小泉信三22歳~26歳の未発表日記が平成13(2001)年に慶應義塾
大学出版会より公刊された。
小泉信三は、明治43(1910)年22歳で慶應義塾大学部政治科を卒業、
24歳からイギリス、ドイツへ留学、28歳で帰国。慶應義塾大学教授に
就任。その年に阿部泰蔵三女とみ(水上滝太郎の妹)と結婚した。
当ブログに何回か登場する「小泉信三」といっても、今の若い人は知ら
ないかもしれない。簡単にいえば、私の祖父母の世代の人である。30
歳前後の人から見れば、ひいお祖父さんかな。
小泉信三は、明治21(1888)年生まれ。昭和8(1933)年に慶應義塾
塾長に就任し、昭和22(1947)年まで務めている。(ただし、昭和20
[1945]年からは、東京大空襲で負傷のため、高橋誠一郎教授が塾長
代理を務めた)。ウィキペディアもご参照→こちら。
小泉信三の言葉--「練習は不可能を可能にする」は、私のワグネル
現役時代の座右の銘だった。
私の22~23歳は、ワグネルの責任学年として、寝ても覚めてもワグネ
ルのことばかり考えていた。当時ヒットしていた曲は全然記憶にない。
ちょうどその頃、「学費値上げ反対」という全学ストライキがあった。
Tという先生(助教授)は、
「学生諸君がストライキをやっても、われわれ教師にはきちんと給料が
入ってくる。まったく痛痒を感じない」
とうそぶいておられた。
3月の期末試験は中止になったのではなかったかしらん。まともに授業
があったら、留年(落第)していたかもしれない。私は図書館で小泉信三
全集ばかり読んでいた。
授業料値上げは、現在の学生には適用されず、新入生からということ
だった。なぜ「学生執行部」(?)が反対だったのか?今もって分から
ない。
そんな中で、難しいゼミの筆記試験に合格したのも不思議で、ワグネル
の同期、後輩からビックリされた(笑)。
このブログもご参照→こちら。
当時--100年前の、青年小泉信三の「生活」が蘇る。
明治44(1911)の日記より・・・・・・
1月19日(木) 明治座見物。出し物は「寿曾我」、「貞任宗任」、「谷風」、
「紙子仕立両面鑑」、「寿曾我」では宗之助の少将、源之助の仲居おきの、
莚若の新造梅ヶ枝などがよかった。
(--当時は歌舞伎見物が一つの娯楽だったようだ。小泉信三の奥様
は「とみ」という名前だった。小泉さんは「いやさ、お富」という歌舞伎の
台詞をよく真似していた)。
5月10日(水) 高橋誠一郎君の渡英を送るため横浜へ。
(--小泉信三(M23生)と高橋誠一郎先生(M17生)は「永遠のライバ
ル」?戦後、小泉信三の塾長代理を務めた)。
本書を読んで感じることは、小泉信三という人は、好き嫌いがハッキリした
スポーツマンだったのではないか、ということである。
こちら(「小泉信三生誕120年」)もご参考まで。
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