1915年、第二次大隈重信内閣の「対華21か条の要求」を調べよ
うとしている。
中国の近現代史をざっとおさらいするうち、あらためて「国共
(こっきょう)合作」(国民党と共産党の協力関係)に興味を
覚えた。「合作」は中国語で協力関係を意味している。
国共合作は、第一次1924年と第二次1937年の2回があり、国民
党の党首は、第一次が孫文、第二次が蒋介石だ。
第一次と第二次では、国民党の党首もその意義も異なっている。
「孫文の国共合作」について、高校教科書では次のように説明さ
れている。
1921年には、コミンテルンの支援によって、陳独秀を指導者とする中国共産
党が結成された。一方、中国国民党を基盤に革命運動の推進をめざしていた
孫文も、ソ連の援助を受け入れて顧問をまねき、24年国民党を改組して党組
織の近代化をはかるとともに、共産党員が個人の資格で国民党に入党するこ
とを認めた(第一次国共合作)。(『詳説世界史B』山川出版社2019)
これを石川禎浩『革命とナショナリズム1925-1945』(岩波新
書)でもう少し詳しく見てみると、
国民党への共産党員の加入、すなわち国共合作は、1924年1月の国民党第一
回全国代表大会によって正式に幕が上がったが、この時点での共産党員(注:
陳独秀や毛沢東)は全国で約500人に過ぎなかった。国民党の公称国内党員
数の100分の1である。
生前の孫文が、共産党との対等な提携(党と党との合作、いわゆる党外合作)
ではなく、あくまでも共産党員が個人の資格で国民党に入党すること(いわ
ゆる党内合作)にこだわったのは、自党の主義への孫文の自信ばかりでなく、
こうした両党の力の量的な隔絶を反映したものでもあった。
全党員の国民党への加入という国共党内合作の方針が、コミンテルンの指示
のもと、共産党員多数の反対で押し切って推進されたように、・・・・・・(p5)
すでに述べたように、国共合作は共産党員が共産党の党籍を保持したまま、
国民党にも加入するという形式をとっていたが、これは国民党の特に古参党
員には、共産党員による国民党の乗っ取りという懸念を呼ぶものであった。
つまり共産党側は、国民党員のうちの誰が自党の党員でもあるかを把握して
いるのにたいして、共産党員の名簿を持たない国民党側は、それがわからな
い状態に置かれていたのである。・・・・・・ただし、国民党にとって頭が痛かっ
たのは、積極的に国民党の活動を担っているのが、ほかならぬ共産党員だっ
たという現実である。(p13)
たしかに上記アンダーライン部分は大切なポイントだったろう。
第一次国共合作時に、隠れキリシタン(潜伏キリシタン?)なら
ぬ、隠れ共産党員が活躍(暗躍?)したということなのかしらん。
孫文の死後、簡単に言うと、国民党(蒋介石)と共産党との間で
権力闘争が生じ、第一次国共合作は、蒋介石の共産党弾圧(上海
クーデター)によって終わりを告げた(1927年)。
まったくの余談:昨年10月の学術会議会員の任命拒否問題で、政府は「総合的・
俯瞰的な活動を確保する観点」から判断したとしている。
そもそも、この問題は、松宮教授が拒否されたという「赤旗」のスクープから
始まった。
ここから松本清張ばりの「大胆な仮説」になるが、「もしかすると」政府(公
安調査庁)は、日本共産党内のスパイからその党員名簿を入手しているのかも
しれない。松本清張の読みすぎ?(笑)。
野党4党+市民連合も、ちょっとした「国共合作」?
岩波新書より
川島真『近代国家への模索1894-1925』(2010)
石川禎浩『革命とナショナリズム1925-1945』(2010)
入江曜子『溥儀』(2006)
深町英夫『孫文』(2016)
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○9/8付日経新聞一面に「中国、国家統制強まる」
これ以上さらに強まるのかしらん。
〇9/9、菅総理記者会見
今までで一番、顔つきも、よかった。スガスガしい?
まことにお疲れ様でした。
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