8月6日は原爆の日でした。
そして、父の命日でもあります。
この巡り合わせは、余りに神秘的。
そう思えて、仕方がない私です。
最近、爆心地からかなり離れた地域でも、黒い雨が降った所に居た人たちは、被爆者として認められる判決が下されましたね。
父は、原爆が投下された当日、爆心地から一キロも離れていない会社まで出向き、その帰りに黒い雨に遭ったようです。
会社の人達はほとんど全滅。
焼けただれ、外見ではだれか分からなかった同僚の女性が、父に声をかけてきたそうでした。
街や会社の壮絶な惨状を目の当たりにして、父は何を思ったのでしょうか。
過去に撮影した画像です。
原爆投下の前日、出張から戻った父。
その翌日は、30分出勤を遅らせて良かった幸運で、九死に一生を得ることに。
母も同様です。
勤労奉仕のため、市街地で働いた手前の通りの主婦の方達は、全滅。
母は翌日がその日に当たっていました。
原爆投下後、母はその苦労で結核になり、長期の入院と自宅療養を余儀なくされることに。
私は就学前、1年間くらい祖父母の家に預けられました。
母が入院する時、路地の先に、迎えの黒いタクシーが止まりました。
泣き叫んで母を追いかけたこと。
父が、祖父母の家に迎えに来てくれ、家に戻った時の広い玄関の空気感など・・・。
今でもかすかにに思い出せます。
母の後ろに、母のお里が雇ってくれた和ちゃんと言う女中さんがいたことも。
確か被爆で両親を失い、孤児になった人でした。
数年わが家にいた和ちゃんの思い出も、色々あります。
またいつかの機会にお話ししたいです。
広島が復興を遂げるまで、いろいろ苦労があったでしょうに。
父母の態度は一貫していて、被爆当日の話に触れることはほとんどありませんでした。
二~三回、聞いた覚えはありますが。
妹の方が、私より聞く機会があったのでしょうか。
8月6日の記事に、両親から聞いた原爆投下直後の状況をもっと詳しく記しています。
宜しければ、目を通してください。
https://blog.goo.ne.jp/yumeji_2014
父母がそのような態度で子供たちに臨んだためでしょう。
私は被爆者の負い目を精神的には全く感じることなく、その後の人生を過ごすことができました。
もしかすると、幼い時から虚弱体質で、熱ばかりだし学校を休みがちだったのは、多少被爆の影響があったのかもしれませんが。
おかしなもので、自分が被爆者であることを強く意識するようになったのは、東日本大震災以降のことでした。
その時、マスコミもブログでも放射能の恐怖が嫌と言うほど語られるように。
それを目にするたびに、三キロの地点で放射線を浴びた私は、今も元気に過ごしているのに、と思い・・・。
東京まで危険と、不安を煽るような過激な物言いをするマスコミやブロガーさん達に、疑問を感じないわけにはまいりませんでした。
そしてある方のブログに、言葉を選び、妹にも読んで聞かせると言った慎重さで、意見をさせていただきました。
福島の方達の気持ちを察し、言葉をもう少し謹んでほしい旨コメントした私です。
ところが、それが原因で、その後数年間ネット上で大変な苦労をすることに。
酷い中傷コメントだった、と言われ続けました。
今なお、その非難は続いています。
そのために最近また新たな挙動があり、その執拗さに唖然としてしまった私です。
今日の記事の文章の流れの必然として、過去の苦い思い出に触れましたが・・・。
今の私にとっては、遠い過去の出来事に過ぎません。
今は、事実とあまりに異なることを言われ、非難されても、一貫して無視を通す精神力も身に付きました。
平和公園に通じる広島の風景
核のごみ処理は未だに未解決のままで心配ですが・・・。
今は、怖いウイルスが蔓延するといった深刻な問題が新たに発生。
私の老後は、期待したようなな穏やかさとは程遠い感じになってしまいましたが。
でも目先だけ見つめれば、いつもと変わらない日常があります。
戦争中の苦労や原爆投下の壮絶を体験した両親の気持ちを思えば・・・。
ウイルスの蔓延など、嘆いて暗くなるほどのことではないのかもしれません。
こういう時だからこそ、ささやかな幸せを噛みしめ、心はいつも平静でいたい。
そして逞しく生き抜かなければ。
今は、その様に思っています。
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