昨夜20時過ぎに配達されたヤマケイ文庫「深田久弥選集 百名山紀行」(上・下巻)を手に取り、枕元で下巻に掲載されていた「雨の徳本峠」をまるでわが人生の記憶を手繰り寄せるかのように読む。
「そうか、そうだったのか・・」と忘れていた部分がよみがえり合点がいく。
概要をメモると以下の通り、
① あの写真に写っていた横尾山荘の家族4人が上高地からの下山ルートに「徳本峠越え」を選択する。
② 横尾から蝶ヶ岳~常念を計画したが、雨のため引き返すが、妻や子供たちの意見を尊重し「徳本峠越え」を選択したこと。(実は、上高地からのバス代が100円不足していたという、切実な理由があった。あの頃は、カード払いなどなく、現金本位の暮らしだった。もちろん上高地に郵便局はなかったろう。)
③ 二日目に宿泊した徳澤の宿を出発したのは、10時ころと遅かった。
④ 徳本峠に着いたのは午後1時過ぎである。(現在の地図だと、峠から島々集落までの標準歩行時間は6時間30分である。8月下旬の日没は18時30分前だから、後半の日没が予想される。)
⑤ 幸いにも島々谷沿いのルートはギリギリ日没までに通過したものと思われ、今でいう島々谷林道の現れる二股に到着したのは夕方だったと記している。
⑥ ただし、現在の林道は当時は狭隘なトロッコ道で、一部腐食した枕木などにおびえながら家族は島々集落までの6キロの道を進む羽目になった。
⑦ 持っていた懐中電灯は途中で球が切れて、家族は暗黒の道をたどる羽目に陥るが、幸い危険な橋を渡り終えており、ほどなく島々集落の灯が見えて事なきを得た。
⑧ 当時小学三年の次男坊は翌朝足が立たない状態で、父親がおぶって帰宅したとある。家族のダメージは相当なものだったろう。
オイラの記憶では、家族が島々谷沿いの山道で日没にあい、照明器具がなかったために苦労したと思っていたが、今の林道に当たる地点で日没にあい、懐中電灯を持っていたが途中で電球が切れて、それもトロッコ道だったため難儀したというのが、事実であった。
「そうか、そうだったのか・・」
深田家族は、大人並みに健脚であったこと、照明器具はちゃんと持参して途中まで利用できたこといたこと、あるいはトロッコという金属レールがあったため暗闇でも道に迷わずにすんだことなど、家族が遭難しないで済んだ理由も明らかになったが、少し遅れていたら、笑い話では済まなかったかもしれない。暗黒の沢筋で照明を失ったら、もう動ける状態ではなく、ビバークするにしても雨が降り続いていたといい、8月とはいえ相当つらい思いをしたものと思われる。
深田さんの家族団らん登山を描いた「雨の徳本峠」、ほのぼのとして読んだが、実はかなりきわどかったのではないかと、勝手に心配させられた。
で、この70年前の昭和31年の紀行文、オイラには昭和のなつかしさがふんぷんするのであって、「深田文学をもっと読んで、あの純粋無垢な昭和という記憶世界にタイムスリップしようか」なんて夢見心地なのである。
そのなつかしさの一端を記せば・・
① 新宿発松本行きの夜行列車、「臨時準急」などが運行されていた。(オイラも満員電車の床に寝た記憶あり)
② ヤシカの二眼レフの写真機
③ 懐中電灯と「球が切れる」ということ
④ 「バス賃足らぬ組」の徳本峠越え