く~にゃん雑記帳

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<長田光男氏講演> 「郡山の〝西門さん〟―希代の文人・柳里恭」

2014年11月10日 | メモ

【書・画・俳諧・琴・弓…博学多才「人の師たるに足れる芸十六」】

 江戸時代中期の郡山藩士で文人画家、漢詩人などとしても活躍した柳里恭(りゅう・りきょう)に焦点を当てた講演会が9日、地元大和郡山市の薬園(やくおん)八幡神社参集殿で開かれた。主催は大和郡山市まちづくり会議。同市文化財審議会会長の長田光男氏が「郡山の〝西門さん〟―希代の文人・柳里恭」と題して講演、里恭の生い立ちや功績、郡山での足跡などについて語った。

 

 里恭は徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の筆頭家老の次男として1703年に生まれた。本名柳沢里恭の名は「さととも」だが、中国風の「りゅう・りきょう」の読みを好んだ。22歳の1724年、柳沢家は享保の改革に伴う幕府直轄領の再編で甲府から郡山に転封となる。屋敷が郡山城西門のそばにあったため地元の人々からは「西門さん」と呼ばれ親しまれた。(写真㊧は屋敷跡に立つ石碑、㊨里恭が揮毫した薬園八幡神社=講演会場=の石燈籠)

 幼少時から諸芸に才能を発揮した。江戸中期の国学者伴蒿蹊(ばん:こうけい)の『近世畸人伝』には里恭についてこう記す。「文学武術を始め人の師たるに足れる芸十六に及ぶとぞ 中にも画に長ず」。その16芸とは和漢学・俳諧・書・絵画・天文・暦学・易学・篆刻・琴・三弦・弓・馬・刀・槍・製薬・製陶。里恭は日本文人画の先駆者の1人ともいわれる。「淇園(じんえん)」「玉桂」「竹渓」などの号を持ち、池大雅は里恭に絵を教わるため度々郡山を訪れたという。

 郡山藩士としては一時期「不行跡未熟之儀相重」を理由に蟄居・家督剥奪の処罰を受けるという〝災難〟もあったが、54年には「大寄合」を命じられている。里恭が実現に取り組んだのが「播但通船計画」。下関から瀬戸内を経て上方(大坂)に向かう北前船の代わりに、荷を高瀬船に積み替え円山川を遡って但馬から播磨まで川と陸路で運ぶという大胆な構想。57年正月には幕府の許可まで得られたが、実現の直前で資金的な問題などで頓挫してしまった。心労からか里恭はその翌年、病に伏し56歳で生涯を閉じた。

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