今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

被爆者として思う事 徒然なるままに

2020-08-08 07:07:27 | 想い出

8月6日は原爆の日でした。

そして、父の命日でもあります。

この巡り合わせは、余りに神秘的。

そう思えて、仕方がない私です。

 

最近、爆心地からかなり離れた地域でも、黒い雨が降った所に居た人たちは、被爆者として認められる判決が下されましたね。

父は、原爆が投下された当日、爆心地から一キロも離れていない会社まで出向き、その帰りに黒い雨に遭ったようです。

会社の人達はほとんど全滅。

焼けただれ、外見ではだれか分からなかった同僚の女性が、父に声をかけてきたそうでした。

街や会社の壮絶な惨状を目の当たりにして、父は何を思ったのでしょうか。

 

過去に撮影した画像です。

 

原爆投下の前日、出張から戻った父。

その翌日は、30分出勤を遅らせて良かった幸運で、九死に一生を得ることに。

母も同様です。

勤労奉仕のため、市街地で働いた手前の通りの主婦の方達は、全滅。

母は翌日がその日に当たっていました。

 

原爆投下後、母はその苦労で結核になり、長期の入院と自宅療養を余儀なくされることに。

私は就学前、1年間くらい祖父母の家に預けられました。

母が入院する時、路地の先に、迎えの黒いタクシーが止まりました。

泣き叫んで母を追いかけたこと。

父が、祖父母の家に迎えに来てくれ、家に戻った時の広い玄関の空気感など・・・。

今でもかすかにに思い出せます。

母の後ろに、母のお里が雇ってくれた和ちゃんと言う女中さんがいたことも。

確か被爆で両親を失い、孤児になった人でした。

数年わが家にいた和ちゃんの思い出も、色々あります。

またいつかの機会にお話ししたいです。

 

 

広島が復興を遂げるまで、いろいろ苦労があったでしょうに。

父母の態度は一貫していて、被爆当日の話に触れることはほとんどありませんでした。

二~三回、聞いた覚えはありますが。

 

妹の方が、私より聞く機会があったのでしょうか。

8月6日の記事に、両親から聞いた原爆投下直後の状況をもっと詳しく記しています。

宜しければ、目を通してください。

https://blog.goo.ne.jp/yumeji_2014

 

父母がそのような態度で子供たちに臨んだためでしょう。

私は被爆者の負い目を精神的には全く感じることなく、その後の人生を過ごすことができました。

もしかすると、幼い時から虚弱体質で、熱ばかりだし学校を休みがちだったのは、多少被爆の影響があったのかもしれませんが。

 

 

おかしなもので、自分が被爆者であることを強く意識するようになったのは、東日本大震災以降のことでした。

その時、マスコミもブログでも放射能の恐怖が嫌と言うほど語られるように。

それを目にするたびに、三キロの地点で放射線を浴びた私は、今も元気に過ごしているのに、と思い・・・。

東京まで危険と、不安を煽るような過激な物言いをするマスコミやブロガーさん達に、疑問を感じないわけにはまいりませんでした。

そしてある方のブログに、言葉を選び、妹にも読んで聞かせると言った慎重さで、意見をさせていただきました。

福島の方達の気持ちを察し、言葉をもう少し謹んでほしい旨コメントした私です。

 

ところが、それが原因で、その後数年間ネット上で大変な苦労をすることに。

酷い中傷コメントだった、と言われ続けました。

今なお、その非難は続いています。

そのために最近また新たな挙動があり、その執拗さに唖然としてしまった私です。

 

今日の記事の文章の流れの必然として、過去の苦い思い出に触れましたが・・・。

今の私にとっては、遠い過去の出来事に過ぎません。

今は、事実とあまりに異なることを言われ、非難されても、一貫して無視を通す精神力も身に付きました。

 

平和公園に通じる広島の風景 

 

核のごみ処理は未だに未解決のままで心配ですが・・・。

今は、怖いウイルスが蔓延するといった深刻な問題が新たに発生。

私の老後は、期待したようなな穏やかさとは程遠い感じになってしまいましたが。

でも目先だけ見つめれば、いつもと変わらない日常があります。

 

戦争中の苦労や原爆投下の壮絶を体験した両親の気持ちを思えば・・・。

ウイルスの蔓延など、嘆いて暗くなるほどのことではないのかもしれません。

こういう時だからこそ、ささやかな幸せを噛みしめ、心はいつも平静でいたい。

そして逞しく生き抜かなければ。

今は、その様に思っています。

 

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お墓の問題

2020-08-08 06:47:03 | 暮らし

私達は長男長女の結婚のため、お付き合いしないといけないお寺が二つあります。

これまでは、両お寺に、私ができる精一杯のお務めを果たしてきたつもりです。

しかし、我が家は娘二人で、跡継ぎがいません。

ですから両家のお墓も私達の代で終わりになります。

 

今後のことを考えると、娘たちに負担をかけず、私達のお墓を守ってもらうにはどうすればいいかと、折ある毎に考えてきました。

私が亡くなったら、時期を見計らって、いつか永代供養し墓じまいをしてくれればいい。

そう思っています。

孫にまで面倒はかけられませんから。

昨日の記事で墓石を移動するなどと記しましたが、公営墓地以外はほとんど認められていないようです。

誤解を招くといけませんから、一言付け加えさせていただきますね。

 

 

ところで一番の問題は、私が入るお墓です。

正直に言って、私は夫の実家のお墓には入りたくありません。

その理由は、私は結婚後一度も夫の家に寝泊まりしたことがありませんから。

子供が夏休みになると、いつも帰省し、ひと月位郷里で過ごすのが恒例でしたが。

夫の実家には私も子供たちも一度も泊っていません。

実は夫もそうでした。

私の両親と共に、私の実家で一週間の夏休み休暇を過ごし、帰京していました。

 

これには訳があります。

義父は開業医で、家が職場となっていました。

義母さまは夫が大学生の時に亡くなり、未婚の薬剤師の叔母さまが同居し、兄の仕事を手伝っていました。

ですから、もしかすると義父は、叔母に負担をかけたくなかったのかもしれません。

 

 

年に三回、お布施を用意しなければならない我が家。
いつも、文具店で慌てて用意していましたが、
最近ネット通販で、格調もあるとても良い雰囲気のお布施袋に出逢いました。
10枚でこの安い価格、驚きです。
皆様にも心からお薦めします。

 

 

そういった感じでしたから、私は嫁ぎ先の家族の一員と言った実感は味わえないまま、長い歳月が流れ去りました。

でも関係はいつも良好で、問題は何も起きなかったのですが。

お姉様との間柄は、残念ながら険悪に。

夫が冗談で「養子になってもいい」と言った事(私さえ、後で知ってびっくり!)を真に受けられ、その後も更なる誤解がありました。

藤純子似の才色兼備な方。

夫の葬儀の時、姪がその美貌に見惚れていました。

今はハワイに在住していらっしゃいます。

 

お話が脱線してしまいましたね。

元に戻します。

夏休みやお正月の休暇を、私の実家で、心からくつろいで過ごした夫。

無口な人でしたが、私の両親にとても敬意を払ってくれてもいました。

両親を我が家に引き取り、介護に明け暮れた時も、文句ひとつ言わず、理解ある穏やかな態度で見守ってくれました。

 

母が亡くなった時、葬儀の最後の挨拶では、感極まって声を詰まらせるほどでしたから。

言葉には出さなくても、母への感謝の気持ちを忘れないでいてくれたのだと思います。

私には、夫は私の実家の家族の一員になり切っているように見えました。

そして義父は生前、私たち家族が、私の実家でお世話になることを心から喜んでくれてもいました。

 

結婚後の私の半生はこんな感じでしたから、今更夫の実家の菩提寺のお墓に入るのには、どうしても抵抗があります。

そのお墓では、とても、私は寛げません。

永代供養になる前の数十年間を、夫も私の両親の菩提寺のお墓に入り過ごす選択を私が勝手にしても、きっと快く承知してくれるに違いない。

私はそう思っています。

 

これは、ママからの、娘達への意思表示です。

よろしくお願いします。

 

娘達に私の気持ちをを伝えたくて、綴った今日の記事。

個人的なこのような思いを公開までして書く私の厚かましさ。

少々恥ずかしいですが、お読みぐるしい点は、ご看過下さいますように。

 

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