稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

小野派一刀流小太刀の稽古(2019年8月14日~15日)

2019年08月16日 | 剣道・剣術
一刀流松本道場(兵庫県)にて小太刀の稽古。
ここは相方の自宅道場で一刀流の研究道場でもある。
演武用の形を「表の形」とすれば、ここでは実戦的な「裏の形」を稽古する。

実は、私のやっている長正館の月例稽古(月に2回)で、
小太刀、相小太刀の稽古をしたが、小太刀の切落がどうもしっくりしない。
見かけ上はうまく行くのだが、自分的に納得が行かないのだ。

演武で見せる程度には遣えたとしても、実戦の場で、
本身の日本刀同士の戦いでは、私の遣い方では切落せないのでは無いか。。。

散々悩んでいたのでお盆の休みに松本道場へ久しぶりに出向いたのだ。
相方は、頭の中が一刀流で詰まっているので疑問は全て解いてくれる。
こっちは良いとこ取りだけさせてもらってるというわけだ。

稽古は小太刀の切落の基本ばかりを延々とやった。

陰からの正面打ちに対する切落。
陰、陽と身体を入れ換えての二つの切落。
陰、正眼、上段、霞、脇からの打ちに対しての切落。

正眼からの突きに対しての摺り流し。
正眼からの小手打ちに対する摺り上げ。
陰からの拳切りに対する摺り流し。
左右の払いに対する体捌きと左手の使い方(二通り)。

休憩時間には8月25日の南伊勢での愛洲移香祭剣祖祭の演武稽古。
夜は相方とお酒酌み交わしながら武道談義(時々愚痴)で散々飲んで早めに寝た。

二日目は朝から自転車で散策。
で、途中でパンクして悲惨な目に。

雨と汗でドロドロになって戻ったら、
結局、台風10号の接近で急遽稽古は中止となったと言う。

シャワーして、大太刀の「脇構の付」の打方仕方の遣い方、
刃引の打方、仕方の遣い方など、話だけの技のすり合わせをして解散した。

演武用の稽古だけやっていてもわからないが本当に一刀流は面白い。
今回は、小太刀の切落を始め、理合の疑問は取り合えず全部氷解した。
小太刀が半身になる(本当の)意味も、その間境の越え方、拍子も理屈はわかった。

申し訳ないが、ここでは詳しくは書かない。


(松本道場の廊下のマスコット)


(小太刀の切落)


(休憩時間に・・)


(8月25日の南伊勢での演武用の稽古)


(稽古終了)


(夜はビールと日本酒で上機嫌)


(翌朝は近所を小径自転車で散策)

自転車(ミニベロ)がパンクして、坂道を延々と押して登った。
この辺は坂道ばかりなのだ。下るのは気持ちが良いが上りは地獄。
雨は降ってくるし暑いし、稽古よりもこっちの方が辛かった。
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産経WEST 2015.6.26【戦後70年・出撃30分前(下)】

2019年08月15日 | つれづれ
続きです。
産経WEST(2015.6.26 07:00)です。

https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260003-n1.html



2015-6-26

「刻一刻と時間が過ぎていった」「爆弾を抱いて突っ込むしかない」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦末期、神風特別攻撃隊(特攻)として出撃命令を受けながら天候不良によって奇跡的な生還を果たした粕井貫次さん(91)。今月中旬、大阪市内で講演した粕井さんは「出撃30分前待機」という命令を受けた際の、死と隣り合わせの緊迫した状況を克明に語った。

なるべく長男ははずし、次男か三男を人選

 国分基地では、毎日待機。しかしもう訓練できないんですよ。制空権はアメリカ軍にあるから。だから出撃というと、あわてて飛行機を組み立てて爆弾を積み込んで攻撃することになるわけです。

 あるとき「攻撃3時間待機に入れ」という命令が出たんです。日向灘沖に敵の艦艇らしきものが航行中。それを偵察機が発見したから3時間待機に入れということで、飛行場に張り出された搭乗割を見ると一番先頭に私の名前がありました。私は次男でもあるし、特攻員の人選も私自身がしたわけなんです。うちの軍隊から練習生だけで40人ほど選考してなるべく長男ははずし、次男か三男を入れて技能が優秀でしかもやる気のある人を入れた。それらを1月に発表していました。

 8月6日に広島に原爆が投下されましたね。9日には長崎に落ちた。ソ連が日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず参戦。アメリカはいつ日本に上陸してくるかわからない。国内では女の人は竹やりの訓練をしている。そんなもん考えてみたら向こうは自動小銃があったり火炎放射器があったりするでしょ。竹やりを持って戦うなんてそんなもん話になりませんわな。

 ちょっとでもお役に立って敵を倒す。武器もたくさん持っている、それをやっつけるには爆弾を抱いて突っ込む以外にないと、そういう風に思いますわな。それがその当時の人間の考え方でした。

出撃3時間待機が30分待機に

 まず「出撃3時間待機」になって、組み立てた飛行機に爆弾は積んであるし、飛行機というのは暖機運転をしないといけない。シリンダーの中を温かくしなければうまく回転してくれないので、たえずシリンダーの中を熱くしとかないかん。しかし、あんまり暖機運転をするとガソリンが減っちゃう。しばらく休憩し、シリンダーが冷えてきたらあかんからまた運転して待機、運転を繰り返していたわけです。それを昼ごろからずっとしていた。

 次の情報がくるかどうか待っていたのですが、こないのです。そのうち「出撃3時間待機」が「30分待機」に変更となった。ところがね、30分待機になっても敵の艦船の位置がはっきりわからず、どのような動きをしているか、全然入ってこないんです。ただ3時間が30分になっただけで。私は550時間乗っていますからある程度夜間飛行できますが、昼間に2機が霧島にぶつかっていますし、まして星もない月も出ていない、低い雲が垂れ下がっているときに、当然相手は灯火管制していますから真っ暗けですわな。それを見つけてぶつかっていくというのは、とてもじゃないけど無理な話。どうかなあと私も心配しながら刻一刻と時間が過ぎていくわけですね。

 日が暮れかかってきて「出撃30分待機解除。3時間待機に移す」と。非常に不安定な心理状態でずっとおったわけですが、それが中止になった。中止になったからほっとしたかというと、終戦の天皇陛下の玉音放送を聞いたときもそうだったのですが、これで命が助かったというより、30分待機をやめろといわれたら、今日はやめるのか、だけど次はいつかわからんということでしょ。

幽霊と違う、脚がある…

 私は8月18日に家に帰れるというわけで大分で一泊して、燃料がないというんで仕方なしに岩国に飛んで陸軍の飛行場で燃料を補給して、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りはほとんど空襲で焼け野原なのに残っているんですよねえ。家に着いて声を落として「ただいま」と言うと、母親は死んでおりませんが、ばあさんがおりましてね、「ああ、たもつ(貫次の旧名)か」と私の脚にくらいついて「幽霊と違う、脚がある」。私がそんなに早く帰ってくると思わなかったんでしょうね。涙をぽろぽろこぼしました。そんなことでありがたいことに命拾いをしました。

 ここで私と親しかった男が遺書を書いてますので紹介したいと思います。この人は北海道出身の富澤といい、北海道の第二師範学校出身で、三重海軍航空隊で私と一緒に毎日食事をしていたわけです。フィリピンで特攻で死んでいるんですね。富澤幸光という人は20年の1月6日に死んでいるんです。特攻としては一番早い部類。他の連中はだいたい4月、5月が多い。絶筆になった遺書の一部を読み上げさせていただきます。

 【お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真を見て下さい。猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。

 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官(軍紀を取り締まる職です)でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。ニツコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです】

 私これを読んでから思うのは、人間には魂というものがあって一つ上の段階があるように思う。命というのは心臓があって頭で考える。でも魂というのはそれより一本上の立派なものだと思う。=おわり

【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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産経WEST 2015.6.25【戦後70年・出撃30分前(上)】

2019年08月14日 | つれづれ
お盆なので、ちょっと古い記事ですが、
産経WESTの記事(2015.6.25 07:00)を紹介します。
昨年亡くなった父、粕井貫次の記事です。

https://www.sankei.com/west/news/150625/wst1506250011-n1.html



2015-6-25

【戦後70年・出撃30分前(上)】
「ライフジャケットに刺さったロケット弾の破片」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦の末期、神風特別特攻隊(特攻)の飛行士として出撃命令を受けた後、悪天候で取りやめになり奇跡的に生還した粕井(かすい)貫次さん(91)=奈良市=が今月中旬、大阪市内で「特攻出撃30分前」と題して講演した。悪化する戦況、仲間の死、そして常に死と隣り合わせの特攻隊員としての日々…。「生きて終戦を迎えるとは思わなかった」と語る粕井さん。その講演内容を2回にわたって紹介します。

ごめんね、すまんね

 たくさんの方がお越しになって非常にうれしく思います。厚く御礼申し上げます。靖国神社や各地の護国神社に祀られている英霊に参拝したりしています。そういうところへ行きますと、なんで亡くなった彼らと私がこんなに違うんか。ごめんね、すまんね。いつもそんな思いでいっぱいになります。

 粕井さんが海軍に入隊したのは昭和18年9月。その少し前の5月にはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しました。全部、兵隊は死にまして。その次のキスカ島というのはうまい具合に霧を利用して全員が撤退した。そしてミッドウェー海戦では日本は大打撃を受けた。それで結局、日本とアメリカとの形勢が太平洋上で逆転しまして、日本本土も空襲を受けるという風になっていったわけです。

 昭和20年3月下旬、沖縄にはすでに米軍が上陸して、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は全くなくなる。それまでに特攻出撃は随分とあったわけですよね。アメリカの資料から戦後わかったことですが、11月3日の明治天皇の誕生日、その明治節を期して一斉に日本上陸すると。これは九州の日南海岸、それから東京の方では九十九里浜というようなあちこちでアメリカ軍が上陸する。敵が日本本土に接近してきたときに、少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰まった状態で出撃するわけです。そうすると私らの運命というのは、長くて11月3日になるわけです。

 特攻出撃の話の前にその頃の日本の状態を申し上げますが、ともかく情勢が厳しくなって燃料も足りない。それで訓練ができないわけですけども、特別の特攻のできる人間だけに訓練をして、最終の本土決戦に備えようというわけですね。

すぐそばにロケット弾が…

 国分(鹿児島)におって非常に空襲が激しい。それで人吉(熊本)に行って、特攻の最初の訓練として夜間飛行訓練をしたのですが、そこで私が飛行作業にかかる寸前に敵機がやってきた。その7機の攻撃を受けて私の左の一間(約1・8メートル)くらいのところにロケット弾が落ちまして、その破片が頭の方々、一つがライフジャケットに、足のファスナーを1つ切りました。

防空壕(ごう)に入ろうと思って走っていったら足がガクンとするんです。飛行服のファスナーがやられてしまって、足下で止まってしまっていた。それからすぐ防空壕(ごう)に逃げたのですが、2弾目の攻撃を受けたときに、私の隣の防空壕(ごう)にロケット弾が直撃しましてそこで14人死んでいるんです。

 人吉も怖い、そして四国の観音寺に行ったんですよ。その観音寺でもって、18キロの沖合の小島に向かって照明弾を落として、パッと明るくなったところで突っ込むちゅうわけです。ところがお星さんが出て月が出ているような晩ならよろしいが、曇り空で上も下もわからんようなときにやりますと、飛行機というのは操縦桿(かん)を引っ張ったらこう上がりますわね。その間に2機落ちましたね。そして死にました。

戦死したおうちは“英霊の家”

 そのときに殉職になると下士官の場合は、その当時のお金で2万円弔慰金が入るんです。ところが戦死になるとお金が出ない。4人とも親御さんが来て「どちらにしますか」と言うと、どの父兄も「殉職はいやです。戦死にしてください」というぐらいに、戦死というものに対する栄誉を考えていたんです。街を歩いてましても表札の横に戦死したおうちは「英霊の家」という表示がありました。その家の前を通り過ぎるときは会釈して通ったものです。それぐらい戦死というものが尊いという感じはあったんですね。

 いよいよ出撃するというときに、私の2番機が豊後水道にはまって墜落しまして、一番近い大分航空隊の方へ進路を変更してそこへ急遽(きゅうきょ)着陸しました。搭乗員と整備員が漁船に助けられてほっとしました。ところがそのとき大分で空襲を受けまして私は民家の2階で寝てたんですけど、大急ぎで下へ降りていったんです。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げたんです。隣の民家にいた整備員が一人、爆弾の直撃を受けています。

 そんなことで再び国分まで移動していくわけですが、そのときに2機が霧島にぶつかっているんです。搭乗の技術もだめですし、整備もだめです。アメリカ軍は前線へ来るときに最低千時間は乗らなければ前線に立たない。私は教官をしていますから割と時間かせいでいるんです。私で550時間。航空隊の中でも上位のうちに入るんです。それぐらい日本の場合は搭乗員も少なくなっている状態でした。やがて、上官から国分でもって「特攻出撃の待機をせよ」という命令を受けたのです。   =つづく


【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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墓参りと法事(2019年8月12日)

2019年08月13日 | つれづれ
粕井貫次・睦子の三回忌法要。
朝から王龍寺(奈良市二名)に墓参り。
実家に戻って法要。
送迎バスや自家用車で移動して食事会。
戻ってきて夜まで二次会。

またまたかなり飲んでしまった。
まあ、いつもの事ながら騒がしく楽しい一日だった。


(奈良市二名の王龍寺、本堂には磨崖仏の十一面観音菩薩像が祀ってある)


(境内のお地蔵様)


(粕井家の墓)


(実家の奥で法要)




(食事会の余興)


(酒が入ると宴会になるのが恒例)


(集合写真)


(つくば市から来た長男夫婦と)


(実家の玄関)


(夜は花火大会も)
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【考察】現代剣道と古流の組太刀稽古について

2019年08月12日 | 剣道・剣術

毎週木曜日は、大阪の四条畷の木曜会で剣道の稽古をしている。
ここでは基本の稽古が中心で地稽古はほとんどしない。
たまに地稽古をしても基本から外れた稽古はご法度である。
「普段の稽古で基本技が使えるようにする」ことが目的だからだ。

基本の稽古と言っても実戦的な基本である。
例えばポピュラーな出小手。
懸かり手から一歩攻め込み、元立ちが反応して本気の面を打つ。
出小手など打たせてなるものか!の渾身の面である。
それを出小手に取る。未熟だと打てない。

そのような真剣味のある基本稽古を続け、自分の道場でそれを実践する。
ところが実践の場では相手はおいそれと面には打ってきてくれない。
「面に打ってきてくれ、打ってきてくれ」と願っても打って来てはくれない。
で、あれこれ迷って試行錯誤して「相手が面を打ってきてくれる入り方」を模索する。
相手によって反応は異なり、そう簡単には打たせてくれない。
何回も失敗し、タイプの異なる相手ごとにまた悩み考える。
これが錬度を高める稽古である。


(2019年5月3日、京都での小野派一刀流演武)


それでは古流の形稽古はどういう位置づけになるだろうか?

形稽古で初心者のうちは「打方が袈裟を切ってきたらこう対処する」
のように、打方が始動して仕方が対応するように教える。

これは剣道稽古の初心者用の基本稽古と同じで、
元立ち(打方)が面を打とうと手元を(ワザと)上げて小手を見せ、
そのがら空き状態の小手を懸かり手(仕方)が出小手に取る、と同じなのである。
なぜ打方が面を打ってくるのかは(初心者は)考えない。

実際は仕方が完璧に構えているところに打方が打ち込む隙は無い。
剣道で、しっかり構えている相手に打ち込んでも有効打突は難しい。

隙が無いのに打方が打ち込むのは、
打たなければ先に仕方に打たれるという焦りや恐怖心があるからか、
仕方がワザと(実際にはワザとで無いように見える)隙を見せるから、
その隙に向かって打方が打ち込むのである。

これを知らずに古流の形稽古をいくら数多く覚え、
武道の演武会で立派な形を披露するレベルになっていても、
それは踊りの域を超えるものでは無く本当の武道とは言えないのである。
お芝居の殺陣(たて)がいくら上手でも実戦に使えないのと同じなのだ。

似たような例は居合だけをやっている人にも当てはまる。
独りだけで稽古する居合いの相手は仮想の敵であり、
仮想の敵をいくら倒す稽古をしても本物の敵には対処は難しいだろう。
(居合の稽古が無駄だという意味ではありません)

私の小野派一刀流の稽古でも、
最初は形の数だけ覚えるのが精一杯で、その理合にまで考えが及ばなかった。

最初の一ツ勝においても、間合いに入り、なぜ、しっかり構えている仕方に、
打方は陰の構えから正面を打っていくのかがわからなかった。
わからないまま稽古を続け、わからないまま演武会にも出ていた。

今は、打方であれば、仕方の構えの中心を割って
先(せん)で打ち勝つ気持ちで切り込む。

仕方の場合は、打方が技を出そうとする
その先(せん)を超えて打ち込む気迫を出すようにしている。

具体的には、打方のレベルにもよるが、
打方よりも先に右足で間境を越えるようにしている。
仕方に待つ気持ちが少しでもあっては駄目だと考えている。

難しいのは先(せん)の気位が「打ち気にはやる」になっては駄目で、
「いつでも打てる」という気勢と体勢を持てるかどうかが最も大事である。
「打てるが打たない」が先(せん)の理想の状態なのだ。

結局は剣道も古流剣術も同じで、
懸かり手(仕方)から先(せん)の気勢と体勢で、
間境を越えようとするところ、その超え方に勝機があり、
元立ち(打方)が反応し、打ち出したところに応じて勝つのだ。

これは余談になるが、
「剣道はスピードとタイミングで打つスポーツだ」というフレーズは、
あまり武道を知らない者がたびたび言うフレーズだが、
タイミングはもちろん、スピードもまた大事な武道の要素である。
いくら理合に長けていても応じる速度が遅くては役には立たない。

以上、剣道で、実戦的な基本稽古をやっていて、
「ああこれは古流の形稽古と同じなんだ」と思った次第。


(未完につき、修正、加筆、別筆することがあります)

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二名小学校跡

2019年08月11日 | 旅行や街角メモリー

今回もバイクで近所の散策。
ちょこっとした散策が好きである。いや大好き。
街角で見かけた「?」が放っておけない性格なのだ。

バイクで近所を走っていると「二名小学校跡」の石碑があった。
二名小学校は、うちの三男坊が在籍していた小学校で、場所が違う。
それに、どう考えても小学校があったような広さも形跡も無い。

「二名小学校」を建てる時の準備室があったのだろうか?
などと思って、取り合えずメモカメラで写真を撮った。


(二名小学校跡の石碑)


(石碑の裏側)

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表:二名小学校跡
横:創立百年記念事業委員会 富雄北小学校同窓会
裏:昭和54年2月19日建立 奈良市立富雄北小学校創立百年記念
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(google map より)

ははあ、なるほど。
これは現在の二名小学校ではなく、
富雄北小学校に関連あるんだな・・・と思った次第。

さっそく富雄北小学校をWikipediaで調べてみた。
----------------------
1879年2月19日 - 二名尋常小学校として開校。
1933年12月15日 - 富雄村立富雄北高等尋常小学校と改称。
1941年4月1日 - 富雄北国民学校と改称。
1947年4月1日 - 富雄村立富雄北小学校と改称。
1955年3月15日 - 奈良市立富雄北小学校と改称。
1965年4月1日 - 奈良市立あやめ池小学校、奈良市立鶴舞小学校を分離し、校区変更。
1966年4月1日 - 奈良市立鳥見小学校を分離し、校区変更。
ただし校舎は未完成につき、同校職員および児童全員は本校に間借りした。
1973年4月1日 - 奈良市立鶴舞西小学校を分離し、校区変更。
1973年4月1日 - 奈良市立二名小学校を分離し、校区変更。
1976年4月1日 - 奈良市立富雄第三小学校を分離し、校区変更。
1980年4月1日 - 奈良市立三碓小学校を分離し、校区変更。
----------------------

なるほど。二名尋常小学校は、この周辺の小学校の元祖だったのだ。

で、いつもの今昔マップ。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html


(今昔マップの、1922年-大正11年)


(今昔マップの現在、赤丸は二名小学校と富雄北小学校、青丸は二名小学校跡)

ここからは余談。

昭和35年当時、富雄北小学校は、うちの兄達が通っていた学校である。
大阪から引っ越してきて、私は近所に幼稚園も無く、
兄達を送り出してからは退屈で仕方が無かった記憶がある。
その頃から、ぼんやり空を見上げているクセがついたのかも知れない。

奈良市登美ヶ丘の自宅から富雄までは子供の自転車では大冒険で、
おいそれと行けたものでは無かったが一度だけ兄達を追いかけて行ったことがある。

目的はプラモデル。当時は家の周辺にプラモデルを売っている店は無かった。
富雄駅から富雄北小学校へ向かう小さな道には「まるにや」という文房具屋があり、
そこには文房具の他にプラモデルなどが売っていて私には夢のようなお店だった。

兄達はさっさと行ってしまう。
私は補助輪付きの自転車で追いかけた。
登美ヶ丘から学園前までの道はまだ未舗装で、
私は途中の穴に、何回も後輪がはまり、ぜんぜん前に進まない。

小さくなる兄達の背中を見て自転車を押す苛立ちと情けなさ、
やっとたどり着いたお店に陳列されたプラモデルの多さに驚いたこと。
そんなことだけ記憶に残っている。

そのあと独りで補助輪を外した。
兄達のいない間に大渕池横の坂道で自転車の練習をしたのだ。

登美ヶ丘は一丁目しか無い時代で大渕池から北側は広大な雑木林だった。
補助輪を外した自転車は軽快で、嬉しくて嬉しくて一日中走り回っていた。
やってることは今も大して変わらない。

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No.59(昭和62年4月12日)

2019年08月10日 | 長井長正範士の遺文
○閑話休題 一寸面白い文献があるので、この辺で話題を変えて書きとめておく。
○若し我々が江戸時代に生きていたら。
百石どりの旗本は現代のサラリーマンに換算すると一石は2.5俵。
百石は250俵=1,000斗=10,000升=(精米にして)14,000キロ。
米価1キロ(普通米で)約450円として計算すると6,300,000円となる。
(このうち四分は自分のとり分、六分は農民のとり分)故に四分とると2,520,000円になる。

然し江戸時代はボーナスという名目のものが無く、
若し現代風に年間四ヶ月ぐらいのボーナスに価するものを渡してやっていたと仮定すると、
月収は2,520,000円÷16ヶ月=157,500円。即ち手取り157,500円が江戸時代百石取りの給料である。

二百石取りは315,000円となる。
小説の中の旗本退屈男の設定は1,200石であるので月収1,890,000円となる。
三百石取りは現代の課長クラス、四百石取りは部長クラス級の程度ではなかろうか。
NHKでお馴染の石坂浩二の柳沢吉保は綱吉時代の知行160石と廩米370俵取りが出世して
最後は150万石の大大名になった。

当時幕府の軍役規定というのがあって、女や小者を含め、家来を500人~千人かかえているが、
月収2億2千万円、1日の実収入は700万円あり、終生続いていたと言われる。

○千両箱は?
貨幣価値を1両を1石とする。
1石は10斗=百升。1升は14キロ、米価1キロを450円としてみると。
140キロ×450円=63,000円。×1,000両=6,300万円となる。



○米騒動昔ばなし
大正7年8月、当時1升20銭だった米が50銭になり、所謂「米騒動」が発生、
その鎮圧には軍隊が出動するほどの大事件になった。
その頃のけいさつ官の本俸は月額15円、諸手当が6円50銭ほどで
一般の下宿代が月12円。うどんは3銭であった。
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木曜会定例稽古(2019年8月8日)

2019年08月09日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時から21時20分まで。今年27回目。参加人数15名ほど。
先週と同じく暑くて湿気も高い。

少し思うところがあり、今回より詳しくは書かない。
今まで自分の復習用にせっせと書いてきたが、それも溜まってきた。
稽古用の自習メモは別に作り、じっくり復習しようと思ったからだ。

----------------

稽古は素振り、2人組での竹刀打ち、面を着けての3人組みでの基本稽古。
私は2人組での竹刀打ちまで。まだ急に振りかぶる動作は不安が残る。

今回は竹刀打ちでの基本稽古がとても良かった。
強度と冴えのある打ちは、左足、姿勢、右手左手の作用である。
何回も繰り返しやって、やっと満足の行くものとなる。これは良い。

先週わからなかった12345の足遣いもわかった。
わかったが、最後の右足の引き付けの時に身体が安定しない。
打ったあとの安定性というか体幹の未熟さを感じた。

3人組みでの基本稽古は中心を割りながらの正面打ち。
まずは構え、交刃の間での中心、そこからの割り方、打ち方。

足捌きは「イチ」だけでは無いということ。
これは重要部分だがここでは詳しく書かない。
カタチだけ真似ても不細工になる。


(中心を取ってからの入り方)

大切なことは、わかっていても、なかなか出来るものでは無いということだ。
しっかりした構え、体幹、気迫、ぶれない剣先、間合いの見極め、
中心の割り方、足遣い、打突の強度と冴え、打ったあとの残心の所作など、
正しい方法がわかっていても、そう簡単に身につくものではない。

きょうは自分の課題を再確認出来た!

ここで学んだことを持ち帰って実践する。
そして迷ったらここに戻っきて再確認する。
気長に行こう。一朝一夕に上手になるわけでも無い。

「稽古の中で基本稽古をする」・・迷ってはいけないのだ。
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年8月7日)

2019年08月08日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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8月は暑いので名目上は「夏休み」だが自主稽古という名で稽古はする。
夏休みがあるのはスレート葺きの異常に暑い昔の長正館の名残なのだ。
今年は8月14日だけは休みとする。


(2017年、長正館の前で撮影)


(空中から見た、かっての長正館、google mapからキャッチコピーしたもの)


(同じく)

スレート葺きのところが道場。
三角形の赤い屋根の部分が1階が師範室やトイレ、台所、シャワー室。
2階が、防具置き場兼更衣室だった。
夏は暑く、冬は寒かったが、駐車場もあり、
何より時間を気にせず、いつでも稽古出来たのがありがたかった。

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体育館の中は日中の熱気が籠もっていた。暑過ぎる!
総人数は10人。本日よりA君弟も正式に稽古に参加となる。
私は道具は着けずにA君弟を指導。素振りと打ち込み。


(円陣で準備運動)


(素振り)


(基本稽古)














(面取れ~)


【感想・反省点】

ともかく子供は褒めることだ。
教えて、出来たら褒めて、また教え・・の繰り返し。
A君もA君弟も、ずい分上手になった気がする。
A君弟も、涼しくなる頃に防具を着けれるようにしたいものだ。

のびのびと 大きく打ち込め 子供らよ 剣道稽古は 楽しく仲良く 
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富雄川の湯屋谷橋

2019年08月07日 | 旅行や街角メモリー
バイクで近所の散策。
ちょこっとした散策が好きである。
街角で出会った「?」が放っておけない性格なのだ。



私の実家は奈良市登美ヶ丘。
(私の自宅は800メートル離れた奈良市西登美ヶ丘)

昭和35年に、父、貫次が近鉄の建売住宅を購入した。
大阪の心斎橋から奈良市登美ヶ丘に引っ越してきた昭和35年は、
まだ登美ヶ丘という地名は無く二名町(にみょうちょう)と言っていた。
今は一般道路の阪奈道路が有料道路だった時代で、上り下りの専用車線ではなく、
現在は上り専用の2車線を、上り下りで対面通行していた時代だ。

そして住宅地が広がるにつれ、二名町の一部が登美ヶ丘という地名に変わった。
1967年(昭和42年)、小学校6年生のことだったと記憶している。

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近鉄富雄駅から数キロ北上し、富雄川に架かる湯屋谷橋の、
湯屋谷橋西詰の交差点を右折し1キロほど東進すると私の自宅にたどり着く。



ある日、何気なく湯屋谷橋の欄干を見ると「ゆやんたんはし」と書いてある。
信号機の表示は「ゆやだにばし」、橋の名前は「ゆやんたんはし」。





さっそく、今昔マップで調べてみた。

今昔マップ。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

1892-1910年(明治25-43年)の地図を見ると「イヤンタニ」
1922-1923年(大正11-12年)だと「イヤダニ」、
1927-1935年(昭和2-10年)だと「ユヤタニ」になっていた。


(1892-1910年では「イヤンタニ」と読める)


(1922-1923年では「ユヤタニ」と読める)


(現在版は湯屋谷という地名が消えていた)

まあ考えてみれば、事務所のある加納も「カノウ」と読むが、
昔から住む人は「カンノ」と言うのだと聞いたこともある。

母親の旧姓は扇田だが「オオギタ」なのか「オギタ」なのか
「オウギタ」なのか、どれが正しいのかわからない。

はたして湯屋谷橋は「ゆやんたんはし」なのか「いやんたにはし」なのか、
または「いやだにばし」なのか「ゆやたにばし」か「ゆやだにばし」か。

いずれも間違いでは無いというのが日本語の大らかさなとこなんだろうか。
どうでも良いのに妙に気になってしまって調べてしまった次第。


(湯屋谷橋は二名町に属している)
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東大阪市、花園ラグビー場近くに「河内松原!?」

2019年08月06日 | 旅行や街角メモリー
「河内松原」と聞くと、大阪府松原市の河内松原駅がまず頭に浮かぶ。
ところが、もう一つ、大阪には「河内松原」がある。


(東大阪の河内松原)

場所は大阪府東大阪市。
府道702号を奈良方面に東進した花園ラグビー場付近。
交差点の表示に「河内松原」とあるのだ。

最初は面食らったが、ここは昔の奈良街道で、
険しい勾配で有名な暗峠(くらがりとうげ)の手前の宿場町だったのだ。

東大阪観光協会のサイト内の「街歩きMAP」には、
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松原宿の道標(道しるべ)
大坂と奈良を最短で結ぶ暗越奈良街道の道標には「右なら・いせ道、左大坂道」
と刻まれており当時の面影を伝えています。この地は江戸時代に奈良街道の中で
唯一置かれた宿場です。俳人松尾芭蕉は伊賀上野から大坂へ行く最後の旅路に
この道を通っています。
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と書かれてある。

東大阪観光協会
http://www.higashiosaka-kanko.jp/index.html

ともかく気になったので、宿場の跡を散策してみた。
宿場跡は看板と道標だけだったが、まあ納得出来て良かった。







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奈良暗越街道と松原宿(まつばらじゅく)
奈良暗越街道は、生駒山頂の南側、暗峠(標高455m)を越え、大坂と奈良間を
最短距離の八里八町(34km)でつなぐ、古代以来つづく古道の一つです。
江戸時代にはいって、この道は脇往環として発達し、大和・伊勢をむすぶ
旅客貨物の重要な交通路となり、伊勢参りなどでにぎわいました。
幕府は、明暦年間(1655~58)以降、街道の支配のために街道間唯一の宿場として
「松原宿」を公式に設けました。松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間
に位置し、古くから水運でも栄えた場所にあたります。宿場には、継立業務
(人馬の乗換えを請負う仕事)を行う店のほか、寛永元年(1624)年の記録では、
河内屋・奈良屋など計16軒の旅籠(はたご)があり、大変にぎわいました。
明治維新をむかえ、宿は廃止されましたが、松原村は交通の要衝であったことから
他に先がけて郵便局、警察分署、キリスト教講義所などが設けられていました。
しかしながら、大正時代になると鉄道(大軌、現在の近鉄奈良線)の開通や
道路の整備に伴って、街道としての役割を失っていきました。
平成16年3月  東大阪市
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(大阪-深江-松原-暗峠-小瀬-榁木峠-追分-尼ヶ辻-奈良、松原の西で東高野街道と交差する)


(英田北小学校の脇、こういう街角散策にはバイクが一番だ)

英田北小は「あかだ」と読む。
英田は平安時代、河内郡の郷名で「英多郷」(あがたごう)と言った。
あとの吉田村、松原村、水走村となって、合併して英田村(あかだむら)となる。


(「みぎ なら いせ道」と「左 大坂道」としるされた道標)


(少し北の大津神社にも寄ってみた)
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長正館、月例稽古(2019年8月4日)

2019年08月05日 | 剣道・剣術
長正館の月2回の日曜稽古。(8月18日はお休みです)
前半(17時~)は一刀流、後半(18時半~)は剣道稽古。
通称「月例稽古」は東住吉区湯里小学校の体育館。
詳しくはホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
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(私の愛用の鬼籠手と木刀)

---小野派一刀流稽古---
17時~18時過ぎ。参加人数8名(井上館長除く)。
刃引の摺り込み部分(技法的なもの)が未熟なので、
表の摺り~摺り上げまでの4本を重点的に行った。

わざと大きく摺り込んで、技の基本を覚えたら、
いずれは小さく鋭く遣えたら良いのだ。

---剣道稽古---
18時半~19時45分。参加人数9名(私と井上館長除く)。
古い館員のS村さん(三段)も24年ぶりに稽古に参加した。
































【感想・反省点】

一刀流の稽古では、演武の形と実戦の形の使い分け、
相手の攻撃に対し、瞬間の閃きで、最善の適切な理合が必要、
最初は大きく確実に遣い、手の内が出来たら小さく鋭く遣う、
という話などしたつもり・・・である。

剣道稽古は休んだ。あと2週間は何もしないつもり。
素振りもしないので腕は落ちるが故障は完全に治したいから。

K芦五段には「剣先を相手から外さない」を指導。

N村六段とK藤六段の稽古。
お互い、構えると剣先を交えない。
タイミングを外して返すような剣風なので注意した。

-------------------------
タイミングで打って当たるかも知れないがそれは五段まで。
六段なら「合気の剣道」を心がけるべき。
しっかり剣先を交えて、相手の気を読む。
そこから合気を崩したり外したりして打つ機を作る。
そういう剣道を磨かないといけない。
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実は、これは私自身の課題でもある。
指導していて少し恥ずかしくなるのはご勘弁願いたい。
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【考察】剣道形七本目の打太刀の刃先の向き

2019年08月04日 | 剣道・剣術

剣道形七本目。
打太刀の気当たりの突きの刃先の向きの件。

ほとんどの人が正しく、刃先を「やや右下」に向けて突いている。
しかし、ごくたま~に、刃先を左下で突く人がいるのだ。
わけを聞いてみると、所属団体の指導者にそう教えられたそうだ。

これは形の解説書の書き方のせいではないかと思う。

この部分の記述の変化を書くと、

  ※ 旧カナ使いは現代かな使いに書き換えた。
  ※ 稍々は「ヤヤ」、以ては「もって」に書き換えた。

●大日本帝国剣道形(大正元年十月制定)
打太刀は機を見て仕太刀の胸部を諸手にて突く。

●大日本帝国剣道形(大正元年十月制定・大正六年九月加註)
打太刀は機を見て仕太刀の胸部を諸手にて突く。
(一歩軽く踏み込み剣尖をヤヤ仕太刀の左に向け諸手をもって鎬にて摺り込みつつ突くなり)

●大日本帝国剣道形(大正元年十月制定・大正六年九月加註・昭和八年五月加註増補)
打太刀は機を見て仕太刀の胸部を諸手にて突く。
(一歩軽く踏み込み剣刃をヤヤ仕太刀の左に向け諸手をもって鎬にて摺り込みつつ突く)

●日本剣道形解説書(昭和56年12月7日制定)
打太刀は機を見て、一歩軽く踏み込み、刃先をやや仕太刀の左斜め下に向けて、
鎬ですり込みながら、諸手で仕太刀の胸部を突く。

剣尖、剣刃、刃先という語句の違いがある。
いずれも「仕太刀の左に向けて」は同じである。

まず「仕太刀の左」とはどこなのか?
下を向いているはずの刃先を「やや仕太刀の左斜め下に向けて」
とは、具体的にどのような状態なのか?

単純に打太刀から仕太刀を見て「仕太刀の左」とは前方向での左である。
素直に考えたら、打太刀の突きは、当然ながら刃先が左下になってしまう。
勘違い、混乱の元は、このわかりにくい「仕太刀の左に向けて」が原因である。

剣道で「相手の左面を打て」と言うと、
向かって左の右面を打ってしまうようなものだ。

唯一の救いは、日本剣道形審査上の着眼点だ。

●日本剣道形審査上の着眼点(昭和60年6月26日)
打太刀:刃先をやや右斜め下に向け鎬ですり込みながら正しく胸部を突いているか。

これがあるため、剣道形講習会でも、刃先はやや右斜め下で突くと教えられる。

--------------

突きの刃先の向きについては、すでにこのブログで述べた。

考察「突きにおける刃先の向き」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190722/

それでは「仕太刀の左に向けて」という意味は何なのか?
1)仕太刀から見て左側に向けて
2)刃先ではなく剣先の間違い
(剣先を仕太刀の左に向けると、日本刀には反りがあるので刃先は右下になる)

1)であるなら混乱の元なので改訂して欲しい。
2)は、剣尖が剣刃に変わった時点で混乱した可能性がある。

末端の指導現場では、刃先の向きと、剣先(切先)の向きを混同している者も多い。
記述は、剣尖→剣刃→刃先と変化したが、「剣尖」が「剣先」の意味とすれば、
技としての説明は大きく異なってしまう。

剣道形四本目でも同じような記述である。

●日本剣道形解説書(昭和56年12月7日制定)四本目
打太刀は機を見て刃先を少し仕太刀の左に向け(中略)右肺を突く。

「刃先を少し仕太刀の左に向け」とはどういう状態なんだろう?
いずれも、刃先と剣先(切先)を取り違えた間違いでは無いのか?

このような、わかりにくい記述が原因で、
末端の指導現場で少なからず混乱を生じていると考えられる。

語句を統一し、わかりやすい記述に書き換えて欲しいと願う次第だ。
「刃先をやや仕太刀の左斜め下に向けて」の表現は誤解を生みやすい。
すなおに「刃先をやや右下に向けて」で良いと思うのだがどうだろうか。

-----------------------

大日本帝国剣道形は、大日本武徳会剣術形を元に、約1年間の討議を経て、
大正元年(1912年)10月に太刀の形7本、小太刀の形3本の計10本が発表された。
普及が進むと解釈に異同が生じたため、大正6年(1917年)に註が加えられ、
さらに昭和8年(1933年)に増補加註されたという経緯がある。


(重岡曻著「詳解日本剣道形129頁より、左が打太刀)


(日本剣道形解説書(昭和56年12月7日制定)20頁より、刃先と切先の確認)

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大東のダイトタクシー

2019年08月03日 | 旅行や街角メモリー
事務所のある東大阪は大東市に接している。
地域柄、たまーに乗るのが地元のダイトタクシーだ。

ダイトタクシー
http://daito-grp.com/

ずっとずっとダイトタクシーは「大東タクシー」だと思っていた。
なぜならダイトタクシーの本社は大東市野崎だからだ。
時々前を通ることもある。大東のダイトタクシー。

先日、通勤途中で、赤信号で止まった前がダイトタクシー。
よく見ると大東ではなく「大桐」と書いてあるではないか。
それでもなお、薄学な私は大桐を「おおぎり」と読んでしまった。

大桐(おおぎり)マークのダイトタクシーと思って見てたが、
ふと、桐は「きり」とも「とう」とも読めることに気がついた。


(通勤途中の阪奈道路への進入路にて)


(ダイトが「大桐」とわかった瞬間)

読み間違いはよくあるもので、
属している長正館は長生館と間違えて書かれることはよくある。
なんばの養正会を養生会と書く人も多い。
長生館も養生会も、何やら老人ホームみたいである。
特にメールでの問い合わせは誤変換のため間違う確率は異常に高いのだ。

養正会の合宿でホテルのお迎え看板に「養生会御一行様」と書かれたこともあった。
「何やら老人会の慰労旅行みたいやねえ」と皆で笑いあったものだ。

そういや再就職したばかりの頃に、
お客様の名前を間違えて書いてキツク叱られたことがあった。
秋元様を秋本様と書いてしまったのだ。

「そんなに怒らんでもええがな・・」と当時は思ったが、
平気な人ばかりではない。けっこうムッとされることもあるのだ。
名前は慎重に。まあ良い顔は絶対にされないと思ったほうが良い。

日本語は同音異語が多いので気をつけたいものだ。
ダイトタクシーで忘れていた昔の失敗など思い出してしまった。
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押し手引き手・合気(木曜会定例稽古 2019年8月1日)

2019年08月02日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時から21時20分まで。今年26回目。参加人数15名ほど。
強烈な暑さと湿気。人数が少ないのは暑さのせいなのかも知れない。

私は腕の肉離れがまだ痛むので、思い切ってお盆明けまで
防具を着けての稽古は休むことにした。素振りもしない何もしない。
本日は防具稽古は無し。私は見取り稽古。


---稽古中(素振り、竹刀打ち)でのお話---

打った時は手首が伸びるように。
振りかぶった時に首が前後に動かないように。
振り下ろしは少し鋭角に下りてきて下筋を使って打つ。

右手は横から握ってはいけない。
構えた時には切り手になっていること。

斜め45度で止めることにだけこだわっていたら間違ってしまう。
左手が利いていたら45度で止まるということ。
肩、肘、手首、胸の五角形を崩さず、そのままの形で振り上げ振り下ろす。

右手を「押し手」、左手を「引き手」と単純に憶えると間違ってしまう。
また右手を中心として左手だけで打とうとしても伸びの無い打ちになる。
試合で相手より早く打てるかも知れないが刀法の理合では無くなってしまう。

右手の中にも引き手と押し手がある。
中指を中心とし、小指薬指で引いて親指人差し指で押す。
左手も同じ。

右手左手を一つの拳として考えると引き手と押し手がわかりやすい。
(右手と左手をくっつけて握って打つと場合に顕著になる)
右手と左手の接点が中心となって、右手が押し手、左手が引き手になる。
右手と左手は連動していること。

両手の間隔を広げて握った場合でも、両手の間を中心とした大きな拳と考え、
その大きな拳の中で、押し手引き手が生まれて竹刀の打突力が生まれる。

1、2、3、4、5の稽古。(先週の復習だが私は休んだのでよくわからない)

1で、止まる。高齢者は、ここで止まらず打ちに出てしまう。
1で相手のキ(気と機)を伺うから、それが「溜め」になる。
相手の目を見ながら、すーと入る。イーチの「チ」の部分で溜め。
相手がどうしようとしてるのかという「気」を伺う。目、肩、首、全体。
相手が入ってこようとするところを攻め返す。
攻めてこようとする相手の気を見て機会の機で打つ。
相手が狙っているところに無策に入っては駄目。

礼をしたところで相手がどういうタイプか見定める。
きっちりしていない相手とは合気にならない場合が多い。

打つべき機会は合気が外れたところ、崩れたところ。
お互いに合気になるから気が外れた(気を外す)ことがわかる。
最初から合気を外していてはそれがわからなくなる。
まず合気になること。相手の気を崩すから精神的な優位性が生まれる。
女性は返し胴が打てることで精神的な優位性が身に付く。

精神的優位性は、まず構え。気迫。
いつでも打てるという気構え身構え。

日本剣道形一本目でも、仕太刀から「先に打つぞ!」
という気がわかるから打太刀が(遅れまいと)打ってしまうのである。
先には有形の先と無形の先がある。有形の先々の先と無形の先々の先がある。
一本目の仕太刀は「無形の先々の先」、反応して打太刀が止むを得ず打つ。


(竹刀打ちで手の内の稽古)


(構えた時、打った時も「切り手」になっていること)


(左手の握りが出来ていれば意識しなくても剣先は下がらない)


(合気)


(合気を外す)


【感想・反省点】

稽古には参加していないが多くの事を学んだ。
打突の強度と冴えは力では無いということもわかった。
私はまだまだ力で剣道をやろうとしていたわけだ。
だからテニス肘や、腕の肉離れという故障で苦しんでいる。

普段の稽古で出来ていないことばかりである。
稽古復帰が待ち遠しい。
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