新婚家庭の友人と我が家の庭
でお昼にレモン狩りをした。
「楽しいな~」と言ってた。
ドンガバチョともいだ。
どっさり土産で喜んで帰って
行った。めでたし、めでたし。
庭先レモン、ことしは大豊作
だ。
多く成る年は隔年なんだよなぁ(笑
【再アップversion】
TZ350は実質的に片山敬済
スペシャルだった!
その後まともに乗りこなせた
レーサーは存在しない!
乗りこなせたレーシングライ
ダーはいないというのは言い
過ぎのような気もするが、世
界グランプリ1977年のTZ350
片山マシンが片山スペシャル
だったのは確かだ。
メンテとセットアップはメカ
ニックがやっていたが、セッ
ティングとエンジンいじりの
加工と調整は片山敬済さんが
自らがやっていた。
エンジニアチューナーとして
2ストいじりは実は片山さん
は世界一の人だった。
これは自称ではなく森脇さん
の評でもある。
勿論自負もある。
「僕が世界一2ストエンジンの
事を知っていた」(本人談)
原付バイクしか通れない道!
モンキーで1泊2日しまなみ
海道往復150kmの旅 前編
しまなみ原付海道、最高
なんだぜ!
こつぶちゃんが最新動画
でしまなみ原付海道をレ
ポートしてくれている。
見応えのある動画。
こつぶちゃんの動画は、た
だどこどこ行って飯食った
というだけでなく、地元の
歴史や社会史などもきちん
と解説説明する。
そうした知的かつ文化的な
活動がとても私は好感持て
る。貴重。
「旅人」の健全な姿をそこ
に見る。
しまなみ原付海道最高!
いや、ほんとに。
この日本で唯一の原付専用
のロードルートが家からす
ぐの所にあるというのは、
地理的に超ラッキーだと感
じてます。
よろしかったら、こちらも
どうぞ。
研磨前
スクーターのプーリーを研磨す
る。
ペーパーで磨くのではなく、磨
き棒でくまなく軽くなでて金属
表面を潰し均す感じ。
日本刀の棟と鎬地をタンガロイ
の棒で磨き潰して、均し光らさ
せる技法の転用だ。
ただ、これは刃物研究家、日本
刀探究者としての金属に関する
知見の援用であり、バイクの専
門的領域からのアプローチでは
ない事は断っておきたい。
知見とは双方の分野の見識が高
度な領域に達して初めて相互互
換性を見出す見識が共有化され
る。
私はオートバイの専門カスタム
やチューンについては日本刀探
究領域程のレベルを有してはい
ない。
なのであくまで、金属表面の扱
いとしての日本刀探究者の特定
領域からの知見を援用している
までだ。
磨き均し部分。指先で触診して
も未研磨部分との差は歴然。
つるつるだ。
「そこはつるんとしていた」と
いう所にこれが入る。
最初から入れたら効果が判らな
いので、最初は筒型ウエイトロ
ーラーを入れて、その後このウ
エイトに交換して違いを把握す
る。
ドクタープーリーとKN規格
筒状ウエイトローラーの違い。
私は電動ガンのメカボックス
のオーバーホール&分解整備
には、駆動部分により4種類の
グリスを使い分ける。
ここでも、その電動ガン機関
部用の耐熱性と潤滑性の高い
種のグリスを綿棒でまんべん
なく極めて薄く塗布して使う。
通常公道使用は、多少メリハ
リ強めの走行をしようとも、
レースではないので200km程
の走行分解点検整備で大丈夫
だろう。
走りながら都度駆動部を開け
てみないと判らないが。
基本的には物理的にグリスは
必要ないとも思える。
原チャでGO!仲間の三原城町
の女の子が買ったバイクを隣
り町の尾道市街地までトラン
ポで取りに行ってあげた。
バイクを私の家で下してから、
敷地内で試走。
爆速マシンだ。
0発進のパンチも殊の外鋭く、
かつての私の2ストビーノの
ように簡単にフワッとウイリ
ーする。
尾道のカスタムレーシングシ
ョップで購入した中古車原付
だが、程度良し。エンジンは
ド快調。「絶好調」との謳い
文句通りだ。
前後ブレーキワイヤーが古い
ので、それは私が新品パーツ
に交換してあげる。
女の子は自分で役所に行って
名義変更とナンバーを取って
自賠責加入手続きをする。
書類は昨夜のうちに渡した。
バイクを積んだトランポを店
の横につけて、ノンアルのレ
モンソーダを飲みながら(笑
外の車とバイクを見ながらカ
ウンターで歓談。
いいぜ、そういうのは。
昼間だったら、バイクをずらっ
と店の前に停めて、それ見な
がらお話って寸法ね。
ゆんべの月の出。
やたらでけえ。
いや、月の大きさは変わらない
のだけどさ(笑
だが、毎年月は地球から3.8cm
ずつ離れて行ってる。
ということは、10年前は今よ
り38cm地球に近く、100年前
は3.8メートル近く、平安時代
の1000年前には38メートルも
地球に近い事になる。
こいつはでけえぜ。
珍×珍旧車・永久保存版です。
1968年式消防車。
作ったのどこかなぁ。
モリタかな。
こうした特装車は業界では
特種(とくだね)と呼ぶ。
最高だぜ!
昔のミニカーにありそうで
かわいい。
今は昔。昭和の終わりの少し
前。
窓の外にオートバイのエンジン
の音がした。
エンジンを切ってしばらくした
ら、私の部屋のドアをノックす
る音がする。
フーイズイット?とは言わずに
ドアを開けたら知り合いの飲み
屋の女の子が「へっへっへ」と
笑って立っている。バイト先別
店舗の女の子だった。
「あ、久しぶり。どうしたの?」
と訊くと、外出て見てくれと言
う。
なんだろうと思って出て見たら、
ピカピカのヤマハのバイクがあ
る。
なんだろ?先輩か彼氏にでも乗
っけて来てもらったのかな、と
思って尋ねる。
「どしたの?これ?」と。
すると、「へっへっへ」とまた
漫画のような笑い方をする。
「もしかして・・・?」と言う
と「買っちゃった!」と言って
顔をくしゃくしゃにして笑う。
「お~!やったじゃん。てか免
許は?」
と言うと、いつの間にか自動二
輪免許を取ったのらしい。ほえ
~。知らなかった。
「すげ~。やるなあ。乗らせて
よ」と、すぐに部屋に戻ってヘ
ルメットを取って来て、乗らせ
てもらって近所を一周して来た。
RZ350とはかなり特性が異なる
ので、ふ~むと思った記憶が強
い。
RZのようにナチュラルハンドリ
ングではなく、寝かせると前輪
がイン側に切れ込むような癖が
あった。新車でそうだった。
その後のヤマハ4ストモデルで
は試乗してもそのようなことは
無かったので、過渡期のモデル
であるのか、もしくは新車出荷
段階でのセッティングの問題な
のか。理由は不明だが、私が乗
った新車の個体は、中低速でイ
ンに前輪が切れ込む挙動がある
ことだけは確かだった。
その人がバイクに乗っているの
はその時見た限りだが、80年代
前半はバイクブームだったから
か、女性でもポンポコと二輪免
許を取ってオートバイに乗り始
めていた。
1970年代の私が高校の頃は、自
動二輪に乗る女性は極端に少な
かったので、1980年代は初頭か
らいかに一気にバイクブームと
いうものが訪れたということか、
なのだ。
芸能人の女性などでもバイクに
乗る人が結構登場し初めていた。
その数年後にはおニャン子でさ
え乗っていた(笑
鈴鹿8耐などは、観客が18万人
位いた。
トイレに行くのに2時間以上か
かったりもした。サーキットの
場内がまるで明治神宮の初詣状
態だったからだ。
それほど、1980年代のバイク
ブームは空前絶後だったので
ある。
80年代前期の学生時代にも、い
つの間にか二輪免許を取ってバ
イクに乗り初めていた女子学生
たちも多くいた。
そのバイクブームは90年代中期
あたりまで続き、社会人になっ
てからも、私の職場の弁護士秘
書の女性でも数えただけでも3人
以上がバイク女子になっていた。
ミニバイク含めると現在の10倍
以上の数のバイクが売れていた
のだから、どれほどのバイクブ
ームだったか想像がつくだろう。
いや、想像もできない、という
ものか。
バイクに乗って走る人生と乗ら
ない、走らない人生では、まる
で別物。
スッパリと竹を割ったようなス
プリット状態。真っ二つ。
まあ、モーターサイクルは人の
人生を豊かにするよ。
私が2スト原付スクーターに
求めるのは発進時のパン!と
出るパンチ力と加速力。
特に発進時にはスロットルを
ワイドに開けるとフワッとウ
イリーする程のパンチ力が欲
しい。
かつての私のビーノが吹け上
がりのツキの良さとウエイト
のバランスで発進が超速ウイ
リーパンチマシンだったよう
に(笑
やはりウイリーパンチがいい。
(「ピンク!パンチ!雅」は
大ファンだった)
スロットルを開けると前輪が
フワリと浮く。
こういうのがいい。
そして、国道巡行に必要な最
低限の最高速。
だが、スクーターのセッティ
ングはまるでレーサーのサス
セッティングのように複雑で
奥が深い。
あちらを立てればこちらが立
たず、という体に往々してな
りがちだ。
極めて面白いのだが、その奥
深さは底が見えない。
だが、それが面白い。
それこそが面白い。
パシッと決まるセッティング
を出す事を探り続ける。
私も車も生きている。
教育学部出身の人の筆による
レポート。
三原城の上に鉄道が敷設され
たのには大きな理由が二つあ
る。
それは明治新政府時代に「城
郭は野蛮な旧態の象徴である」
という明治のニワカ先進国気
性が一気に蔓延した事。
明治政府は廃仏毀釈や文化財
の破壊等、かなり乱暴な事を
していた。
一番酷かったのは、ニワカ西
欧かぶれゆえ、東京の地名を
すべて数字に変えた事だ。町
名さえ排して全て数字。
あまりにも非現実的で不便な
のですぐに廃止にされた。
明治初頭当時は議会も国会も
無く、すべて太政官布告とい
う上からの命令に法的効力を
持たせる中央集権制だった。
そして、法制史を学ぶと具に
見えて来るが、その布告は朝
令暮改で矛盾と錯綜に満ちて
いる。
旧体制時代の武士は明治ごく
初期の欺瞞的な新戸籍解放政
策により、士族になった。
日本人の階級を華族、士族、
平民の3つに分類(厳密には
その最頂点に皇族)した。
この階級制度は戦後の昭和23
年(1948)まで継続された。
皇室のみは日本の階級制度と
して現在も残っている。
生まれながらに社会的階級が
決められているという江戸期
よりも統制的な制度を明治新
政府は採用していた。
だが内実はニセモノの自由を
謳い、広島藩の士族は明治9
年に屋敷を召し上げられて処
払いされ、広島城勤務の元武
士の士族たちは北海道の屯田
兵のように寒い山の山頂に追
いやられた。
秩禄処分は全国に布告され、
元武士たち=公務員は突然無
職無収入にされた。
「自由の時代だから職を選ん
で働くのも勝手次第」という
欺瞞的な新自由主義を表看板
として。
明治政府が為した出鱈目は非
常に多く、人民の階級関係な
く国民を苦しめ抜いたが、そ
うした事は教科書には出てこ
ない。
美辞麗句のみが「勝った者」
たちの作る教科書には並ぶ。
士族たちが筆舌を尽くせない
苦労をした事だけは、あたか
も滑稽であるかのように「武
士の商法」として教科書には
描かれている。つぶしの利か
ない武士たちが始めた商売が
悉く失敗した例を挙げて。
だが、旧幕臣の娘たちが遊廓
に身売りしなければならなかっ
た事などは一切教科書には出
て来ない。ニセモノの文明開
化の表層的な近代化を描くば
かりだ。
三原城の上に鉄道を敷設した
第二の理由は、単純に物理的
に土地が無かったからだ。
三原要害は天然の軍港城郭と
して飛び抜けて優れた地勢に
あり、戦国末期では日本一の
軍事拠点だった。これは城郭
史からも軍事史からも疑う余
地はない。
三方を急峻な山に囲まれ、前
面に海を抱く。戦国末期の重
要な海軍である水軍を出撃さ
せるのに充分の地理的位置と
地形を有する場所に戦国最末
期に築城されたのが備後國三
原城だ。
毛利一門小早川隆景によって
築城された。
小早川が転封(てんぽう)の後
に築城名人元大工の武将福島
正則が関ヶ原以降安芸備後両
国の領主として入封(にゅうほ
う)したが、広島城無断改築の
嫌疑をかけられて改易となっ
た。
三原城を実質上完成させたの
は福島正則だった。
だが、記録を読むと、福島氏
は徹底的に安芸門徒=浄土真
宗を弾圧したので、領民たち
には受けがかなり悪かった。
しかし、これは戦国期から続
く江戸初期の武将にとっては
当たり前の事だ。
一向一揆のように農民たちが
宗教と結合して団結し一揆(同
盟連合の事)による軍事力を持
つ事は武将たちの一番恐れる
ところだ。
当然、権力機構を脅かす同盟
組織である宗教は弾圧する。
仏教もキリスト教も。
宗教は人民救済の為とかでは
なく、「政治勢力」として日
本では古くから機能していた。
また、日本のインスタント鎌
倉仏教自体は権門として権勢
を持ち、非常に為政者にとっ
ては脅威となる。僧兵などは
非常に精鋭化した優秀な戦闘
員だ。
信長の比叡山焼き討ちは非道
な事のようにも伝えられるが、
武士階級の指示や政策をも無
視して私的に勝手な権力を振
舞う宗教集団は社会的にもと
ても危険な存在であるのだ。
まして、一向宗は団結力が高
い。浄土真宗などは現在では
統一協会やオウムや創価学会
と並ぶカルトとしてフランス
はじめ各国で「異常集団」と
して禁止されている。
信仰の自由を保障された現代
ではあるが、統一協会や創価
学会による芸能界や政財界の
牛耳り支配をみるに、いかに
カルト宗教の影響力が社会そ
のものを掌握してしまい、民
意も国策も無力になるかが分
るだろう。
そして、カルトたる宗教が支
配する土地は、民衆の気性も
極めてカルトそのものになる。
特徴は異常異様な「排外主義」
が日常的に横行する事だ。差
別も大好きな土地柄・人柄と
なり、いくら行政が人権教育
を施そうとも骨の髄まで染み
ついた集団的排外性は払拭で
きない。
これは現実的に広島県におい
て現出している事は容易に看
取できる。
広島県は集団的排外主義の異
様なエリアだ。これはどんな
に広島県人が否定しようとも
事実として現出しているので
物理的に否定のしようがない。
そうした土壌というのは、戦
国期から続く宗教的土着性に
深く根付いたものだろう。安
芸門徒と呼ばれる浄土真宗だ
けでなく統一協会も非常に広
島県は勢力を持ち、また創価
学会もまるで東京八王子地区
のようにかなり強い土地だ。
そして、現在の日本はカルト
が政権与党となっている国と
なってしまっているのが現実
であり、事実だ。
つまり、その勢力を政権内に
取り込む連立別与党の裏筋の
思惑により、集団的強制力を
容易に発動できる国となって
しまった。カルトの強大膨大
な支持基盤を利用して。
三原城は福島正則の後に紀州
から浅野家が広島城・三原城
に入った。
三原城は一国一城の決め事に
抵触させないため、江戸期に
は城ではなく「要害」として
表現されていた。
その城を破壊したのは「明治
政府の御一新」だった。
広島県三原市では地元市民に
は不思議な気風がある。
それは、現在の広島県=広島
藩を数百年に亘り統治した浅
野氏にはさして恩顧も私淑も
示さない事だ。
三原においては築城に着手し
た小早川隆景をまるで神かの
ように信奉している。
実質的に治世を最長期間為し
たのは浅野氏であるのに。
有り体に言えば「無視」とい
う風だ。
これは、何かある。
社会学的な土着性による気質
の背景が。
実質的に三原城を完成させた
福島正則に至っては見向きも
しない。
その地元民の気性には、何か
裏付けがある筈だ。
直接自分や一族が世話になっ
たのでもない遠い昔の人物を
創造主のように信奉する異様
な土着信仰。
ひとつひとつ紐解けば、真実
が見えて来るだろう。
現代のこの全国版ではない地
域的特異な気性を形成するも
のが何であるかが。
ただ、背景と構造が判明して
も、集団的排他性については
何も変わりはしないだろうが。
日本は言語さえもが統一され
ていない国だから。
さらには、自分とこルールを
押し通す事があたかも地方文
化の温存や地域活性化である
かと勘違いしている政策に便
乗している精神性が根強いの
で、悪しき部分を捨象しての
変革も改善も無理。
その無理さの強大さは、現実
的に別地方からこの土地に実
際に住んで生活してみないと
余人には解るまい。
エトランゼにとっては「異様」
な土地だ。
なお、日本の「国歌」は広島
県の教育現場の死人まで出し
た事件により法として制定さ
れた。
あまりにも教育現場の人間が
私的強制圧力を集団的に強行
する事により、教育関係者た
ちの自殺や心身症患者が多発
したからだ。
差別を赦さないはずの勢力が
時として集団的強制を強いて
人を死に追いやる。「正義」
の名の下に。
広島県では一時期「君が代」
そのものを知らず、歌えない
世代が多く存在した。
「君が代」を知ってその賛否
を自分自身で考えて歌う歌わ
ないを自主的に選択させるの
ではなく、強要教育としてそ
の自由意思を剥奪する事を集
団的強制力で実行していた。
それが教育か?教育者か?
結果としては、君が代国歌法
制化を後押しして「強制的に
歌う」ような構造を作り上げ
てしまった。
集団的強制が、対極にある集
団的強制を法権力として構築
させる事をしてしまった。
広島県独特の異様な歪みとは
そうした社会的な事件にもあ
りありと現れている。
根本的な部分が根底からおか
しい。
「異様」であり、「異常」で
ある。
だが、認知症患者が自分の事
を認知症であると認知できな
いように、広島県人には自分
らの行いが「異様」であると
の自覚は無い。一切。
人が人として大らかに自由に
生きる事を拒絶し、人の尊厳
を踏みつぶそうとする覚醒な
き土地。
人を狂わせる見えない何かが
憑りついているのだろうか。
【100年以上の歴史を誇る
老舗が作る三原銘菓】
地元で愛されるお菓子屋さん
「ヤッサ饅頭」はとても美味。
そして、おすすめは「かもめ
の水兵さん」だ。
「かもめの水兵さん」はかな
りいける。
ヤッサ饅頭本舗
日本国内で有名な動揺「かも
めの水兵さん」を作詞したの
は童謡作詞家の武内俊子さん
(1905-1945)。三原出身の人。
1937年に横浜の大桟橋を訪れ
た際に詩が浮かんだという。
ハマで生まれた詩を生んだ人
は三原で生まれた。
彼女は、北原白秋、西條八十
と共に童謡界の三大詩人の一
人とされる野口雨情に詩人と
しての才能を見出された。
私のスクーターの乗り方。
通常運行では青丸の位置に
足を置く。
直線クルージングでは白丸
のレッグシールドに爪先を
当てる。すると極めて車体
が安定する。爪先外向きは
✖。真っ直ぐに前に向ける。
加速及びコーナリングでは
赤丸の場所をカカト内側で
ホールドする。
旋回の時にはギア付きオー
トバイと同じく腰を入れて
軸重をバランス操作する。
当然ステアによる舵角操作
はオートバイと同じくごく
ナチュラルにやるが、その
動きは極めて微細だ。つま
り当て舵は逆操舵するのを
意識しない程の微細さで実
行している。
だが、セルフステアを得る
前の倒し込みのきっかけな
どは確実にオートバイと全
く同じく逆を当てている。
ごくごく微細に。
私のスクーターの乗り方を
観て乗り屋の友人は「全く
オートバイと同じ乗り方し
てるなぁ」と言ったが、当
たり前だ。同じ二輪なのだ
から。
なお、私の場合、インステ
ップ加重や外足加重はかけ
ない。オートバイでも。
両足ともナチュラル荷重だ。
ただし、イン側の爪先は内
向き気味にステップの内側
に寄せてつま先立ちだ。
むしろイン側はホールドは
するがぶらぶら。膝もぶら
ぶら。肘は両肘ともぶらぶ
ら。手や腰の要所の締める
所はキュッと締めている。
私のビーノは2002年式だ。
2002年3月発売。
もうすぐ丸23才。
モデル名はYB50R、車体型
式は5AUHで製品連番は010。
商品名が「Vino」。イタリ
ア語・スペイン語でワイン
の意味の名称。
ジョグもそうだろうが、実
はビーノは物凄い数のバー
ジョン変更がなされている。
型式だけで7機種、モデル
タイプ類別では71機種にも
及ぶ。
それぞれに共通部品と独自
部品がある。
私も解るが、自動車メーカ
ーの設計部は新規製作設計
と開発設計という二つの活
動方式がある。
完成販売車両の事細かい構
造変更は開発設計にあたり、
設計部の人間は毎日製品の
良化についての開発を進め
ている。
世間一般では、例えばビー
ノにしても、機種変更は7
種類しか知られていないだ
ろうが、細かい型の変更は
都度行われて機種名として
存在し、さらには開発No.
が膨大な数で付与されて
データ管理されている。
それが自動車メーカーの設
計部だ。
(二輪車も三輪車も普通四
輪も大型貨物も自動車と産
業界では呼称する。法的表
現は「車」。車には自転車
も含まれる)