人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
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母のこと

2020-07-20 05:00:00 | ファミリー・ヒストリー

山口瞳が書いた本の一冊に『血族』がある。単行本初版は昭和54
(1979)年1月文藝春秋刊。

文藝春秋社によれば、
「亡き母への熱き愛と鎮魂をみごとに描破して大好評をよび、第
27回菊池寛賞を受賞した長編小説!」
である。今でも大変印象に残っている本だ。
このブログでも、以前少し取り上げた(→こちら)。


最近、母の遺品を整理していたら、父が亡くなった時の原戸籍とか
さまざまな写真が出てきた。

私には山口瞳の『血族』のような「ファミリー・ヒストリー」を書
く力もないが、知っていること、分かったことを最小限に記録して
おきたいと思うようになった。


私の母は、「盛子」(もりこ)という。
祖父母、鈴木「弥七」と「喜代」の四女として、大正12(1923)年
3月6日、東京・幡ヶ谷に生まれ、平成23(2011)年3月3日、横浜・
緑区竹山の病院で亡くなった(87歳)。

大正12年は関東大震災(9月1日)、平成23年は東日本大震災の年
(3月11日)として記憶されている。
母は、大地震に縁がある。
「そのうち、関東にまた大地震があるわよ」が口癖だった。

私のブログに登場する「自由が丘の叔母さん」(94)は、母の妹だ。


母は、生まれてまもなく、祖父の転勤・転居等により、当時の満洲・
大連(ロシア語で「ダルニー」=[遠い]の意)に移る。

その後、若い頃は、四平街(しへいがい。現四平市)~代々木上原
~小田原~麻布笄町(こうがいちょう。現・西麻布4丁目)~代々
木八幡に住んだ。

年表風に書けば・・・・・・
昭和4(1929) 小田原城内小学校入学
昭和8(1933) 笄小学校へ転校(2学期~) 
昭和10(1935)笄(こうがい)小学校卒業
昭和10(1935)府立第六高等女学校(現・都立三田高校)入学
 第六高女は大正12(1923)年開校。--大正リベラリズムの時代。
 二・二六事件の時は1年生。
 「名物校長」の丸山丈作初代校長時代--丸山先生は自由主義的だった?
 『とと姉ちゃん』のモデル大橋鎮子は3年先輩だ。
昭和15(1940)同校卒業 高女13回生?

卒業後は日本興業銀行に3年ほど勤めたが、いったん退職。
しばらく「家事手伝い」後、昭和18(1943)年秋から海軍省人事
局へ出仕し(注)、終戦を迎えた。

(注)家事手伝い中は、海軍の少年(少女)団(「海洋少年団」?)に入り、手
 旗信号を学んだりしていた。勤めていないと結婚させ
られそうな時代だったか
 ら、その後、海軍省に入ったと聞いた記
憶がある。
 当時でいえば、多くの普通の軍国少女の一人だったのかしらん。
 終戦時は、日吉の洞窟に海軍省があり、戦争が終わるや書類の焼却に追われる
 日々だったという。



母は、満88歳の3日前まで長生きした。

長生きの老人にも、時代替われど、幼年時代や青春時代がある。
「(普通の)人に歴史あり」である。


母の子どもの頃の写真(小学生時代?)


オマケだが、こちらは、私の幼年時代(5歳頃?)。
世田谷(宮[の]坂)の家。天然パーマ。母に似ているかな?





山口瞳『血族』(文春文庫版)★★★★★


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