川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

おろかもの之碑

2007-06-20 06:43:27 | 出会いの旅
 武尊牧場のブナ林を散歩したあとは榛名山の国民宿舎・吾妻荘に泊まりました。<高原学校>ということで地元の東吾妻町立岩島中学校の生徒たちが同宿しています。近くですから学校から歩いて登ってきました、といいます。地図で見ると八ツ場ダムの建設で消える川原湯温泉の下流10km位のところに岩島中があります。吾妻川のほとりです。距離にしても高度差にしても相当あるように思われます。今の時代でもこのような学校と生徒が居るのかと感心しました。礼儀正しく子どもらしい。元気づけられます。
 翌13日は中之条町の林昌寺を訪ねました。おろかものの碑というものがあると聞いていたからです。墓地脇の駐車場から入ってしまったため、最初に小渕元首相の大きな墓碑に頭を下げました。小渕さんは僕がつとめていた都立北高校の卒業生なのですがこの町で幼少期を過ごしたのでしょうか。のちに訪ねた図書館の前の広場には銅像が建っています。
 この地方では有名なしだれ桜の横をおりると立派な山門があります。山門を出て、正面の参道から見ると山門のすぐ左側にその碑はありました。説明板はありません。いつものように碑の後ろに書かれている文章をカメラに収めようとしましたが碑があまりにも塀に接しているため、それもできません。この碑の由来を知りたい人に不親切というほかはありません。やむなく妻が筆記しました。
 ここに全文を記しておきます。
 <正面> おろかもの之碑     参議院議員 木暮武太夫書
 <裏面>昭和十二年七月七日支那事変ハ、ツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル。日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ職務上、或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレソレ大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会ノ郡町村責任者トナッタガ、敗戦後占領政策ニヨリ其ノ職ニ在ッタモノハ、スベテ戦争犯罪人トシテ、昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職カラ追放サレタ。本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ。昭和二十六年八月全員解除サレルヤあずま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル。創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ、再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ、卑名ヲ下記ニ列ネテ碑ヲ建テル。  昭和三十六年十二月八日     あづま会建之

 中之条町中之条 7名氏名(略) 旧沢田 6名 旧伊参 5名 旧名久田 5名 
 東村 6名
 吾妻町原町 5名 旧太田 5名  旧岩島 8名 旧坂上 5名 
 長野原町 7名
 嬬恋村 8名
 草津町 3名
 六合村 7名
 高山村 5名 
 岩島  1名
 世話係 富沢碧山

 萩原進撰文 木檜宇志雄書  斎木政市刻   (つづく)