緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

ゴールデンウィークと村岡花子

2014年05月03日 14時14分39秒 | 絵本・愛読書・文学・書籍類

平成26年5月3日(土)

ゴールデンウィーク後半の連休になりました。

日中は、日本全国で気温が上がり、25℃以上に。

我が家では、先日から庭や畑の草取りに追われています。

 

知り合いも、TDLやUSJなどへ。新幹線は混雑しているようです。

また、台湾や香港、韓国、サイパン など海外へ観光という方々も。

あるいは、自然派は、九重や阿蘇へキャンピングカーで子供連れで

三泊四日の山登りや、BBQ(バーベキュー)レジャーに出かけた方々もいる。

 高速道路は、30km以上も渋滞しているところもあると、ニュースで報じられていた。

 そんな4日間もありますが、皆様は、いかがお過ごしでしょうか?

 

今、主婦の話題はNHKTVの『朝ドラ』なのだそうです。 

「じぇじぇじぇ」の次は「てっ」? 

 
『花子とアン』、視聴率好調とのこと。
 

朝日新聞デジタル

 5月3日(土)9時51分配信より

 放送開始から1カ月が経ったNHK連続テレビ小説

『花子とアン』の視聴率が好調。

登場人物のセリフには、

甲州弁で驚きを表す「てっ!」、もう一つ、

しっかりの意味の「こぴっと」がしばしば登場する。

 

前々作『あまちゃん』では

「じぇじぇじぇ」が一大ブームを巻き起こし流行語大賞に輝いた。

NHKは、2匹目のどじょうを狙う。

 女優の吉高由里子さんが主演する今作は、山梨出身の主人公、

安東はな(村岡花子)が、東京の女学校で勉強するため上京し、

やがて『赤毛のアン』など児童文学の翻訳に人生を捧げる物語。

 

5日放送分からの6週目では、

華族のご令嬢・葉山蓮子(れんこ=仲間由紀恵)(=同級生の柳原白蓮がモデル)が、

はなとともに甲府を訪れ、華やかな衣装をまとった姿に地元の人たちが

「てっ!」を連発する。



 加賀田透チーフ・プロデューサーによると、

花子の孫にあたる村岡恵理さんの原作

『アンのゆりかご』には出てこないセリフで、

脚本の中園ミホさんも最初は標準語で書き始めた。



 “導入”を勧めたのは甲州弁指導の奥山真佐子さん。

台本上の表記は「て!」「てっ!」「てぇ……」など内容によって様々で、

「感情をひと言に込めるため、発音は俳優さん任せ」という。


 加賀田透さんは

「この作品作りを始めたのは『あまちゃん』が人気を博した頃。

最初は正直、少し恥ずかしいという思いがあった。」

と笑うが、放送1カ月間(27回分)の平均視聴率は

21・8%(関東、ビデオリサーチ調べ)と、直近の前2作を上回る。

 

放送開始後から甲州弁がインターネットなどで話題になり、

今では「今後も週に2~3回は出していく。」と意気込んでいる。

朝日新聞社より

【関連記事】

最終更新:5月3日(土)12時58分

 

 このテレビ朝ドラのヒロインの 安東はな のモデルは、

  村岡 花子(むらおか はなこ)さん。

1893年(明治26年)6月21日 - 1968年(昭和43年)10月 25日)

日本の翻訳家・児童文学者。

児童文学の翻訳で知られ、カナダの女流作家モンゴメリの著作の多くと、

エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。

 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。

本名は安中 はな(あんなか はな)。

クリスチャンである父逸平の希望により、

2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。

父の逸平は駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、

茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、

熱心なクリスチャンとなる。

布教の流れで甲府に移り住み、

そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。

教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、

利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた。

 

常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、

妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、

南品川で葉茶屋を営むようになる。

城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌で表現し句作をして

詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。

その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、

娘の才能を伸ばすべく奔走し、1903年(明治36年)、

学校創設者との信仰上の繋がりから、

10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。

 

一方、家族の生活は困窮しており、8人きょうだいのうち

高い教育を受けたのは長女のはなのみで、

他の弟妹は次女と三女を残して

皆養子や奉公などで家を出されている。

はなの入学は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであった。

 

女学校入学

東洋英和女学校でカナダ人I・S・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、

同級生柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱から万葉集など日本の古典文学を学ぶ。

この頃からペンネームとして安中 花子を名乗るようになる。

同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家

松村みね子(歌人としての筆名に片山廣子芥川龍之介の晩年の恋人)

の勧めで童話を執筆。

 

1914年に東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として

山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。

この時期、キリスト教の夏季講座で市川房枝と出会う。

 

1917年から、東京銀座のキリスト教出版社である教文館

女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。

1919年に福音印刷合資会社の経営者村岡儆三と結婚し、村岡姓となる。

1920年に誕生した長男を、1926年に病で失う。

このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。

 

1927年、片山廣子の勧めにより、

マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を

王子と乞食』の邦題で翻訳し、平凡社から公刊。

 

1932年から1941年11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー

『コドモの新聞』に出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、

寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった。

この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードをいくつか発売した。

 

第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、

戦争遂行に協力的な姿勢を取った。

また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力

(その一方、婚外子への法的差別撤廃には反対した)。

その他、文部省嘱託や行政監察委員委員、女流文学者協理事、公明選挙連盟理事、

家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。

1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受ける。

1968年、脳血栓で死去。

 

長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、

妹・梅子の長女・みどり(1932年生)を養女とする。

そのみどりの娘で花子の義理の孫にあたる村岡恵理

赤毛のアン記念館の館長を務めている。

クリスチャンとしては日本基督教団大森めぐみ教会の会員として、教会に通った。

モンゴメリと村岡花子

村岡花子とモンゴメリとの出会いは、戦争中に日本を去る

カナダ人宣教師のミス・ショーから手渡された『赤毛のアン』の原書、

1908年の冬版であった。

この出会いは1939年のことで、村岡は灯火管制のもと

翻訳を続けて終戦の頃に訳し終えた。

1952年に、三笠書房から出版された『赤毛のアン』は

日本の若い読者にも広く受け入れられた。

 

村岡はその後、

アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン

果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、

モンゴメリの作品翻訳を次々と手がける。

村岡の最後の翻訳作品となった『エミリーの求めるもの』は、

彼女の没後、1969年に出版された。

山本史郎の『東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章』

東京大学出版会)は村岡の訳の中に一部が欠落していることの

理由を考えた講義。

 

略年表

  • 1893年、山梨県甲府市に生まれ東京に育つ。
  • 1904年には東洋英和女学校へ編入学。
  • 1914年に東洋英和女学院高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。
  • 1917年から、教文館に女性向け・子供向け雑誌編集者として勤務。
  • 1919年、結婚。
  • 1920年、長男誕生。
  • 1926年、長男を疫痢で喪う。
  • 1927年、マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊。
  • 1932年から1942年までJOAK(NHK東京放送センター)のラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、「ラジオのおばさん」として人気を博す。
  • 1939年、宣教師のミス・ショーからモンゴメリの"Anne of Green Gables" を受け取る。
  • 1952年、モンゴメリの"Anne of Green Gables" を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊。
  • 1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。
  • 1963年、夫を喪う。
  • 1967年、カナダを訪問。
  • 1968年、脳血栓で死去。

著訳書

訳書・著書 多数あります。

  • 炉辺 日本基督教興文協会 1917
  • モーセが修学せし国 救世軍 1919
  • 王子と乞食 マーク・トウェイン 平凡社 1927 のち岩波文庫
  • 花咲く家 ペリー 教文館 1929
  • 見知らぬ国へ 冒険実話集 カザリン・クロンク 教育館出版部 1930
  • パレアナの成長 エレナ・ポーター 平凡社 1930 「パレアナの青春」角川文庫
  • 姉は闘ふ パレアナ姉妹篇 エレナ・エチ・ポーター 教文館出版部 1932 「スウ姉さん」角川文庫
  • ディッケンス物語の子供たち 春陽堂 1933
  • 日本イソップ繪物語 大日本雄辯會講談社 1933
  • 聖書物語 エステル・ルツ 基督教出版 1935
  • 愛情の道 ウイドマー 教文館出版部 1936
  • 喜びの本 ポーター 中央公論社 1939
  • 母の生活 パアル・バック 第一書房 1940
  • 家なき天使 方洙源 那珂書店 1943

                          他

 

村岡花子の生涯/『アンのゆりかご』から


 明治26年(1893)6月21日、村岡花子(旧姓:安中、本名:はな)は、父:安中逸平と母:てつの長女として山梨県甲府市で生まれます。父の実家は駿府(現・静岡県)で茶商を営んでいましたが、父は、熱心なクリスチャンで実家を離れ、てつの実家に身を寄せていました。花子は2歳の時に、甲府で幼児洗礼を受けました。

 明治31年(1898・花子5歳)、父親は親戚とのしがらみに決別し、一家で上京。南品川で、葉茶屋を始めます。

 明治36年(1903・10歳)、貧しい暮らしでしたが、父親は花子に高等教育を受けさせる道をつけたいと願い、10歳の花子は麻布の東洋英和女学校に寄宿生として入学します。     孤児院での奉仕活動が義務付けられ、成績が悪いと即退学という給費生の待遇でしたが、予科(2年)、本科(5年)、高等科(3年)で、予科と本科は学年20名ほど。うち高等科まで進むのは6、7名でした。

 花子の寄宿舎生活が始まりましたが、花子の同級生17人のうちの半数以上が、東洋英和の付属小学校からあがってきた生徒で、すでに3年間の英語教育を受けていました。食事中に婦人宣教師と英語で楽しそうに話をしたりします。

 英語をまったく知らなかった花子は、父親の期待に応えるためにも、猛勉強を始めます。礼拝では、全校生徒約180名が一堂に会し、半数は「寄宿生」で、もう半数は自宅から通う「通学生」でした。東洋英和女学校を設立したカナダの宣教師たちは、「通学生」よりも、寝食を共にする「寄宿生」を可愛がり、花子は、英語に加え、西欧の考え方や生活習慣も身に付けます。

 猛勉強のかいがあり、花子の英語の成績は群を抜き、また、書籍室にあった本を読み漁りました。カナダ人作家ルーシー・モード・モンゴメリの『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』はアメリカのボストン・ページ社から明治41年(1908)に出版されますが、花子は、モンゴメリと同世代のカナダ人たちに囲まれて、東洋英和で青春時代を過ごしました。

 また、在学中に同級生柳原白蓮の紹介で、歌を習うため、佐佐木信綱の元に通っています。当時、世に出るために道が閉ざされていた女性たちにとって、「歌人」は、ほとんど唯一といってもいいほどの文芸的職業として確立されており、信綱の門下は女流の登竜門でもありました。信綱の主宰する短歌結社「竹柏会」は歌壇、文壇に留まらず、多方面の芸術分野に人材を輩出していました。

 花子は、東洋英和の先輩でアイルランド文学の翻訳者としても知られる歌人の片山廣子を紹介されるなど、信綱門下で多くの人に出会いました。寄宿舎の書籍室の本を読み尽くしてしまっていた花子は、廣子の本棚から、毎週のように近代文学の原書を借り出し、寄宿舎に持ち帰って、読みふけりました。

 花子は、勉強と並行して続けている奉仕活動を通して、日本基督教婦人矯風会の機関誌『婦人新報』の編集に関わるようになります。『婦人新報』は、海外の未成年者の禁酒運動記事や大会報告などを乗せてしまえば、あとは花子が自由に編集することができました。花子は、童話・短歌・随想・翻訳小説を掲載するようになります。

 大正2年(1913・20歳)、花子は20歳で、東洋英和女学校の高等科を卒業しました。卒業式で学年を代表して発表された、花子の英文で書かれた卒業論文『日本女性の過去、現在、未来』は、テニスンの長詩『イン・メモリアム』から引用された「古き制度は変わりゆく、新しきものに場所をゆずりつつ」という詩句で結ばれていました。花子は、卒業後1年間、校長のミス・ブラックモアの配慮で、寄宿舎に残り、婦人宣教師に英語を教えながら、婦人矯風会の書記の仕事と英文学の勉強を続けました。

 大正3年(1914・20歳)春、花子は、生まれ故郷の甲府へ行きます。東洋英和の姉妹校の山梨英和女学校が、カナダ人の校長の秘書を兼ねた英語教師を必要としており、貧しい実家を支えるために確かな収入が必要だったため赴任を決意しました。

  当時、花子には、澤田廉三という、お互いに引かれ合う男性がいました。廉三は東京帝国大学法学部の学生で、実兄を追って、外交官領事館試験を受けて外務省に入る予定でした。教会で顔を合わせるうちに、英文学や短歌について言葉を交わすようになりました。やがて、澤田は外務省に入り、第一次世界大戦中の激戦地、フランスへ数年間の仕事で行くことになりました。出発の前にどうしても会いたいと言われ、花子は東京へ向かいます。外交官としての重い任務を帯びて澤田はフランスへ旅立ちました。廉三からの手紙の中に、廉三の決意を見た花子は、「もうこれでおわりにしましょう。これでお別れにします。さようなら」と書き送りました。

 花子は、矯風会の仕事を続けており、実業家の広岡浅子と面識を得ました。60歳を過ぎてクリスチャンになった浅子は、社会を変えていく実力を身につけた女性の育成に力を注ぎ、花子は、市川房枝らと知り合います。また、花子が『少女画報』に小説を発表していたことを山梨英和の教え子たちが発見し、教え子たちに物語を語り聞かせたりするようになりました。花子は、少女たちが物語を欲しているにもかかわらず、年ごろの彼女たちにふさわしい読み物が少ないことを感じ、子どもから大人への成長の過程で心の指針となるような本の大切さが英米に比べて軽視されてる日本の現状を痛感しました。

 大正8年(1919・26歳)3月、花子は、山梨英和の教師を辞めて東京に戻ります。赤坂新町の婦人矯風会館の2階宿舎に下宿し、プロテスタントの各派宣教師の共同出資で作られた築地の基督教興文協会の編集者となります。花子の英語力は即戦力として役立ち、ミッション・スクールの教材や日曜学校の子どもたちの読み物など、翻訳依頼の仕事が次から次へと舞い込んできます。

 花子は、基督教興文協会で、開港の街・横浜で聖書を初めとするキリスト教関係の書物の印刷・製本を一手に引き受ける「福音印刷」の御曹司・村岡敬三と知り合いました。花子と出会ったとき、敬三は江川幸と結婚していましたが、幸は結核を発病し、療養のため実家に戻っていました。花子と敬三は、築地教会で結婚式を挙げ、大森に新居を構えました。

 大正9年(1920・27歳)、長男の道雄が誕生します。

 大正12年(1923・30歳)9月1日、関東大震災が発生します。福音印刷の建物は倒壊し、70名の職人が焼け死にました。敬三は福音印刷を継いでいましたが、震災で実業家肌の弟・斎(ひとし)や、牧師の水上家に養子に入っていた敬三と幸との間の7歳になる嘉男が亡くなります。

 また、福音印刷に敬三の父の代からいた役員が、復興手続きのために預けていた印鑑と重要書類を持ち逃げしました。敬三は一気に多くのものを失います。花子は30歳で、敬三は36歳でした。花子は、翻訳小説を毎月、婦人矯風会の機関誌『婦人新報』に寄稿する傍ら、道雄に聞かせる物語を少しずつ書き起こした童話の原稿を執筆し、敬三を支えました。

 大正15年(1926・33歳)9月1日、長男の道雄が6歳の誕生日を前にして、戦前に猛威を振るった疫痢にかかって、世を去りました。花子は悲嘆に暮れて、気力を無くしてしまいました。しかし、3か月半ほど過ごしたのち、マーク・トウェインの『ザ・プリンス・アンド・ザ・ポーパー』を手に取り、寝食も忘れて、丸2日間かけて読みました。読み終えた時、神が定めた運命に従い、自分の子は失いましたが、日本中の子どもたちのために、上質の家庭小説を翻訳しようと決意します。

 安中家の長女だった花子は、静岡の比較的にゆとりのある農家に嫁いだ妹の家に両親が身を寄せることになり、ほっとしていましたが、北海道に嫁いだ妹で次女の千代から、奉公に出た11歳年下の三女の梅子が、厳寒地で真冬でも裸足のまま労働をさせられていることを知ります。梅子は、花子が東洋英和女学校の寄宿舎に入ってから生まれた子で、交流は無いに等しかったのですが、花子は、すぐに大森の家に梅子を引き取りました。

 昭和5年(1930・37歳)、花子は敬三と共に大森の自宅に設立した青蘭社から、子どもも大人も楽しめる家庭文学を提唱する機関誌『家庭』を創刊し、アメリカ人作家エレナ・ポーター作『長姉物語』(『スウ姉さん』として出版)を連載します。『家庭』は、のちに同題の雑誌が大日本統合婦人会から出たため、『青蘭』と改題しました。

 昭和7年(1932・39歳)6月1日から、花子は、午後6時から30分間放送されるラジオ番組『子供の時間』の中で、最後の5分間に放送される、内外のニュースをかみ砕いて放送するコーナー『子供の新聞』のパーソナリティーを担当するようになります。花子は、道雄を亡くして間もない昭和2年(1927)1月に、『家庭の時間』という番組で「童話を通じての家庭教育」というテーマで25分間、話したことがあり、その時の放送の評判と、童話作家としての経歴が買われての抜擢でした。花子の放送は「全国の小さな方々、ごきげんよう! これから皆さまがたの新聞のお時間です」ではじまり、「ごきげんよう。さようなら」で終わります。花子は、「ラジオのおばさん」として全国で親しまれるようになります。

 昭和14年(1939・46歳)年、ドイツがポーランドを攻撃し第2次世界大戦が始まります。翌年には、日本は、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結。英語は敵国語とされ、花子の大森の家に「国賊!」の言葉と共に石が投げ入れられるようになります。日米関係の悪化と共に、連合国出身の人々は荷物をまとめて日本から本国へ帰り始めます。政府の圧力に屈せず英語教育を貫いてきた東洋英和女学校も、昭和13年(1938)には、ご真影と日の丸の旗の奉戴を受け入れていました。

 昭和14年(1939・46歳)、35年間に渡り日本で奉職してきたカナダ人宣教師ミス・ショーが、帰国を決意します。ショーと花子は、アメリカ人宣教師によって設立され、キリスト教関係の本を出版していた銀座の教文館でいっしょに働いていました。出発の日、ショーは、見送りに来た花子に、「いつかまたきっと、平和が訪れます。その時、この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してください」といわれ、「友情の記念」に、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の原書を贈られます。『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は、何度も読み返したためか、手ずれていましたが、カナダ人のほんとうの心を伝えてほしいという万感の思いが込められていました。花子は、「平和が訪れた時に、必ずこの本を翻訳して、日本の多くの人に読んでもらいます。それまでどんなことがあっても、この本を守ります」と誓いました。

 昭和16年(1941・48歳)12月8日、日本が真珠湾を攻撃して、米英と全面戦争に突入しました。花子は、開戦を機に、軍部の干渉でとうに限界を感じていた『子供の新聞』をやめました。戦争中、花子は、ジフテリアに感染し2か月間、ほとんど医師としか顔を合わせないような静養生活を送りました。回復した花子は、やせ細っていましたが、家中の原稿用紙をかき集め、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳に取り掛かります。花子は、家族にも、「自分の留守中に空襲があったら、この本と書きかけの原稿を防空壕に運んで欲しい」と念を押していました。花子は、大森の家の灯火管制下の暗い部屋で『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を訳し続けます。空襲で、大森、蒲田、川崎などは焼かれましたが、花子の家は幸い焼け残り、終戦を迎えました。花子の書斎の机の上には、『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の原書と、700枚余りの翻訳原稿が積み上げられていました。

 終戦翌年の昭和21年(1946・53歳)、学校復興の準備のため、カナダ人宣教師たちが次々と戻ってきます。ご真影と日の丸の旗は降ろされ、空襲で焼けた、山梨英和と静岡英和の復興に取り掛かります。花子の家には、多くの編集者が訪れ、戦争で焼けなかった蔵書を食い入るように見つめます。花子が戦前に書いた童話や翻訳作品が、再編され復刻され始めます。

 また、昭和21年(1946・53歳)正月早々、花子は、4夜連続で特別に企画された子ども向けラジオ番組に出演しました。花子の声がラジオから流れるのは5年ぶりでしたが、花子の声を懐かしむ大反響が起こりました。大森の家では、妹・梅子、夫、娘の晴子、また梅子の娘で花子の養女になっていたみどり、義弟・昇の家族が住んでいました。終戦直後に21歳の長男を結核で失った弟・健次郎の一家も呼び寄せます。花子は、長男である兄を失って悲しみにくれる健次郎の娘・マリ子を自分のベッドに寝かせて慰めたりしました。

 昭和23年(1948・55歳)、三笠書房が『風と共に去りぬ』を復刻します。南北戦争を背景にたくましく生きるヒロイン、スカーレット・オハラの姿が、日本人女性たちの心を掴みました。昭和26年(1951・58歳)、その三笠書房から小池嘉考という編集者が花子を訪ねてきます。『風と共に去りぬ』に続く作品を刊行したいとのことでしたが、自然の中で成長する孤児アンの日常を描く『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』は、『風と共に去りぬ』のようなドラマティックな作品ではありません。花子は、いったんは、「ありませんよ」と断りました。しかし、「ねえ、実は、あるのよ」と、ためらいながらも、小池に700枚の原稿を渡します。

 『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の邦題は、当初、さんざん話し合ったあげく、花子が決めた『窓辺に倚る少女』に決まっていました。しかし、三笠書房の社長の竹内から、「小池が『赤毛のアン』はどうだろうと言うんですが、いかがでしょう」と電話が掛かってきます。花子は気に入らず、「嫌です。『赤毛のアン』なんて絶対嫌です」と断り、電話を切りました。しかし、20歳になる娘のみどりに「小池さんたらね、『赤毛のアン』ですってさ」とこぼすと、「素晴らしいわ! ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様!」と思わぬ答えが返ってきました。この物語を読むのは若い人たちなのだと我に返った花子は、慌てて社長に電話を掛け、翌日には印刷所へ回ってしまう原稿のタイトルを、『赤毛のアン』に変更してもらいました。

 昭和27年(1952・59歳)4月末、サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQが廃止されます。5月、『赤毛のアン』が出版されます。花子に『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を託したミス・ショーは、帰国した翌年に祖国カナダで亡くなり、原作者のモンゴメリも戦争中に亡くなっています。しかし、カナダの人々の思いは花子に託されました。物質的には恵まれない時代でしたが、想像する喜びを知り、困難の中で、愛する家族を得ていくアンの物語は、日本中の若い女性たちの心を虜にし、大ベストセラーになりました。

(2013年7月11日)

村岡花子の生涯

(1)村岡花子の生涯 - 『アンのゆりかご』のあらすじ

(2)村岡花子の生涯 - 『アンのゆりかご』の感想

(3)村岡花子の生涯 - 道雄文庫

(4)村岡花子の生涯 - 福音印刷の赤レンガの建物と速水御舟

女たちの近代

(1)女たちの近代 - 林芙美子と「戦線」

(2)女たちの近代 - 柳原子と「白蓮事件」

(3)女たちの近代 - 伊藤伝右衛門と子

(4)女たちの近代 - 宮崎龍介と柳原白蓮

(5)女たちの近代 - 九条武子と柳原白蓮

村岡花子の作品

(1)村岡花子の翻訳 - 『赤毛のアン』

(2)村岡花子の翻訳 - 『少女パレアナ』

(3)村岡花子の翻訳 - 『パレアナの青春』

(4)村岡花子の翻訳 - 『フランダースの犬』

(5)村岡花子の翻訳 - 『まりおねっと』

(6)村岡花子の童話 - 『みみずの女王』『黄金の網』『たんぽぽの目』

→ 映画『蛇にピアス』吉高由里子のあらすじと感想

→ 映画「横道世之介」吉高由里子のあらすじと感想

トップページに戻る


アンのゆりかご-村岡花子の生涯

アンのゆりかご-村岡花子の生涯/村岡恵理 Amazonへ

 

連休には、新緑の中で 読書もどうぞ!

 

182回 小机が生んだ印刷王(村岡 平吉)=村岡花子の舅

            -バイブルの村岡さん-

  グリン・ゲイブルス、アボンリー、プリンス・エドワード島といえば、『赤毛のアン』の舞台として有名ですが、アン・シリーズを始めとするモンゴメリーの数々の著作を日本に紹介した翻訳家が村岡花子です。

 その村岡花子を主人公としたNHK連続テレビ小説『花子とアン』が、3月31日から始まります。花子は、山梨出身で、大田区に住んでいたので、横浜とは縁がなさそうですが、実は横浜に本籍がありました。横浜市立図書館で、村岡花子で検索すると、なんと219冊もヒットします。

 村岡花子は小机(こづくえ)と縁があり、晩年まで夫妻で度々訪れていました。前回ご紹介したように、平成2年(1990)1月の広報の「区内散歩」は、第74回「小机と村岡平吉(むらおかへいきち)」ですが、花子は、平吉の息子の嫁でした。今では村岡花子の方が有名ですが、かつては「バイブルの村岡さん」と呼ばれた義父村岡平吉の方が著名人でした。

 村岡平吉は、嘉永5年(1852)に橘樹郡(たちばなぐん)小机村で生まれました。父は平左衛門、母はヤヱ子です。平吉は、明治の初年に東京へ出て印刷業の職工として修業をし、その後、横浜に戻り、フランス系の新聞社に勤めました。その頃キリスト教に接し、明治16年(1883)に横浜指路(しろ)教会(当時は横浜住吉教会といいました)で受洗(じゅせん)します。横浜指路教会は、福音(ふくいん)主義(プロテスタント)の教会です。

 明治20年(1887)に平吉は上海(シャンハイ)に渡りました。1年間欧文印刷の技術を学んだようです。帰国後は、横浜製紙分社という出版社に10年間勤め、明治31年(1898)に独立して、中区山下町に福音印刷合資会社を創立します。福音印刷の社名は、福音主義から名付けたものと思われ、信仰と仕事が一体となっていたことが分かります。平吉は、聖書や賛美歌の本などキリスト教関係の書物をたくさん印刷しましたが、国内は素より、インド・中国・フィリピンなどアジア諸国の聖書も一手に扱い、「バイブルの村岡さん」と呼ばれたのです。

福音印刷は、明治から大正期の印刷業界で確固たる地位を築きました。社長の村岡平吉は、明治43年(1910)に出版された『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』で「印刷業の巨擘(きょはく)(指導的立場の人物)」の1人として顔写真入りで取り上げられています。

キリスト教徒としての平吉は、明治30年(1897年)から横浜指路教会の長老となっています。指路教会は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の塾で学んだ青年たちが中心となり設立された教会です。そのヘボン博士が明治44年(1911年)にアメリカの自宅で亡くなったとき、指路教会では追悼会を開き、長老村岡平吉が祈(き)祷(とう)をしています。

村岡平吉は、中区太田町(おおたまち)に自宅を構えていましたが、生まれ育った小机との縁も続いていました。平吉は、大正11年(1922年)に亡くなりますが、仏教の13回忌に相当する昭和9年(1934年)5月20日、「村岡平吉氏十三週年((周))記念会」が 小机で開催されています。その時の挨拶が『指路教会六十年史』に掲載されています。

福音印刷の事業は順次拡大し、銀座と神戸に支社を設けるまでになります。やがて、5男斉(ひとし)が横浜本社を、3男儆三(けいぞう)が東京本社の経営を引き継ぎました。株式会社としては東京が本社となります。村岡儆三は、出版社勤務の安中(あんなか)はな(後の村岡花子)と営業活動中に知り合い、大正8年(1919年)に結婚しました。

 実は、村岡花子はペンネームで、本名は「村岡はな」です。花子が儆三と結婚したとき、義父平吉はすでに70近い老人でしたが、平吉と結婚したと間違えられました。なんと、平吉の奥さん(花子の義母、結婚前に死去)の名も「村岡はな(ハナ子とも書く)」、同じ名前だったのです。

 ちょっとややこしくも幸せな村岡家でしたが、平吉が大正11年(1922年)に亡くなり、翌大正12年の関東大震災では横浜本社が倒壊し、村岡斉や多くの社員が死亡しました。東京本社にいた儆三は、幸いにして生き延びましたが、東京本社の社屋は震災後の大火で類焼しました。

 「京浜間(けいひんかん)印刷界に於ける最有力者の1つ」(『指路教会六十年史』)とまで言われた福音印刷は、こうして壊滅しました。もし震災が無ければ…。人生の歯車を狂わされた村岡儆三でしたが、やがて新しい会社を設立し、妻の花子は翻訳家として『赤毛のアン』を三笠書房から出版することになります。その話は、NHKの朝ドラ「花子とアン」に任せましょう。

 小机と村岡平吉、村岡花子については、篠原東(しのはらひがし)の峯岸英雄(みねぎしひでお)さんが、「「花子とアン」と小机を応援する会」を作って、調査研究と広報活動を続けています。5月25日には港北図書館で講演会も予定されており、今から楽しみです。

   記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)(2014年2月号)

 

※ 横浜市付近にいらっしゃる方々、下旬がおたのしみですね。 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ふれあい参観日・お知らせ | トップ | 女子アジア杯なでしこ、豪破... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

絵本・愛読書・文学・書籍類」カテゴリの最新記事