【清水昭博氏「飛鳥仏教と尼寺」と題し講演】
帝塚山大学(奈良市)主催の市民大学講座が10日開かれ、文学部准教授・考古学研究所所長の清水昭博氏が「飛鳥仏教と尼寺」と題して講演した。日本に仏教が伝来したのは6世紀中頃。以来、百済から男性の僧たちが交代で派遣されてきた。では日本最初の出家者は? 清水氏によると「6世紀後半に出家した善信尼ら3人の尼」で、日本から最初に百済に留学したのも僧ではなく尼さんだったそうだ。
善信尼は渡来人の司馬達等の娘・嶋。その弟子である禅蔵尼、恵善尼と共に、敏達13年( 584年)、蘇我馬子の要請を受けて桜井道場で高句麗系渡来僧の下、修行を積んだ。善信尼たちは588年、正式に受戒し比丘尼になるため学問尼として百済に留学、2年後に帰国し多くの尼の指導者になったという。
では飛鳥時代にどれくらいの尼がいたのだろうか。『日本書紀』推古32年(624年)の記録によると、46の寺があり僧816人、尼569人がいたという。尼が出家者全体のほぼ4割を占めたというわけだ。46の寺のうち何カ所が尼寺だったかは不明だが、「尼の人数からみて18~19カ所の尼寺があったとみられる」。善信尼たちが修行した桜井道場はその後、桜井寺と呼ばれ、推古天皇の宮の跡地に移されて豊浦寺になった。このため「記録の上で豊浦寺を最古の尼寺と位置づけることができる」。(写真は㊧豊浦寺跡、㊨坂田寺跡)
豊浦寺とともに『日本書紀』に登場する坂田寺、小墾田(おはりだ)寺も尼寺だったとみられる。坂田寺は鞍作鳥が金剛寺として建立した。小墾田寺は「大后寺」という法号で呼ばれた可能性も浮上しており、「大后=推古天皇の発願か、あるいは天皇の死を契機に創建された小墾田宮の付属寺院である可能性が考えられる」。小墾田寺があったのは明日香村奥山の奥山廃寺跡とみられる。
『法隆寺伽藍縁起并流記(るき)資財帳』に記された聖徳太子建立七寺の中にも橘尼寺(橘寺)、中宮尼寺(中宮寺)、池後(いけじり)尼寺(法起寺)、葛城尼寺の4つが含まれる。橘寺は聖徳太子生誕の地、あるいは上宮跡として知られる。中宮寺は太子が母の穴穂部間人皇后のために宮を寺に改めたといわれる。創建時の三重塔が残る法起寺は聖徳太子の遺言により息子の山背大兄王が岡本宮を寺に改めたのが始まり。葛城尼寺の所在地は諸説ある中で、橿原市にある和田廃寺跡とする説が有力になっている。
豊浦寺や小墾田寺に比定される奥山廃寺から出土した軒丸瓦はそれぞれ豊浦寺式、奥山廃寺式と呼ばれ各地で生産された。中宮寺の創建瓦には豊浦寺式と奥山廃寺式、法起寺でも奥山廃寺式が出土している。中宮寺は斑鳩僧寺の法隆寺に対し斑鳩尼寺とも呼ばれる。にもかかわらず創建瓦として法隆寺系統の瓦は採用しなかった。なぜか。清水氏は「尼寺のネットワークが介在していたのではないか」とみる。「豊浦寺、小墾田寺(奥山廃寺)はともに推古天皇が関わって造営された尼寺。そうした尼寺の影響力を瓦の分布は反映しているのではないだろうか」。