【約60年前の水害で山腹から落下、ふるさと創生事業で整備】
万葉集の撰者の1人ともいわれる橘諸兄(684~757)ゆかりの地、京都府南部の井手町。その町を東西に流れる玉川(木津川の支流)沿いにある巨岩「左馬(ひだりうま)」を一度見ておきたいと車で出かけた。国道24号を北上し村役場がある交差点を右折、山道のような府道321号和束井手線を走ると程なく左手に「左馬ふれあい公園」があった。
園路を下っていくと、突き当たりに高さが5m以上もありそうな巨岩が横たわっていた。重さ数百トンという花崗岩。「駒岩」とも呼ばれていることから、最初「左馬」はてっきり、その巨岩の表面に描かれているものと思っていた。しばし目を凝らしたが、見当たらない。馬が刻まれていたのは実は右下の小さな窪みになった祠(ほこら)の天井だった。入り口には造花と小さな注連縄。半ば荒れ放題のような小さな公園だが、その周りは清掃されているようだった。
「左馬」は頭を右向きにした右半身の肉彫りで、全身の長さは1m余り。後ろ脚を高く蹴り上げたような躍動的な姿が写実的に刻まれている。誰がいつ頃彫ったのだろうか。そばの石碑には「作者や制作年代は不明であるが、躍動的な象徴を持つことから鎌倉時代のものだろうと見られている」とあった。ところが、駐車場の説明板には「1137年(保延3年)5月6日に造立したものである」と日にちまで特定していた。1137年というと平安時代の後期。はてな?
この駒岩、実は以前からこの場所にあったのではない。最初に鎮座していたのは玉津岡神社(駒岩の少し下流に位置)の飛び地境内の山の中腹にあった。ところが、1953年の南山城水害のとき、現在地の玉川の谷底に転げ落ち、長年、土砂に埋もれたままになっていた。それが掘り出されたのは4半世紀前のこと。88年の竹下内閣のふるさと創生事業を活用した町の史跡整備の一環として行われたという。
それで「左馬」が天井にある理由も分かった。もともと岩の正面に刻まれていたものが、転げ落ちたことで向きが90度変わったというわけだ。また駐車場の説明版の記述は、玉津岡神社に残る古文書に、馬の後ろ足の横に年号が刻まれていたが摩滅してしまった、ということが記されていたことによるそうだ。
駒岩は本来、雨乞いや玉川の治水の神として奉納されたが、いつの頃からか「女芸上達の神」として篤い信仰を集めてきた。石碑には「女性の習い事の裁縫や茶法、生け花、ひいては舞踊などを志す人の守り神として古くから信仰の対象になっていた」と記されている。遠方からの参詣者も多く、芸妓がかごに乗ってお参りに来たこともあるという。
では、なぜ芸事などの守り神になったのか。一説によると――。通常、右利きの人が馬を描く場合、頭が左向きの左半身を描くことが多い。この「左馬」は頭が反対の右向きなので左利きの人が描いたに違いない。左利きの人には器用な人が多い。そんな連想から芸事の神様になったというのだが……。仮にその説を信じるにしても、なぜ「女芸上達」と女性だけの守り神になったのだろうか。