川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

柳子さんの転居の日近し

2011-11-01 06:01:50 | 父・家族・自分

10月31日(月)快晴

 近所に住む妻の母が近く引っ越すことになりました。川越の西隣りにある日高市に住む妻の弟夫婦の家に同居することになったのです。

 引越しの日が11月5日と決まったので31日がヘルパーのKさんが来てくれる最終日になりました。昼前に訪ねるとケアーマネージャーのAさんも来てくれていて妻を含めた女性4人があれこれと最後の打ち合わせをしているところでした。

 Aさんの勤めるデイケアーセンターでは3日(祝)に義母のお別れパーティーをやってくれるそうです。

 別れは時々あるけれど今回のように明るく別れられるのは珍しいとのことです。義母は12月に93才になるのですが格別に病気というものも無く、引っ越し先も一人息子の家です。さっぱりした性格で愚痴をこぼすようなことはほとんどない人です。

 Kさんは最後の仕事の日に柿をたくさん持ってきてくれました。自宅の庭になるものだといって柿好きの僕のためにも毎年届けてくれるのです。その割にはきちんとお礼を言うこともなかったなあ。(今日お会いできてよかった)。

   

 お二人が仕事を終えて帰ったあと娘と4人で、急遽、昼食会ということにしました。「ガッテン寿司」。5日までに娘の休日は今日以外にはないのに気づいたのです。

  食事の合間に娘と共に久しぶりに義母宅にあった古いアルバムをめくりました。義母の若いときのアルバムと我が家の娘と息子の小さいときのアルバム。後者は義父の編集であちこちに書き込みがあります。

 義母の名は岡村柳子(りゅうこ・旧姓・中村)。1918年(大正7年)12月1日、日本橋生まれ。関東大震災(1923年)で吉祥寺(武蔵野市)に転居。

 1940年、岡村吉太郎と結婚後は和泉多摩川住まい。夫の中国出張で神田の岡村の実家に住み家族の世話に明け暮れる。夫の帰国後は早稲田奉仕園(スコットホール)に住む。

 1945年、長女・倫子出産(慶応病院)。スコットホールが米軍に接収されたあとは空襲で焼け出された実家の人々が住む市川市東菅野の借家に同居。復員してきた夫の弟やその家族の世話のかたわら二人のこどもを育てる。

 1969年夫の退職後、千葉県白井町の工業団地の一角で寮母として働く。ここを退職後、千葉県野田市に住んでいたが1988年に娘の家族が住む川越に転居。

 94年11月22日吉太郎死去後は独り住まい。近隣の人々と歌や踊りの会に参加し慣れ親しんでいたが近年は引退し、デイケアーに世話になる。

 吉太郎は工場労働者(大日本塗料)だったが岡村雄輔の名で『宝石』などに推理小説を書き、戦後の失業時代に家族を支えた。  

   岡村雄輔●http://homepage1.nifty.com/kokubyaku/okamuray.htm

 若いときの写真を見るとびっくりするほどの美人である。背が低すぎてSKD(松竹歌劇団)には入れなかっただろうが女学校時代に身に付けた歌曲もうまい。戦中戦後、姑だけでなく夫の兄弟やその家族まで面倒を見てきたが苦労を感じさせない人である。川越に越してきてからもすぐに人々に馴染んだ。

 夫を看取って17年、娘の近くだとはいえ、独り住まいによく耐えたものです。僕は時々旅行を一緒にするだけでなんの役にも立たなかったなあ。妻が僕の両親や僕のために尽くしてくれたのはもちろん姉兄妹にも絶えず気を配ってくれるのはお母さんが元気で居てくれたおかげです。本当にありがたいことです。

 そういう感謝の気持ちはいつも持っているつもりですがきちんと伝えたことはないような気がします。今度ばかりはどこかで伝えなければならないなあ。