5月20日のきいちご移動教室は41人が参加しました。中国残留孤児4名とその家族のほか中国から来た人々が多いのが特徴です。今回は青海省から来た人、内モンゴルから来た人がいます。皆私たちの生徒であった人やその家族、友人です。韓国から来た人とその家族、コリア系の人々、そして僕のような在来型日本人。通訳になろうとして中国語に挑戦している娘さんが2人もいました。
前日の雨が大気をすっかりきれいにしてくれて本当に素晴らしい初夏の空。木々の緑も鮮やかです。Fさんが「夏は来ぬ」の歌唱指導をしてくれました。小さいときから朝鮮総連系の学校で育った人です。拉致問題や北朝鮮の人権問題を学ぶ中で出会った僕にとっては比較的あたらしい、そして若い友人です。日本の唱歌への理解も深く、指導力も優れています。今回はPさんもWさんも欠席なので唱歌の時間の心配をしていたのですが、帰りのカラオケ大会を含めて素晴らしいできでした。
関越道赤城インターでおりたあと利根川の右岸を北上し、岩本という駅のところで岩本発電所を遠望しました。第二次大戦末期、この発電所建設工事のため連行された中国人が過酷な労働のため、たくさん犠牲になったのです。
朝鮮新報 岩本発電所に関する記事
月夜野の如意寺に着きました。利根川の段丘の山裾に位置する曹洞宗の寺院です。驚いたことに住職さんが私たちを本堂にいれ、中国人殉難者の法要を営んでくれました。お経を上げ、参加者に焼香をさせてくれました。前夜、思いついて、慰霊碑を見学する際、卒塔婆を建てて供養できないかと住職さんに相談したのです。
イイですよといってくれたのですが、こんなきちんとした法要を営んでくれるとは考えてもいませんでした。考えない方がおかしいのです。卒塔婆を建てて供養するとはこういうことだったのです。形だけのまねごとを考えていた自分の浅はかさがまたもあらわれてしまいました。
住職さんは法要のあと、お話をしてくれました。先々代の住職は中国人殉難者の遺骸を引き取り法要を営んだのですがこれには当時の特別高等警察(特高)が良からぬことと干渉した。敵国の捕虜の死を弔うということは非国民的行為というわけです。当時の村人の証言によれば、住職は訪れた特高を寺域には入れず、外で話をつけ追い返していたそうです。また、寺の過去帳には中国人の名も村の人たちの名も同様に記されていると言います。このことを知った中国の人たちが住職を中国に招待したが何かの事情で行けなかったと言うこともあったそうです。先々代とは住職のおじいさんのことだと思われます。恥ずかしいのか、そうはおっしゃらなかったのですが、先々代を尊敬していると力を込めて話されました。
お話のあと、本尊(釈迦如来)をまつってある須弥壇(しゅみだん)の裏側に私たちを案内してくれました。中国人の遺骨を安置してあった所です。横長の板に墨書されています。
遺骨安置所 中国人 前中華民国 岩本発電工事就業中 殉難病没死者五十三体 外六霊 当時俘虜 昭和二十八年七月遺骨送還公約日 住職玉峯道仙是ヲ親書ス
何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ 現住十九世自記ノ所
遺骨送還が決まった日、住職はここに歴史の事実をはじめて書き留めたのであろうか。もうすぐふるさとへ帰ることができることを故人に伝え、その霊を供養する尊い姿が浮かび上がってきます。またこのことを後世に伝えようという19世住職の強い意志が感じられます。半世紀ののち是を読む私たちに歴史の事実を心に刻み、未来に生かせと教えています。遺骨を入れてあった木の箱が今も本尊の下に安置してあります。
住職さんの心遣いのおかげで本当にいい学びができました。参加者がどう受け止めたか、後日文集を作ってお届けすることを約してお礼を申し上げました。
裏山に建てられている慰霊碑を見学し、小学生のN君が卒塔婆を供えました。慰霊碑の裏には殉難した人々の名前が刻まれています。昭和28年(1953)7月といえば僕がこのN君と同じ小学校6年の時です。殉難者の遺骨は無事遺族の手に渡ったのでしょうか。今日なお、韓国への遺骨送還に心を砕いている友人のことを思い出します。
バスに乗って花の終わったリンゴ畑の中を高山高原牧場に向かいます。僕がたくさんの犠牲者が出た朝鮮人の慰霊碑はなぜないのか?とといかけました。高柳俊男教授が答えてくれました。どんなこたえだったとおもいますか?皆さんも考えてください。
高原牧場と群馬県立天文台の楽しい4時間については参加者に語ってもらいましょう。次回は10月の中旬の日曜日です。どなたもどうぞ楽しみにしてください。
(昨日の訪問者は73人でした。ありがとうございます。)
前日の雨が大気をすっかりきれいにしてくれて本当に素晴らしい初夏の空。木々の緑も鮮やかです。Fさんが「夏は来ぬ」の歌唱指導をしてくれました。小さいときから朝鮮総連系の学校で育った人です。拉致問題や北朝鮮の人権問題を学ぶ中で出会った僕にとっては比較的あたらしい、そして若い友人です。日本の唱歌への理解も深く、指導力も優れています。今回はPさんもWさんも欠席なので唱歌の時間の心配をしていたのですが、帰りのカラオケ大会を含めて素晴らしいできでした。
関越道赤城インターでおりたあと利根川の右岸を北上し、岩本という駅のところで岩本発電所を遠望しました。第二次大戦末期、この発電所建設工事のため連行された中国人が過酷な労働のため、たくさん犠牲になったのです。
朝鮮新報 岩本発電所に関する記事
月夜野の如意寺に着きました。利根川の段丘の山裾に位置する曹洞宗の寺院です。驚いたことに住職さんが私たちを本堂にいれ、中国人殉難者の法要を営んでくれました。お経を上げ、参加者に焼香をさせてくれました。前夜、思いついて、慰霊碑を見学する際、卒塔婆を建てて供養できないかと住職さんに相談したのです。
イイですよといってくれたのですが、こんなきちんとした法要を営んでくれるとは考えてもいませんでした。考えない方がおかしいのです。卒塔婆を建てて供養するとはこういうことだったのです。形だけのまねごとを考えていた自分の浅はかさがまたもあらわれてしまいました。
住職さんは法要のあと、お話をしてくれました。先々代の住職は中国人殉難者の遺骸を引き取り法要を営んだのですがこれには当時の特別高等警察(特高)が良からぬことと干渉した。敵国の捕虜の死を弔うということは非国民的行為というわけです。当時の村人の証言によれば、住職は訪れた特高を寺域には入れず、外で話をつけ追い返していたそうです。また、寺の過去帳には中国人の名も村の人たちの名も同様に記されていると言います。このことを知った中国の人たちが住職を中国に招待したが何かの事情で行けなかったと言うこともあったそうです。先々代とは住職のおじいさんのことだと思われます。恥ずかしいのか、そうはおっしゃらなかったのですが、先々代を尊敬していると力を込めて話されました。
お話のあと、本尊(釈迦如来)をまつってある須弥壇(しゅみだん)の裏側に私たちを案内してくれました。中国人の遺骨を安置してあった所です。横長の板に墨書されています。
遺骨安置所 中国人 前中華民国 岩本発電工事就業中 殉難病没死者五十三体 外六霊 当時俘虜 昭和二十八年七月遺骨送還公約日 住職玉峯道仙是ヲ親書ス
何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ 現住十九世自記ノ所
遺骨送還が決まった日、住職はここに歴史の事実をはじめて書き留めたのであろうか。もうすぐふるさとへ帰ることができることを故人に伝え、その霊を供養する尊い姿が浮かび上がってきます。またこのことを後世に伝えようという19世住職の強い意志が感じられます。半世紀ののち是を読む私たちに歴史の事実を心に刻み、未来に生かせと教えています。遺骨を入れてあった木の箱が今も本尊の下に安置してあります。
住職さんの心遣いのおかげで本当にいい学びができました。参加者がどう受け止めたか、後日文集を作ってお届けすることを約してお礼を申し上げました。
裏山に建てられている慰霊碑を見学し、小学生のN君が卒塔婆を供えました。慰霊碑の裏には殉難した人々の名前が刻まれています。昭和28年(1953)7月といえば僕がこのN君と同じ小学校6年の時です。殉難者の遺骨は無事遺族の手に渡ったのでしょうか。今日なお、韓国への遺骨送還に心を砕いている友人のことを思い出します。
バスに乗って花の終わったリンゴ畑の中を高山高原牧場に向かいます。僕がたくさんの犠牲者が出た朝鮮人の慰霊碑はなぜないのか?とといかけました。高柳俊男教授が答えてくれました。どんなこたえだったとおもいますか?皆さんも考えてください。
高原牧場と群馬県立天文台の楽しい4時間については参加者に語ってもらいましょう。次回は10月の中旬の日曜日です。どなたもどうぞ楽しみにしてください。
(昨日の訪問者は73人でした。ありがとうございます。)
先々代の住職のエピソードを語る口調にも少しの驕りも気負いも誇張も感じられず、淡々と控えめに自分の知り得たことを報告するという風情でした。それでも聴く者の胸には確実に二つの人格(先々代と当代、たぶん祖父と孫)が立ち上がってくるのでした。虐げられた人々に人間としての愛情を注ぎ、その供養の場さえ踏みにじろうとする権力を毅然として跳ね返す信念の人、その人の思いを深い尊敬の念と共に心に刻み、控えめに語り継ぐ誠実な人……しなやかに風の吹くままに揺られながら、芯はあくまで強く、根を深く伸ばして動じない、あの竹のように。