5月の庭園見学の続き.
彦根城の玄宮園の隣りには楽々園という庭園が続いています.
ここは,1810年頃にだいたい今の形になったそうですが,十三代井伊直中の引退に際し,御殿を新築して総槻(けやき)作りであったことから槻御殿と呼ぶようになりました.
もとの下屋敷が造営された1679年当初は玄宮園と楽々園は一体化したものでしたが,御殿の増改築で塀で区切られたり,玄宮園から水をひいて滝流れと池の庭だったり,その後枯れ山水になったりと,玄宮園より変遷が大きいのが特徴です.
槻御殿.この新書院から座って鑑賞するお庭です
初めの頃は,本当に滝が流れていたとされる,石組み.家臣の香取氏が作庭したと記録されているそうです.
大きな立石が迫力とリズムを生み出しています.上の方の石橋と両脇の立石が蓬莱山を飛ぶ鶴になり,滝の水落石は,亀頭石で築山全体が亀,蓬莱山を表現しているそうです.
この蓬莱山の上に,城郭が乗って,蓬莱そのものの眺めとなるように計算されているそうです.
迫力のある築山とは対照的に穏やかな枯れ池の汀線.
芝の野筋の中を,ゆったりとした流れが表現されている枯流れ.
楽々園とは,山を楽しみ,水を楽しむと言う意味が込められているそうです.長いこと分かれていた玄宮園と楽々園が今のようにつながったのは,明治に入ってからのことだそうです.
書院より.玄宮園とつながって,遙か彼方の山まで見通せる景色.ここに塀があって区切られていない方がずっと良かったと思いました.
彦根城の玄宮園の隣りには楽々園という庭園が続いています.
ここは,1810年頃にだいたい今の形になったそうですが,十三代井伊直中の引退に際し,御殿を新築して総槻(けやき)作りであったことから槻御殿と呼ぶようになりました.
もとの下屋敷が造営された1679年当初は玄宮園と楽々園は一体化したものでしたが,御殿の増改築で塀で区切られたり,玄宮園から水をひいて滝流れと池の庭だったり,その後枯れ山水になったりと,玄宮園より変遷が大きいのが特徴です.
槻御殿.この新書院から座って鑑賞するお庭です
初めの頃は,本当に滝が流れていたとされる,石組み.家臣の香取氏が作庭したと記録されているそうです.
大きな立石が迫力とリズムを生み出しています.上の方の石橋と両脇の立石が蓬莱山を飛ぶ鶴になり,滝の水落石は,亀頭石で築山全体が亀,蓬莱山を表現しているそうです.
この蓬莱山の上に,城郭が乗って,蓬莱そのものの眺めとなるように計算されているそうです.
迫力のある築山とは対照的に穏やかな枯れ池の汀線.
芝の野筋の中を,ゆったりとした流れが表現されている枯流れ.
楽々園とは,山を楽しみ,水を楽しむと言う意味が込められているそうです.長いこと分かれていた玄宮園と楽々園が今のようにつながったのは,明治に入ってからのことだそうです.
書院より.玄宮園とつながって,遙か彼方の山まで見通せる景色.ここに塀があって区切られていない方がずっと良かったと思いました.