川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

旧友

2009-01-13 15:28:39 | 友人たち
 12日(月)
 午前中にKさんからメールを受け取りました。愛知県の出身ですが兵庫県明石市に住み「兵庫在日朝鮮人教育を考える会」の一員として、多文化共生を目指す教育の創造に全力を尽くしてこられた方です。かつて川越にも来てくれたことがあります。


 ひさしぶりの近況報告、ありがとうございます。どうされているかな、と時々思い出しています。
 しかし、毎年のその年の記録・動きには感心します。ようまああっちこっち、あ
れこれ、と。
 さて、ぼくは、この間の12月31日に母を亡くし、12月1ヶ月はほとんど病院詰め、泊り込みでした。
 
 05年夏、(略)母が緊急入院、すぐ来い、とのこと。こりゃあかんかな、と米原、大垣、名古屋の車中、よからぬことも考えて段取りを頭の中で。

 命は助かりましたが、以来3年4ヶ月、自宅ベット上か病院。

 その間、頻繁に往復する暮らしをしていました。1人暮らしでしたから、身の回
り、洗濯レベルの世話もありましたから。

 12月に又入院し、病室ベット脇のリクライニングの椅子で寝泊りする日々を送っ
ていました。
 ぼくは、病院での付き添いで、ベット下の寝泊りは5回目でしたが、ところがこれがよう寝られる。過去は、ベット下にゴザ引き、その上に布団を敷いて潜り込むというものでしたが、今回は長椅子。倒して足投げ出し、毛布を被り、今までと違った眠りで助かりました。と、しょうもないことを打っています。 
 
 31日に永眠、2日に葬儀。

 葬儀といっても、ぼく家族3人、弟家族3人の見送りです。

 今、とりあえず明石に戻り、メールを開け、遅い返信をしています。と、こんな訳です。

 もうしばらく明石、愛知を 往復します。しかし、愛知に通うこともなくなりますから、川越に行きたいものです。
新聞、雑誌で、結構よく「川越」が出てきて、啓介さんを思い出しています。
 又。

 
 愛知県に一人住むお母さんの介護、看護に明石から通い続けておられることはぼくも知っていました。自分にはとても出来ないことですからただただ頭が下がります。病院のお母さんのそばで一ヶ月泊まり込んだというのを読むとぼくにはほとんど想像も出来ないことです。人生の最後に愛する息子の世話を受け続けてお母さんはさぞ、安らかに逝くことができたでしょう。
 このブログにときどきコメントをいれてくれるmatumotoさんといい、Kさんといい、こういうことが自然にできる人のような気がします。父や母に対する尊敬や感謝の気持ち・優しさが身に付いているのです。

 Kさんはぼくよりは少し年下ですが尊敬する大切な友人です。生徒を愛し、差別や偏見と闘う熱意はただものではありません。しかし、ぼくが彼に親しみと敬意を感じるのはそれだけではないと思います。誰もがみなぼちぼちの人間であることを認め、どこにでも出かけ、率直に語りかけ、時には説得しようとします。嘘や駆け引きの匂いがありません。
 こんな人を生み育ててくれた方はどういう人生を歩まれたのでしょう。一度もお目にかかることはなかったのですが心から魂の安かれと祈ります。 合掌。
 
 落ち着いたら川越に遊びに来てください。ゆっくり過ごし、疲れを癒すことにはぼくも妻も協力することが出来ます。


 夕方、5時半頃に11人の友人たちが我が家を訪ねてくれました。在日コリアンの友人であるOさんがかつて「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」の世話人としてぼくと一緒に活動した方々に声をかけて来てくれたのです。お連れ合いのBさん、友人のCさんも一緒です。旧世話人はKさん、Sさん、Iさん、Ohさん、Aさん、Koさん、Tさん、それにカツヨシさん。
 皆さんにお会いするのは昨年4月に「考える会・終結パーティ」以来ですが、こうやって世話人がそろってゆっくり交流するのは何年もなかったことです。
 何が原因か当事者のぼくにもはっきりしたことはわかりません。北朝鮮の独裁政権が日本人拉致を認めてからの事態への対処をめぐって、或いは在日コリアンの国籍取得特例法制定運動について意見の相違があり、それが十分交流されないまま時が流れていったのではないかと勝手に思っています。はっきりと対立したり、喧嘩したりしたわけではありません。
 旧友が遠い川越まで訪ねてくれるのですからほんとうにありがたく、嬉しいことです。妻は前日から料理の準備。ぼくは川越公園を散歩したあと昼寝して体調を整えました。
 仕事を終えた娘も帰ってきて集うもの14名、近況を交流しながら楽しいときが過ぎていきます。どなたかが今は北海道に住むNさんや、参加できなかったHさんに電話して結局16人が再会を喜び合いました。
 OさんとBさんがこの会との出会いがなければ今の自分はなかったといい、今日の集いを心から喜んでいると満面の笑みで語りました。思えば「考える会」がピンチになったときOさんはたびたびこうやって時の氏神になってくれました。
 今春にはAさんとHさんが退職を迎えます。そのお祝いの会が次の集まりに決まりました。
 何かを語れと促されたので水俣で出会った緒方正人さんの思想にかかわって一言述べさせて貰いました。自分でも良くは消化していないので何を喋ったのか気がかりです。
 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20081221

 学校の現場で奮闘する友人たちにとって今はとくに厳しいときではないかと思います。教員だけでなく様々なひとびとと交流し、学びを深め英気を養う場が必要です。Oさんが心を砕いてくださって、私たちの交流が再開したわけですがそのような場の一つになればぼくにとっても嬉しいことです。気に掛かっていたことの一つが解決に向かうような思いもします。皆さん、どうもありがとう。
 
 明日早くから働く方もおられます。9時前にはお開きとなりました。
 ぼくの目がさえてきたので我が家の3人で今夜の旧友との再会や水俣で出会ったひとびとのことについて遅くまで語り合いました。