4月18日(木)、鹿児島紀行第4日。今回の旅行目的の一つ、知覧
に向かう。
10時過ぎに指宿駅前を出発したバスは国道226号線を北上、途中
から右手に鹿児島湾を見つつ、喜入に。
ENEOS喜入基地も見える。
そのあたりから一転西へ向かい、県道232号線の丘陵地帯を走り、
知覧町へ入る。
11時5分、指宿駅前より1時間ほどで「特攻観音入口」バス停に到
着した。
ちなみにノーベル物理学賞受賞の赤﨑勇さん(1929-2021)は知覧町出身。
9:51 JR指宿駅
10:01 知覧方面バス乗り場
10:03 「知覧武家屋敷入口」行がやや遅れてやってきた。
10:36 喜入付近
11:05 特攻観音入口(特攻平和会館)に定時に到着。
11:06 バスを下りたら右折、横断歩道を渡って、特攻平和会館へ。
11:07
桜並木に全国の遺族・関係者・有志から寄進された灯籠が並ぶ。
11:07
11:08
11:08 桜並木の西側 自由広場
11:10 知覧文化会館
11:11 自由広場の片隅に、フジがきれいに咲いていた。
11:11
11:12
11:13 ドイツ人(?)の団体ツアー --ドイツ語を話していた。
石灯籠が並んでいる桜並木を歩いて行くと、ドイツ人と思しき団
体と一緒になり、戦闘機「隼」が展示してある場所に出る(写真
参照)。
11:13
11:15
11:15 ツアーガイドさんもドイツ語で案内。
11:16
11:16 一式戦闘機「隼」(復元)
11:17
”特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊
員の無残にも美しい青春を描いた、映画「俺は、君のためにこそ
死ににいく」(2007年5月12日公開作品、製作総指揮・石原慎太
郎)で実際の撮影に使用された(一式戦闘機)「隼」。
大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)において、陸軍の主
力戦闘機として一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲をモデルに当時の資料や
少飛会の意見も取り入れて忠実に復元製作された。
「隼」は当時知覧の特攻基地からは九七式戦闘機に次いで多い
120機が飛び立っている。
(原文どおり。以下同じ)
映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の写真、中央は鳥濱ト
メ役の岸惠子さん。
11:18
11:19 団体さんは特攻像「とこしえに」に移動。
11:19 特攻像「とこしえに」 昭和49(1974)年制作
11:22 特攻像「とこしえに」
特攻勇士は開聞岳を見つめている。
11:22
特攻像「とこしえに」の由来
特攻隊は、遂に帰って来ませんでした。国を思い、父母を思い、
永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。
特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられま
した。
み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
あゝ
開聞の南に消えた勇士よ
製作 日展審査員 伊藤五百亀先生
昭和四十九年五月三日
知覧特攻慰霊顕彰会
*5月3日。今からちょうど50年前に建てられている。
(参考)伊藤五百亀1918-1992(73)→こちら。
「高山彦三郎皇居望拝の像」も有名。
11:23 特攻像を見つめる母の像「やすらかに」昭和61(1986)年
11:23
11:23
やすらかに
特攻隊の若い命は再び帰らず
出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿
この晴姿をせめて母上に一目
最後の別れと、お礼を一言
胸も張り裂けそうなその心情は
母もまた同じであったろう
今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の温かいみ胸で
御霊の安らかならんことと
世界平和を祈念して
昭和六十一年三月三十日
熊本県芦北町 前田 将
(注)前田将氏は、多くの隊員が「お母さん、お母さん」と書き残している遺
書などに深く感涙。ぜひ母のみ胸にやすらかに眠ってほしいという一念から発
意。私財を投じて寄贈。
11:23 初等練習機
11:23
この飛行機は、初等練習機として航空自衛隊防府北基地(山口県)
で活躍していましたが、平成17年に用途廃止され同年5月知覧町
が借り受け、ここに展示したものです。
本機(T-3)の構造・性能
全幅 10.00m 最大速度 360km/h
全長 8.04m 上昇限度 8,200m
全高 3.02m 航続距離 1,000km
自重 1,136kg
11:23
11:24
知覧基地 特攻隊の歌 作詞作曲 斎藤末利
昭和六十三年八月建之
11:24 護国神社 明治2年創建
始りは戊辰戦争の戦没者を祀ったもの。
11:24
石碑碑文
第三十四回国会において戦没者等の妻に対する特別給付金支給法
が制定されましたその記念として靖国の妻の感謝の心をこめて謹
んでこの樹一対を献じます
昭和三十八年十一月五日 川辺郡知覧町婦人部
11:24 西南戦争 招魂塚
11:25
慟哭、誓いの碑と(左側)平和の鐘
この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、民族を超え、世界
人類永遠の平和をここに誓う。
11:25 さつま同郷の有志これを建つ 平成十二年十一月
11:26 知覧特攻平和会館 →こちら。
知覧特攻平和会館リーフレット
世界恒久平和を願いながら (リーフレットより)
この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、人類
史上類のない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特
別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な史料を収集・保存・展示
して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するも
のです。
知覧は、1941年(昭和16年)、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所
が開校、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓
練を重ねていましたが、戦況が緊迫し険悪となり、遂に1945年
(昭和20年)本土最南端の陸軍特攻基地となり、20歳前後の若
い隊員達が満州・日本内地から集結しては、家族・国の将来を
思いながら出撃した地です。
沖縄戦で特攻戦死された1,036名の隊員は、知覧基地を主軸とし
て万世・都城基地から、第8飛行師団は台湾各基地、義烈空挺隊
は健軍(熊本)基地から出撃しています。
11:27 入場料 大人500円
入場券
内部はすべて撮影禁止だが、「フロアガイド」参照→こちら。
内部には1,036柱の遺影が掲示されている。
11:30 ロビー
11:31 零戦(海軍 零式艦上戦闘機)
「この零戦は、昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500メー
トル、水深約35メートルのところに海没していたものを知覧町
(当時)が昭和55年6月に引き揚げたものです。」
11:32
11:34 ロビー
11:41 陶板壁画「知覧鎮魂の賦」→こちら。
11:41 特攻平和会館について
--約1時間半、じっくり内部を見学(→こちら)。
陸軍特攻隊員の遺影、遺品、記録等(本末尾参照)に、言葉が出
て来ず、他人に説明こともできない。
館内も静寂だ。
13:08 零戦展示室再び
13:08
陸上自衛隊幹部候補生が見学に来館。内部は写真が撮影できない
ので、その中にはメモ用紙を持っている人が散見された。
13:08
13:13 ロビー再び
13:14
13:15 平和の母
寄贈:川条磨未(兵庫県西宮市)
制作:富山生源(兵庫県西宮市)
設置:平成9年8月
13:15 三角兵舎(復元)
13:15
13:15
三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松
林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装して
ありました。
各地から集まった隊員は二~三日後には雲のかなた沖縄の空に散
華(さんげ)されました。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会
が催され、酒を汲みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球で
遺書を書き、また別れの手紙等をしたためて、出撃して征ったの
です。
ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものでありま
す。
13:16 三角兵舎の内部 ここで遺書などを書いた。
13:17 八重桜が満開だ。
13:17 特攻平和観音堂→こちら
今日、5月3日には、知覧特攻平和観音堂で「第70回知覧特攻基地
戦没者慰霊祭」が開催される(→こちら、こちら)。
13:19 ミュージアム知覧 こちらはいわゆる博物館。
13:19
13:20
13:21
13:21
13:28
13:29 ホタル
燃えつきず
立ち寄る家の
今ありやなしや
ホタルよ
ここで休んで下さい
降旗康男
13:30
短い青春を懸命に生き抜き散っていった特攻隊の若者たちが「お
母さん」と呼んで慕った富屋食堂の女主人鳥濱トメさんは、折節
にこの世に現れ人々を救う菩薩でした
石原慎太郎
(写真は特攻隊員に囲まれる鳥濱トメさん43歳)
13:30
13:30
知覧・・・・・・。
薩南の涯(はて)の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員と呼ばれた若者や
少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。祖国の難に一命を捧げた隊員
たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていっ
た町。そんな隊員や、それを取りまいた人びとの、さまざまな(昏[くら]い
*)思いが罩(こ)められている町、知覧。
[今日われ生きてあり]
神坂次郎
(→下記参考図書。*新潮文庫版p10では「昏[くら]い」が原文だが、省略さ
れている)。
13:31 知覧節
13:33
13:34
13:35 すっかりお腹が空いたので昼食に
13:39
13:45 鹿児島のうどんは美味なり。
13:59 駐車場
13:59
14:00 特攻観音入口バス停
14:09
14時11分発金生町行に乗り、知覧武家屋敷へ向かう。
<関連図書>
赤羽礼子、石井宏(共著)『ホタル帰る』
「大戦末期、軍の指定食堂で特攻隊員たちを親身に世話した鳥浜トメの姿を、
娘礼子が自らの体験を交えつつ語る。戦争の真実の姿がここにある。」
石井宏さんは昭和19(1944)年、航空兵を志願、新潟地方航空
機乗員養成所本科6期生となる。
戦後、東大美学科、仏文科を卒業。日本楽器、TBSを経てフリー
に。音楽評論家。現在93歳。
石井宏『反音楽史』 山本七平賞受賞
「クラシックの音楽史はドイツ人の創作!事実は大違い」
神坂次郎『今日われ生きてあり』、水口文乃『知覧からの手紙』
著者の神坂次郎(こうさかじろう)さんは、昭和2年生まれ。昭和
18年陸軍航空学校入学、知覧特攻基地を経て、小牧飛行基地で終
戦を迎えた。令和4(2022)年没(95歳)。
私の「知覧三部作」
いずれも10年ほど前(厳密には平成25~26年)に読んだもの。
高岡修編『新編 知覧特別攻撃隊』写真・遺書・遺詠・記録・名簿
(特攻平和会館で購入)
相花信夫少尉 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳
遺書(の一部引用。本書p88)
・・・・・・
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
・・・・・・
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
(注:ノート二頁に楷書でペン書き)
『きけわだつみのこえ』(新版)の冒頭に登場する、慶應・経済
~昭和18年学徒出陣、上原良司大尉(22)関係の「所感」なども
展示されていた。
遺詠
人の世は別れるものと知りながら
別れはなどてかくも悲しき
ちなみに良司には兄が二人(いずれも慶應・医学部)いたが、三
兄弟いずれもが昭和18、20年に戦死している。
『知覧からの手紙』(水口)で取り上げられている穴澤利夫大尉
(23)は中央大学卒の文学青年だった(→こちら)。
中央大学では、知覧特攻平和会館と協力して、昨年(令和5年)
12月4日(月)から9日(土)まで、共同企画展「戦争を生きた先
輩たち~中央大学出身の特攻隊員~」を開催。
穴澤利夫はここでも紹介されている(→こちら)。
特攻隊員は17歳~30歳だった(多くは二十歳前後)。
残された両親は30代から60代だったのだろうか。
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どこでもジックリ見ようとすると、時間が足りませんね~(笑)。
私ももう一度行ってみたいです(笑)。
知覧平和会館を中心に、見学した事実を(涙ながらに)あるがままをご紹介しました。
知覧まで指宿からバスが出てるんですね。
神奈川から車で行ったのですが、知覧は予定外だったので
ざっくりとしか見学していないません。
今度は飛行機や地元の公共交通で再訪したいです。
桜並木の灯籠の道、写真を拝見しても全く記憶になく(^_^;)
三角兵舎はすごく印象に残ってます。
詳しく書いて下さってありがとうございます。