渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

撮る人を撮る人を撮る

2023年09月16日 | open


お約束。
5人位並んだ事もあった(笑


タコス

2023年09月16日 | open


A-YO!さんのタコス。
ベラボーにうまいだな、これは。




ヤードで昼めし

2023年09月16日 | open



岡山県笠岡道の駅ベイファーム
で人気のA-YO!さんがZ-YARD
出店。
こりゃあ、いい。


ヤードでメシが食えるなんて。
しかも、このホットサンドが
まためちゃくちゃうまい!


毎週出してくれないかな(笑
あす、明後日もやるらしい。
近所のおばちゃんと可愛い女子
高生まで食べに来ていた。
うまいタコス&ホットサンドを
食いたい二輪乗りたちは、この
三連休は岡山笠岡のモトカフェ 
Z-YARDにGO! だぜ!
キッチンカーは夕方4時まで。
ドリンクはヤードでね♪

神戸で阪神優勝パレード

2023年09月16日 | open









1988年 富士スーパースプリントレース

2023年09月16日 | open

Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 1-3

Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 2-3

Kevin Schwantz Invasion 1988 fuji speedway in Japan 3-3

1988年の富士スピードウェイ
スーパースプリントレース。
翌年1989年に日本で初開催の
世界グランプリの前哨戦として
世界グランプリライダーが集結
して戦われた。
これが1988年時の地球上の
トップライダーたちだ。
最高峰500ccのワークスマシン

は1台あたり開発費も含めると
5億円程した。
250でも1台3億円を超えた。
現代のレースは市販車改造の
延長線上にあるようなレースで、
1980年代の四輪F1のような競技
専用車でのレースではなくなっ
ている。
ワークスマシンの開発にはメー
カーは湯水のように資金を投入
した。
それは、とりもなおさず、工業
力の発展と、メーカー市販車の
販売台数増加に直結していた
からだった。
現代は様々な制約が競技規則に

設けられ、まるでエコカーレー
スのようになってしまった。
戦闘力の高い技術の粋が投入

された最新鋭のマシンで文字
通りの技術と技法の最先端、
最頂点を目指すレースではなく、
エンジンの耐久性やタイヤの
同一指定など、非常に発展力を
阻害するファクターが現代では
桎梏としてかけられるように
なった。
そして、世界最頂点を40年間
保った日本のメーカーは、それ
らを払拭しようとコンピュータ
データ頼り一辺倒となり、人間
不在の車作りにシフトした。
あるべき道を大きく踏み外した。
その結果、今や日本メーカーは
揃って世界最底辺の最後尾を走る
事しかできない二輪車しか作れ
なくなった。

この1988年の映像は、世界最高

峰の二輪レースで、世界最頂点を
めざすには日本製オートバイで
なければ勝てなかったという、
世界の
二輪史の中での輝ける
日本二輪
黄金時代のその最高
頂上時代の
レースの映像である。
こうした日本製二輪が突き抜け
ていたシーンが地球上で約40年
間程
続いた。
太陽系の中で、日本の二輪が
ダントツ性能だった時代だ。



この時の500GPマシンは富士
スピードウェイ直線終わり前
でこの速度。約280km/h。
実際はブレーキ直前位置での
計測ならばもっと出ているだ
ろう。


純ロードレーサーには速度計
付いていないのでスピード
ガンでの測定になる。
250ccで大体このコースでは
260km/h台だ。

125ccでもGPマシンならば
240km/hを超える。

GPマシンは性能では50ccでも
180km/h
を超えていた。
海外の直線がもっと長いスピ
ードコースではさらに最高速
が出る。500ccなどは300km/h
はゆうに超
えていた。
サーキットはそれらの260km/h
前後が「高速域」であり、180~
160km/hは「中速域」、100km/h
は「低速域」で、ヘアピンなど
の80~70km/h域は「超低速」
という区分けになる。

制限速度が設けられている公道
とは速度域がまるで異なる。

つまり、公道でも最高速制限の
ないドイツのアウトバーンでの
一般車両の巡航速度160km/hは
競技コースでは「中速域」に
あたる。

一番多い120km/h巡行は「低速
域」であり、アウトバーンでは
安全走行速度域となる。
日本では公道の最高速制限は
120km/hだが、それは巡行安全
確保速度であるともいえる。
なお、高速警察隊のPCに私は
ある交通案件の被害者として
同乗したことがあるが、高速
道路でごく普通にその高速隊
PCは170km/hで走行していた。
同乗していた所轄警官は体験
する生まれて初めての速度だっ
たようで、かなりビビっていた。
相当に。
たぶん、仮に希望しても交通
機動隊には配置転換はされな
いだろう。
速度に目と感性(心)が追い
付かないのは、たとえ訓練し
ても克服は不能だからだ。


1988 Fuji Super sprint 250cc 本間利彦 コシンスキー

2023年09月16日 | open

1988 Fuji Super sprint 250cc
本間利彦 コシンスキー 1-2



本間ちゃん。


日本で歴史上一番速いのは
本間利彦だったと私は思う。
あと、オートバイの事を一番
知っていたのも。
一番というのは語弊があるかな。
シャケさんとかユーゾーさん
とか他にも多くいたから。

ただ、本間氏は、そうした
「理解しきった人間」たちが
多くいた時代の象徴的な人物
であることは疑う余地がない。
現代は目に鱗どころか、目隠
しキャップで目を塞いで、その
上からガムテープを
ぐるぐる
巻きに
しているような人たち
だらけ
になってしまった。
二輪界が。

この時の富士のレースで02を

着けていたWGPライダーの
ガリガは私は大好きだった。
パックマンをヘルメットに

描いていたのが彼のトレード
マークだった。
だが、彼はその後不幸な死に
方をした。





斬る

2023年09月16日 | open


斬る。
何を斬るのか。
それは、物体ではないんだよね。

「バイク女子」

2023年09月16日 | open



「バイク女子」という単語は
ごく最近ここ数年で登場して
一般化した。(創作された単語
である)

それまでは存在しない。
さらに大昔は「女性ライダー」と

か呼ばれていた。

女性でオートバイに乗る人は
1960年代~1970年代には極め
て日本では少なかった。
1969年に東京12チャンネルの
傑作アニメ『ルパン三世』で
峰不二子
がエンディングでバ
イク(たぶん
トライアンフ)
を駆るシーンは
印象的だった。
あえてあの絵柄にしたのは、
当時オートバイに乗る女性が
極端に少なかったので際立た
せるためだろう。

1980年代に入り、日本国内は
空前絶後のバイクブームとなっ
た。
それらの下地は、1976年にホンダ
とヤマハが新たなマーケットと
して主婦層を狙って50cc原付
バイクを大々的に販売した事に
歴史的な布石があった。
女性の獲得。それが二輪界での

新たな市場獲得目標だったのだ。
ホンダvsヤマハの二輪戦争は
1970年代中期の原付買い物用
バイク発売によって序章
が開始
され、やがて二輪が一般
的にも
普及してきた1980年代に
入り
スポーツであるレースの
世界
でもHY戦争が熾烈化した。

二輪免許制度は1975年に激変
され、
警察当局は「国民を二輪
乗らせない」方向に舵を切った
が、国産メーカーは新制度枠の
自動二輪中型限定枠の市場に
対して徹底的に新型車種を投入
してマーケットを活性化させた。
同時に原付に目をつけ、これも

主婦層をターゲットにして徹底
的な販売攻勢で時局を乗り切ろ
うとした。
道交法も1978年に大改編され
さらに立て続けに80年代に規制
法改正が連発したが、国民の
輪熱はなおさら熱くなるばかり

だった。

1980年代のバイクブームの特徴
として、多くの女性たちが二輪
に乗り始めた国内現象があった。
それはアイドル歌手や女優たち
までもが二輪に乗るようになって
いた現実の現象が沸き起こった。
二輪に乗る女性が珍しかった頃
は「女性ライダー」と呼ばれて
いたが、80年代にはもはや女性
も男性もない。

性別など関係なく「バイクに乗る
人か、そうでないか」でしかない
世の中になっていた。
私はこれはとても健全な傾向だ
思った。女性を特別視しない。
性別など関係なく、やる事の
ジャンルでしか区分けしないと
いう見方が世間で一般的になり
つつあったからだ。
それが1980年代だった。
何もバイクに乗る女性は特別な
奇異な目で見られる存在では
なくなって来ていたからだ。

だが、やがて二輪の冬の時代が
来る。
女性も男性も加齢により段々と
生活様式が変化し、二輪を降り
る人が増えた。
また、日本のバブル経済の破綻
がそうした暗黒時代の前兆とし
てあり、その後続く「失われた
20年」によって、国民は閉塞感
を日常とする世相となった。

ところが、インターネットが
2000年代から普及し、一般化
した2006年あたりから少しずつ
日本の二輪環境も変わって来た。
そして2015年頃に「プチバイク
ブーム」が訪れる。
再び二輪に乗る人が増え、その
中では新たに若い世代の女性
たちも乗り出した。

そこで登場した新語が「バイク
女子」だった。「女子会」と
いう言葉が流行りだしたあたり
からだろう。
今では一般女性だけでなく、女優
さんやAV女優さんやタレント、
芸人、スポーツ選手、女子アナ
たちの女性でも二輪に乗る人は
多くなった。

でも私個人はとても違和感がある。
「バイク女子」という表現の視座
に。
バイク好きな人がたまたま女性で
あっただけなのに、なぜ女性を
特別視するような呼称が特異性
を以てもてはやされるように
言われるのかと。

真のバイク全盛期の1980年代は
もっとスケールが大きく、誰でも
二輪に親しんだ時代だったので、
二輪に乗る女性が別段特別視され
る事は無かった。
そして、それこそが、性別を超え
た感覚の健全性を持っていたと
私は感じている。

「姫ライダー」などという愚に
もつかぬ現代はびこるスカは
1980年代には男からも女からも
全否定された。
二輪乗りは性別関係なく独立自尊
の精神性を持っていたからだ。
自分で走り、倒れたら自分で起こ
す。たとえ原付だろうと大型だろ
うと。もちろん、横にいたら手
助けはするが、まず自分でやる。
やってみる努力をした。女性も
男性も。

そうした風景が当たり前だった
1980年代のそのような二輪世相
というのは、私は至極まともだ
ったと今でも確信している。

女性は男性に比べると体力的に
不利な面も多くある。
だが、それらを乗り越えて同地
平で生きようとする。
そうした姿が素晴らしいのであ
って、特別視されたりしたり
して持ち上げる存在ではないの
では、と私は思うのだ。
私などは、会話していて相手が
たまたま女性で二輪に乗る人
と知っても「あー。そうなんだぁ」
だけでしかない。「同好の士なん
だね」という程度。そこに性別
を絡めて来るのは人間がとても
さもしく感じる。
これは受動的な側だけでなく、
主体の側が特別視を要求する
場合においても。「女を売りに
するなよ、この馬鹿」とか正直
思う。
「バイクと関係ないじゃん」
と。

ゆえに「バイク女子」という表現
の背景にあるものがちらちら見え
るので、私はとてもいやらしい
意識性をそこに見るのだ。
「バイク人」ならまだ分かる。
しかし「バイク男子」という言葉
が存在しないのに女性対象のみ
存在させるのは、何かしらの意図
があるからだ。
しかも、それは男性たちによって
「創られた」意図が。
バイク好きなのに男女関係ないで
しょ?というのが本当の事なので
はないかなぁ。

そして、そうした「バイク女子」
という表現は、トランスジェン
ダーの人
たちの存在をも無視す
る方向性
を持っている。
「りけじょ」や
「刀剣女子」が
流行ったのも
同じ社会的意識性
の背景を持って
いる。
本来は性別等は一切関係ないの
に、そこに性別を噛ます事で
特別視しようとする。
だが、その源流は日本の男社会
の女性差別に根底の底流が存在
したのだ。
「女流~」という表現と特別視
のやり方がそれだ。

「バイク女子」という表現。
な~んにも考えず、多くの人が
抵抗なく使っているのが今の
世相だが、私は非常に言い知れ
ない違和感がある。
それ、本物じゃないでしょ?と
いうような。
ホントのバイク好きがそうした
表現を無頓着に使っているとし
たら、あまりにも本当のバイク
の普及と楽しみの広がりとは
乖離しすぎている。
つまり、それ、本物ではない。
本物に近かった1980年代の
二輪世相をタイムリーに経験
して来ただけに、そうした事が
見えて来る。



 

世界グランプリ 1990 USA

2023年09月16日 | open

1990 USA ラグナ・セカ GP500 レイニー シュワンツ

すごく懐かしい。
世界選手権であるWGPは1983年
1993年あたりが一番面白かった。
レース総体だけでなく、各コー

ナー、各S字、各直線、全てが
記憶に鮮明に残るような名場面
ばかりだった。
名勝負が常に繰り広げられたのが
1980年代、1990年代初期の世界
グランプリだ。
当然、地球規模で全世界がロード
レースに沸いた。
スプリントレースだけでなく、

世界耐久選手権である鈴鹿8時間
耐久にも観客は18万人が詰めか
けた。
本当に世界中がロードレースに
熱い時代だった。
1980年代、職場の40過ぎの事務

のおばちゃんが『バリバリ伝説』
を食い入るように読んでいた。
バイクになど乗らない人だ。
「これとても面白いから読んでる」
と言っていた。
そういう時代だった。