【岡本宮南東の「エビノコ郭」は天武天皇が初めて造った大極殿!?】
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)で、秋季特別展・特別陳列「飛鳥宮と難波宮・大津宮」が開かれている。飛鳥宮跡ではこれまでに170次を超える発掘調査が行われてきた。その結果、最上層の遺構は天武・持統朝の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)だったとみられている。特別展ではその時期を中心にした様々な遺物・遺跡を通じて、天武天皇が追い求めた宮殿の姿を探る。30日まで。
壬申の乱(672年)の後、大海人皇子(天武天皇)は後飛鳥岡本宮に入り、その南東に宮室を造った。その遺構が見つかった場所の小字から「エビノコ郭」と呼ばれる。その一画にあった大型掘立柱建物の遺構こそ、天武天皇が681年(天武10年)に律令の編纂や『帝紀』『上古諸事』の記定を命じた大極殿ではないかとみられている。大極殿は藤原宮以降、天皇の占有空間となり国家の重大な行事だけに用いられる。(上の写真はエビノコ郭正殿の復原模型)
会場には浄御原宮の時期の木簡やエビノコ郭の下層から出土した土器類などが展示されている。木簡の中には681年に当たる「辛巳年」と書かれたものや、「大津」「太来」など天武天皇の皇子や皇女の名が記されたもののあった。天武天皇と皇后の持統天皇は浄御原宮で20年余、律令国家としての基礎を築く。この間、中枢施設は斉明天皇の岡本宮を踏襲したもので、エビノコ郭以外は自身の宮殿を造営しなかった。
天武天皇が追い求めた「新城(にいき)」の造営は持統天皇に引き継がれ、藤原京として実現する(694年遷都)。藤原京は十条十坊の正方形で、中央に宮城が位置した。この都づくりは唐や朝鮮三国の影響を受けない独特なもので、中国・周王朝の理想的な制度を記した『周禮(しゅらい)』考工記に記された都城の理想型(上の写真㊨)に基づくといわれる。(写真㊧は藤原宮大極殿=奥の樹木が茂る土壇=造営前の道路跡)
展示会場の〝エピローグ〟はこう結んでいた。「対唐・新羅戦争で大敗を喫した日本にとって、国家体制の立て直しは急務であった。天武天皇は東アジアにおける国際的地位を確保するため、天皇を中心とする律令国家の建設を推し進めた。宮都は律令国家を象徴する。だからこそ、天武天皇は理想的な姿をめざしたのである」。
会場には飛鳥京跡苑池から出土した「川原寺」との墨書がある土器、甘樫丘東麓遺跡出土の焼けた土器や壁土、難波宮跡出土の金製品や祭祀具なども展示中。川原寺の土器の1つ(写真㊧)には「川原寺の坏であるから取るな。もし取ったら災いが起こるぞ」という内容が書かれていた。甘樫丘出土の焼けた土器類など(㊨)は日本書紀の645年6月条に「蘇我蝦夷等、誅(ころ)されむとして、悉(ことごとく)に天皇記・国記・珍寶を焼く」とあることから、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした「乙巳(いっし)の変」の時のものではないかとみられている。