「おろかもの之碑」について詳しいことを知りたいと思って中之条町の教育委員会を訪ねたところ、歴史民俗資料館の館長さんを紹介してくれました。
町中の丘の上に建つ資料館は明治初期の洋風の学校建築物として文化財に指定されている旧吾妻第三小学校の校舎です。一角に見慣れた若山牧水の像があったので早速記念撮影。暮坂峠にある牧水像をブロンズ製に作り替えたとき、もとのコンクリート製のをここに移したのだということです。僕は牧水の歌のファン。
人過ぐと 生徒らは皆走り寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の
われもまた かかりき村の学校に この子らのごと 通る人見き
これは暮坂峠を下って沢渡に向かう途中の大岩小学校跡にある歌碑に刻まれた歌です。かなり昔、この歌碑に出会って、自分にも記憶があるような風景を想像して懐かしんだことを思い出します。。
『若山牧水歌碑インデックス』という本があります。孫の婿・榎本尚美さんの著作で、日本中にある牧水の歌碑を紹介しています。(脱線)
学芸員の福田義治さんが応対してくれました。といっても是という資料はなく、西毛新聞社発行の『吾妻郡碑文集』という本に先ほど見てきたばかりの碑文と写真が出ているだけでした。世話係の富沢という人が西毛(群馬県のの西部地方のこと。昔、栃木群馬あたりを毛の国といった)新聞をやっていた人らしいことのほかはわからない。ただこの本の最後に(註)があり、次のように書かれています。
この碑ははじめあづま会員八十二人の浄財で、昭和三十六年十二月八日、中之条町大國魂神社境内に建設されたが、遺族会からの異議が出て、翌昭和三十七年八月、現在地の林昌寺境内に移転した。
碑文に名を連ねて居る方々はこの地方の町村長を始め要職をつとめた人々です。碑文を書いた木暮武太夫という人は伊香保出身の自民党の政治家で、この碑を建てる直前には、池田内閣の運輸大臣(1960・12・8~61・7・18)をやっています。大政翼賛会などに関わり追放になった体験を持っています。
木暮武太夫@wikipedia
昭和36年(1961)というのは60年安保闘争の直後のことで、僕が大学に入った年です。保守系とおもわれる地域のリーダーたちがどのような思いで、この碑を建てたのか、碑文以外に詳しいことはわかりませんが、他に例を見ないことです。移設を求めた人たちも「遺族会」とあるから保守系の人たちと思えますがどういう理由で反対したのだろう。今の靖国論争のようなことであったのか。
林昌寺には『万国戦没者慰霊碑』という敗戦直後、個人が建てためずらしい慰霊碑があります。<万国>にどういう思いを込めたのか。ともあれ、この寺のお坊さんはそんなにもめるのならウチで引き取るよという心の持ち主であったのでしょうか。
唐沢定市館長が帰ってこられました。僕よりは10歳くらい先輩で、事情に詳しいかといろいろ伺ってみましたが、ご自分よりだいぶ上の年頃の人たちのことでわからないと言うことです。
僕は満蒙開拓団の送出に関わった人たちの反省の気持ちがこの碑を生み出したという趣旨のレポートを読んだことがあります。この点からも館長さんに聞いてみたのですが開拓団関係のことも詳しくはわからないと言うことでした。福田さんが『中之条町史』と『長野原町史』の開拓団に関わるところをコピーしてくれました。北軽井沢に慰霊碑や記念碑があることがわかります。
正直言ってすこしがっかりしています。「おろかもの之碑」というのは近代史の貴重な資料です。中之条だけではなくこの地方の歴史研究に多少でも関わりがある人たちが研究対象としていないとしたらその責任や良心が問われることではないでしょうか。学校教育でも近代史の資料として活用されるべきです。碑を巡っての45年前の対立がそれを妨げているのでしょうか。
おじいさんやひじいさんがどんな思いでこの碑を建てたか、中学生や高校生ならまだまだ調べられるはずです。歴史的評価はしばらく置き、碑に刻まれている人々一人一人の人生を研究することを通して、生きた資料をこの立派な資料館に展示してほしいものです。
町中の丘の上に建つ資料館は明治初期の洋風の学校建築物として文化財に指定されている旧吾妻第三小学校の校舎です。一角に見慣れた若山牧水の像があったので早速記念撮影。暮坂峠にある牧水像をブロンズ製に作り替えたとき、もとのコンクリート製のをここに移したのだということです。僕は牧水の歌のファン。
人過ぐと 生徒らは皆走り寄りて 垣よりぞ見る 学校の庭の
われもまた かかりき村の学校に この子らのごと 通る人見き
これは暮坂峠を下って沢渡に向かう途中の大岩小学校跡にある歌碑に刻まれた歌です。かなり昔、この歌碑に出会って、自分にも記憶があるような風景を想像して懐かしんだことを思い出します。。
『若山牧水歌碑インデックス』という本があります。孫の婿・榎本尚美さんの著作で、日本中にある牧水の歌碑を紹介しています。(脱線)
学芸員の福田義治さんが応対してくれました。といっても是という資料はなく、西毛新聞社発行の『吾妻郡碑文集』という本に先ほど見てきたばかりの碑文と写真が出ているだけでした。世話係の富沢という人が西毛(群馬県のの西部地方のこと。昔、栃木群馬あたりを毛の国といった)新聞をやっていた人らしいことのほかはわからない。ただこの本の最後に(註)があり、次のように書かれています。
この碑ははじめあづま会員八十二人の浄財で、昭和三十六年十二月八日、中之条町大國魂神社境内に建設されたが、遺族会からの異議が出て、翌昭和三十七年八月、現在地の林昌寺境内に移転した。
碑文に名を連ねて居る方々はこの地方の町村長を始め要職をつとめた人々です。碑文を書いた木暮武太夫という人は伊香保出身の自民党の政治家で、この碑を建てる直前には、池田内閣の運輸大臣(1960・12・8~61・7・18)をやっています。大政翼賛会などに関わり追放になった体験を持っています。
木暮武太夫@wikipedia
昭和36年(1961)というのは60年安保闘争の直後のことで、僕が大学に入った年です。保守系とおもわれる地域のリーダーたちがどのような思いで、この碑を建てたのか、碑文以外に詳しいことはわかりませんが、他に例を見ないことです。移設を求めた人たちも「遺族会」とあるから保守系の人たちと思えますがどういう理由で反対したのだろう。今の靖国論争のようなことであったのか。
林昌寺には『万国戦没者慰霊碑』という敗戦直後、個人が建てためずらしい慰霊碑があります。<万国>にどういう思いを込めたのか。ともあれ、この寺のお坊さんはそんなにもめるのならウチで引き取るよという心の持ち主であったのでしょうか。
唐沢定市館長が帰ってこられました。僕よりは10歳くらい先輩で、事情に詳しいかといろいろ伺ってみましたが、ご自分よりだいぶ上の年頃の人たちのことでわからないと言うことです。
僕は満蒙開拓団の送出に関わった人たちの反省の気持ちがこの碑を生み出したという趣旨のレポートを読んだことがあります。この点からも館長さんに聞いてみたのですが開拓団関係のことも詳しくはわからないと言うことでした。福田さんが『中之条町史』と『長野原町史』の開拓団に関わるところをコピーしてくれました。北軽井沢に慰霊碑や記念碑があることがわかります。
正直言ってすこしがっかりしています。「おろかもの之碑」というのは近代史の貴重な資料です。中之条だけではなくこの地方の歴史研究に多少でも関わりがある人たちが研究対象としていないとしたらその責任や良心が問われることではないでしょうか。学校教育でも近代史の資料として活用されるべきです。碑を巡っての45年前の対立がそれを妨げているのでしょうか。
おじいさんやひじいさんがどんな思いでこの碑を建てたか、中学生や高校生ならまだまだ調べられるはずです。歴史的評価はしばらく置き、碑に刻まれている人々一人一人の人生を研究することを通して、生きた資料をこの立派な資料館に展示してほしいものです。