
藤樹の弟子になった中で最も有名なのが熊沢蕃山です。
蕃山が学問の志を持ちながらよき師を求めて旅をしていたとき、
京都の宿で同宿人から藤樹のうわさを聞き、
その藤樹のうわさとはこういう話しであった。
その同宿人は加賀の飛脚であった。
彼は大名の公金200両をあずかって
京都に運ぶ役を仰せつかっていたのだが、
宿に着いたときにその大金を紛失していることに気づく。
その飛脚は色を失い、悲嘆にくれていた。
そこへその飛脚を乗せた馬方がたずねてきて、馬の鞍に忘れてあった包みに
大金が入っていたのであわてて届けにきたという。
飛脚は喜びのあまり、苦境を救われたお礼に15両をとりだして渡そうとしたところ、
その馬方はびっくりしてその礼を受け取ろうとしない。
それでは自分の気が済まないと言ってなんとかうけとってもらいたいと懇願した
ところ、やっと200文だけいただきますと言って受け取った。
それを受け取ると馬方は、その金で酒を買い、宿の人たちと一緒に飲み、
よい機嫌になって帰ろうとした。
飛脚はつくづく感心して、馬方に一体どこのどなたなのですかと尋ねると、
馬方は自分は取るに足りない馬方で学問もありませんが、
わたしの近くの小川村で中江藤樹という先生の講話をよく聞いております。
その藤樹先生が言われるとおりのことをしたまでですと応えたというのである。
蕃山はこの飛脚の話を聞いて、この人こそわたしが求めていたまことの学者
であると、翌日直ちに小川村の藤樹を訪ねたのである。蕃山23歳のことである。
しかし、藤樹はこの蕃山の申し出をことわる。
蕃山はあきらめずに、門前で座り込み、二夜を過ごす。
その熱意に動かされた母のすすめで、ともかく会うことだけはしてもらえるが、
それでも弟子となることは許されなかった。
しかし、蕃山はいくら断られても屈しなかった。
これはきっと、母親を一人国元に残していることが藤樹先生にとって
気に入らないにちがいないと推測し、いったん国に帰り、
今度は母親とともに小川村に移り住んだ後にあらためて藤樹を訪ね、
ついに入門を認められたという。
蕃山が藤樹から学ぶことができたのは、わずかに八か月であった。
しかしこの八ヵ月の間に、藤樹と蕃山は師弟の関係を越え、
「性命の友」「輔仁・莫逆の間柄」となった。
互いに教えあい、学びあう対等な関係になったというわけである。
吉田松陰は、この藤樹と蕃山の関係を 次のように述べている。
「みだりに人の師になってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。
必ず真に教えるべきことがあってこそ師となり、真に学ぶべきことがあってこそ
師とすべきである。
熊沢了介(蕃山)が中江藤樹を師とした例は、
師弟ともにそれぞれの道理を得ているということができる。」
実にうらやましい師弟関係である。
蕃山については、また次の機会に続きを書くことにしよう。