人生ブンダバー

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西尾幹二『異なる悲劇 日本とドイツ』(文春文庫)

2015-02-27 05:00:00 | 読書

またもいささか旧聞となるが、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領が1月
31日に94歳で亡くなった。

ヴァイツゼッカーの演説の言葉--「過去に目を閉ざす者は、現在にも
盲目となる」が有名だ。NHKのニュースでも一種の美談(?)として採り
上げていたようだ。


本書『異なる悲劇 日本とドイツ』の引用を用いれば、わが国では「ドイ
ツはユダヤ人などに、今までに一千億マルク(約7兆円)の補償金を支払」
ったのに比べ、「日本政府はこれまでの怠慢と、戦争への反省不足」であ
るという文脈で採り上げられることが多いようだ。


しかし、本書によれば、
「日本が中国その他の前線で戦争犯罪--戦争遂行に付随する捕虜や
非戦闘員に対する非人間的行為など--を犯した事実は必ずあったに
相違ない」としながらも「しかし全ヨーロッパのユダヤ人の『最終処理』が
紛れもなく犯罪であるのは、その規模ならびに方法からいって、それがま
さに戦争犯罪でなかった点にこそ求められるのはないか」。(文庫版p86)


「大統領が例の講演のなかで、関係諸国に決して『謝罪』していない、し
たたかな慎重さに彼ら(注;日本の新聞とそれを支持する知識人)は気が
ついていない。さらに、罪はどこまでも個人的なものであって、民族全体と
しての『集団の罪』は存在しない、心憎い用心深さで、ドイツ民族を奈落の
淵から守っている、微妙な一行が挿入されていることにも、気づいていな
い」(p88)


「罪はどこまでも個人的だというのは、大統領だけではなく大半のドイツ人
の意見である」(p89)


「日本はドイツのように自ら戦争犯罪人を作らなかった。そのことを日本の
責任感の不足のように言う人が多いが、とかげの頭と尻尾切りを行わな
かったのは、日本の場合、戦争指導者と民衆の間には明確な一線を引け
ないという判断があったからだ」(p89)


ドイツでは、戦後、すべてはヒトラーとそのグループが悪かった、としたらし
い。

ウィキペディアによれば、最初は話題にならなかった「過去に目を閉ざす
者は、現在にも盲目となる」という一節に注目したのは岩波書店の『世界』
だという。

もしこれらのことが本当であれば、あらためて演説の全文を読み、静かに
検証しなければならない。

○たしかに、ドイツのナチ指導者はニュルンベルク裁判で「通例の戦争犯
 罪」に加え、「人道に関する罪」で裁かれたが、東京裁判の場合は「人道
 に関する罪」(C級)では訴追されていない。
○ナチのユダヤ人虐殺といわゆる「南京大虐殺」(南京事件)とはまったく
 違う、という判断になった。
○日本は、「通例の戦争犯罪」を行っただろうが、ホロコースト、ジェノサイド
 を行ったわけではない。
○ヒトラーとナチ・ドイツの残虐性は、想像を絶する、桁違いだった、という
 ことのようだ。



有名なケネディ(JFK)の言葉--「国が諸君のために何が出来るかを問
うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい」というもの
も、(完全な)自由主義を伝統とする米国とそうではない日本ではまったく
意味が違ってくる。(高校時代、保健体育のN先生(当時60歳?)は、さか
んにこの言葉を繰り返していた)。

米国では、国家とは自由な個人の集合体である、というのが伝統的な考え
である。その考え方からすれば、ケネディ発言の前段は、自由、独立の個
人は、もともと国には何かしてもらおうと思っておらず、後段は国家は個人
の主人ではないのだから、いずれにしてもナンセンスだということになる。

どこへ行こうが「自由」だが、身代金は払わない、ということである。



何事も発言(とくにヴァイツゼッカー元大統領も含め、政治家の場合)の一
部だけではなく、その全体、歴史的背景、意図などをよく考えなければなら
ない、ということかしらん。



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