く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<書家・小筆凰外さん> 師匠没後40年を偲び京都・法然院で個展

2014年11月12日 | 美術

【自由闊達な作品約30点、来場者の前で書のデモンストレーションも】

 書道教室「墨心書芸」を主宰する書家・小筆凰外(こふで・おうがい)さんの個展が11日、京都市左京区の法然院で始まった。初代師匠の安井吾心氏の没後40年を偲ぶもので、書道歴40年余の集大成として自由闊達な作品約30点が並ぶ。会場の講堂正面入り口には師への尊敬と敬意を表す『敬』の1文字が飾られていた。16日まで。

 

 小筆さんが安井氏から手ほどきを受け始めたのは5歳の頃。その後、田中心外氏(元京都書道連盟会長)に習い、田中氏没後は小筆さんが「墨心書芸」を継承した。小筆さんは京都の教室数カ所で指導する傍ら、フランス・リオンの教室を拠点に海外でも書の普及に努めている。現在は京都書道連盟の常任理事。法然院で個展を開くのは初代師匠安井氏のお墓があることから。

 

 会場では毎日午後2時から書のデモンストレーションがある。初日はまず安井氏の遺墨『和顔愛語』『花竹秀』に一礼した後、来場者を前に師匠の思い出を語った。「とても怖くて厳しい先生だったが、今思えば優しさからの厳しさだったと思う。先生には書に向かう根本の精神を教えていただいた」。この後、丸い土器の皿と樹脂製のカンバスで書を披露した。

 土器は三重県伊賀市の陶芸作家・尾花友久氏が焼いた作品。小筆さんはその無地の皿を両手で触り、じっと見詰めながら、しばらく間を置いた後『輝』や『いろはにほへと』などを書き込んだ。続いて真っ白なカンバスに向かう。その様子を息を殺して見詰める来場者たち。小筆さんが『龍』の1文字を草書体のくずし字で一気呵成に書き上げると、一斉に大きな拍手が湧き起こった。

 

 会場内の壁面に飾られた作品はいずれも味わい深く見飽きることがない。いかにも文字がニコニコしているような『笑』、慈愛に満ちたお顔をかたどった『千手観音』、ほとばしる筆致の『然(ねん)』や『超越』……。詩人金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』や徳川家康の人生訓『人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し……』、さらに京の手毬歌『丸竹夷』をヲシテ文字で描いた作品などもあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<万葉文化館> 特別展「安野光雅 御所の花」

2014年11月11日 | 美術

【御所の四季の草花を描いた水彩画130点】

 奈良県立万葉文化館(明日香村)で特別展「安野光雅 御所の花」が開かれている。御所の庭を彩る四季の花々を描いた水彩画130点。その多くが淡い色調で、草花が生を謳歌する盛りを切り取った瑞々しい作品。安野の自然を見る温かい眼差しと謙虚な姿勢があふれている。24日まで。

 

 安野がこれらの一連の作品を描いたのは天皇・皇后両陛下の本の装丁に関わったのがきっかけ。2011年1月から翌12年4月にかけ数十回にわたって訪ねスケッチした。作品群を「春夏秋冬」ならぬ「春霞舟到」の4つに分けて展示している。「春霞舟到」は安野の私製熟語。「草花を春夏秋冬と分けても実際には分けられないものを分けている気がするから」という。(上の作品㊧サンシュウ、㊨バラ・エンプレスミチコ)

 会場入り口に「あいさつに代えて」として『自然はすべて美しい』と題した安野の一文が掲げられている。「水は低い方へ流れ、滝や淵をつくり、流れの音もうつくしいのですが、氾濫しない川はなく予期せぬ被害をもたらします。しかし、それもまた自然です。氾濫は人間に自然のあり方をおしえ、魚の棲家を掃除し、また新しく遡上する元気を与えています……」。そして最後にこう結ぶ。「ヒトも自然の一部です。むかしは『万物の霊長』などと自称しました。ほんとうは自然の中で一番いけないのは人間かもしれません」。

 

 130点の中にはススキやシラカバなど題材が重複した作品も一部含まれているものの、大半は1つの草木で1つの作品。御所の庭の草木の豊富さを示す。作品の中には皇太子妃時代やご結婚後に美智子さまに贈られた上品なバラの「プリンセスミチコ」や「エンプレスミチコ」、淡いピンクの縁取りが美しい「舞妃蓮」なども。ラッキョウは全国植樹祭で訪れた鳥取県から取り寄せて植えたものという。フユイチゴやツユクサ、ヤブランなどもあり、御所の庭では極力手を加えず自然のままにしているご様子もうかがえる。(上の作品㊧ヒオウギアヤメ、㊨ラッキョウ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<長田光男氏講演> 「郡山の〝西門さん〟―希代の文人・柳里恭」

2014年11月10日 | メモ

【書・画・俳諧・琴・弓…博学多才「人の師たるに足れる芸十六」】

 江戸時代中期の郡山藩士で文人画家、漢詩人などとしても活躍した柳里恭(りゅう・りきょう)に焦点を当てた講演会が9日、地元大和郡山市の薬園(やくおん)八幡神社参集殿で開かれた。主催は大和郡山市まちづくり会議。同市文化財審議会会長の長田光男氏が「郡山の〝西門さん〟―希代の文人・柳里恭」と題して講演、里恭の生い立ちや功績、郡山での足跡などについて語った。

 

 里恭は徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の筆頭家老の次男として1703年に生まれた。本名柳沢里恭の名は「さととも」だが、中国風の「りゅう・りきょう」の読みを好んだ。22歳の1724年、柳沢家は享保の改革に伴う幕府直轄領の再編で甲府から郡山に転封となる。屋敷が郡山城西門のそばにあったため地元の人々からは「西門さん」と呼ばれ親しまれた。(写真㊧は屋敷跡に立つ石碑、㊨里恭が揮毫した薬園八幡神社=講演会場=の石燈籠)

 幼少時から諸芸に才能を発揮した。江戸中期の国学者伴蒿蹊(ばん:こうけい)の『近世畸人伝』には里恭についてこう記す。「文学武術を始め人の師たるに足れる芸十六に及ぶとぞ 中にも画に長ず」。その16芸とは和漢学・俳諧・書・絵画・天文・暦学・易学・篆刻・琴・三弦・弓・馬・刀・槍・製薬・製陶。里恭は日本文人画の先駆者の1人ともいわれる。「淇園(じんえん)」「玉桂」「竹渓」などの号を持ち、池大雅は里恭に絵を教わるため度々郡山を訪れたという。

 郡山藩士としては一時期「不行跡未熟之儀相重」を理由に蟄居・家督剥奪の処罰を受けるという〝災難〟もあったが、54年には「大寄合」を命じられている。里恭が実現に取り組んだのが「播但通船計画」。下関から瀬戸内を経て上方(大坂)に向かう北前船の代わりに、荷を高瀬船に積み替え円山川を遡って但馬から播磨まで川と陸路で運ぶという大胆な構想。57年正月には幕府の許可まで得られたが、実現の直前で資金的な問題などで頓挫してしまった。心労からか里恭はその翌年、病に伏し56歳で生涯を閉じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<布目川の甌穴群> 円形の不思議なくぼみ「できるまでに数十万年!」

2014年11月08日 | アンビリバボー

【木津川の支流、地元笠置町の呼び名は「九つ壺」】

 木津川の支流・布目川(京都府笠置町)に、自然が長大な時間をかけて造り上げた「甌穴群(おうけつぐん)」というものがあると聞き、早速出かけた。笠置大橋のたもとから川岸に下り、JR関西線と並行する東海自然歩道を歩くこと30分余り。白い岩肌の中に人工的に刳り抜いたような直径1.5mほどのまん丸いくぼみ「甌穴」があった。

 

 あまり聞きなれない「甌穴」を辞書で引くと――「河床や海岸の岩盤のくぼみに入った小石や岩石の破片が、渦流によって回転しながら、岩盤に掘った丸い穴」(日本語大辞典)。英語では「pot hole(ポットホール)」と呼ぶそうだ。布目川の甌穴群のそばに立つ看板にも同じような説明に続いて「この辺りの河床は非常に堅い花崗岩で成り立ち、このような所に出来るものは珍しく穴が出来るまでには数十万年から数百万年かかるものと推定されています」とあった。えっ、数百万年! 想像も及ばない長い時間。

 

 

 甌穴群がある場所は布目川水力発電所のすぐ上流側。「京都の自然二百選 布目川」という四角柱を過ぎると、まもなく「甌穴群」の看板が立っていた。そばの階段を下りて川岸を見渡すと、程なく直径1.5mほどのくぼみが見つかった。その近くにも同じぐらいの大きさの穴。その中には丸く削られたような石が1つ入っていた。一帯には甌穴が大小9つあるらしく、地元の人たちは古くから「九つ壺」と呼んできたという。

 改めて甌穴について調べてみると、奈良県でも吉野川・宮滝(吉野町)にあることが判明。さらに全国的には愛媛・柳谷渓谷の「八釜の甌穴群」が国の特別天然記念物に指定されているのをはじめ、群馬・四万川(しまがわ)、長野・寝覚の床、岐阜・飛水峡、大分・耶馬溪猿飛千壺峡など各地で見られることが分かった。自然は永年掛けて造り上げた渓谷美の中に、さらに甌穴という不思議なデザインも刻み込んでいた。

 

 甌穴群探訪のおかげで新しい発見もあった。笠置大橋に近い木津川河川敷には巨岩がゴロゴロ。岩登り「ボルダリング」のメッカになっており、何組もの男女が巨岩に挑戦していた。ネットの「笠置ボルダーマップ」をのぞくと、30余の巨岩1つ1つに「ゾウ岩」「おむすび岩」「バカボン岩」などの名前が付けられていた。もう1つの発見はカヌー。川岸に「遊びカヌー発祥の地」という真新しい石碑が立っていた。碑文によると、建てたのは日本カヌー普及協会で1年前の昨年9月に建立。11月はオフシーズンと思いきや、甌穴群に向かう途中、眼下の木津川で1人カヌーを操る男性がいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<唐古・鍵考古学ミュージアム> 企画展「弥生遺産Ⅱ~唐古・鍵遺跡の木製品」

2014年11月07日 | 考古・歴史

 【木製品の樹種は広葉樹が全体の4分の3、用途・目的に応じて選択】

 唐古・鍵考古学ミュージアム(奈良県田原本町)で秋季企画展「弥生遺産Ⅱ~唐古・鍵遺跡の木製品」が開かれている。弥生時代を代表する環濠集落で、国の史跡でもある唐古・鍵遺跡。1930年代に始まった発掘調査ではこれまでに木製品、石器、土器、青銅器など様々な遺物が出土した。今企画展では「木」に焦点を当て、出土した木製の農具や狩猟具・漁労具、食膳具、武器などを展示している。12月14日まで。

  

 出土した木製品には多種多様な木材が使われた。遺物1000点余を樹種別に分類したところ、広葉樹が全体の4分の3を占め、中でもブナ科(全体の39%)が突出していた。クリやドングリなどの実を付けるものもあるブナ科は食料としても不可欠な木だったとみられる。ブナ科に属するカシ類は堅くて丈夫なため、鍬や鋤などの農具や斧柄として利用された。広葉樹でブナ科に続くのはクワ科(全体の7%)、ニレ科(6%)、ツバキ科(4%)。クワ科のヤマグワは食膳具の高杯や匙、杓子などに多く使われている。

 針葉樹で最も多いのはヒノキ科(全体の8%)。これにマツ科(3%)やイチイ科、コウヤマキ科(いずれも2%)が続く。武具の盾は出土した14点全てが針葉樹で、その大半はマツ科モミ属だった。弓にはしなやかで反発力のあるイヌガヤが多く用いられていた。樹種の分類により、弥生人が木の特性を理解し、用途や目的に合わせ最適な樹種を選択していたことが分かった。

 

 これまでの発掘調査では弥生中期初頭と中期中頃の2棟の大型掘っ立て柱建物跡が見つかっている。規模はいずれも長辺11.5m、短辺7m余りで、柱を立てるための穴は幅が長軸で約2mだった。今企画展ではそのうち中期中頃の建物跡で見つかった弥生時代最大級の直径83cm、長さ2.5mのケヤキ柱も展示中(写真㊧)。樹齢は110年で、炭素年代測定法では紀元前275年と同170年頃の2つの可能性があるという。

 この巨大な柱はなぜか斜めに傾いた状態で出土した。この柱が巨大すぎて建物解体時に抜き取ることができず、横穴を掘って倒し放置したのではないかとみられている。柱の下部には2孔一対の目途孔が開けられ、うち1つの内部には14本1束になったツルが残っていた。運搬用のロープとみられる。その柱の隣には黒田龍二・神戸大学大学院教授によるこの大型建物の復元模型(50分の1)も展示されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ヒャクニチソウ(百日草)> なが~い花期、初夏から晩秋まで

2014年11月06日 | 花の四季

【メキシコ原産、日本には江戸時代末期に渡来】

 キク科ジニア属(ヒャクニチソウ属)の春蒔き1年草。原産地はメキシコで、日本には江戸時代末期に米国から渡って来た。運び込んだのは1860年(万延元年)に江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のため派遣した遣米使節。持ち帰った種子の中にパンジーやペチュニア、ネモフィラなどとともにヒャクニチソウも含まれていたという。

 和名「百日草」の通り、花期は夏から晩秋までかなり長い。そのため当初は「ウラシマソウ(浦島草)」や「チョウキュウソウ(長久草)」とも呼ばれた。ただ現在「ウラシマソウ」といえば一般にサトイモ科の多年草を指す(2013年4月28日付ブログ参照)。夏の暑さに強く花ちもがいいため、日本では長くお盆の花としても仏壇を飾ってきた。

 属名から「ジニア」とも呼ばれる。18世紀のドイツの医師・植物学者のJ.G.Zinn(ジン、1727~59)に因む。メキシコからスペイン、さらにドイツに渡ってきたこの花について書き記していたという。植物分類学の父リンネが若くして亡くなったジンを惜しみ「ジニア」と名付けた。ブラジルでは「魔除けの花」「幸福を招く花」として親しまれ、リオのカーニバルに欠かせない花になっているそうだ。

 原種は紫色の一重の小花だったが、欧州や米国、日本で様々な園芸品種が生まれた。花色は赤、紅、黄、白、橙など豊かで、青以外はほとんどあるともいわれる。花径は小輪から15cmほどの大輪まで、咲き方もダリア咲き、半球形のポンポン咲き、花びらが筒状に細く巻き込むカクタス咲きなど実に多彩。「百日草百日の花怠らず」(遠藤梧逸)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<和束天満宮> 奇跡の石「ハチマキ石」と「絆の石」が本殿前に鎮座!

2014年11月05日 | アンビリバボー

【3年前に境内で発見された「天神様の贈り物」】

 京都府相楽郡和束町の鎮守社「和束天満宮」。室町時代の社殿建築様式を残す彩色鮮やかな本殿は国の重要文化財に指定されている。その本殿手前向かって左手には天満宮らしく神牛が飾られている。ところが右手の置き物はなんと不思議な模様の2つの石で、小さな檻(おり)のような箱の中に〝鎮座〟していた。

 

 和束天満宮は京都府道5号木津信楽線沿いにある。983年に京都・北野天満宮より円融天皇の勧請で菅原道真公を祀ったのが始まり。本殿は南北朝の兵乱で1336年に焼失したが、その12年後には再建された。一間社流造りで、唐破風付きの拝殿に併設された赤い鳥居をくぐると、すぐ本殿に突き当たる。拝殿には日清戦争への地元出征者名を列挙した「征清紀念」という奉納板も掲げられていた。

 

 

 石が納められた箱の上には「奇跡」と銘打って、こんな説明が添えられていた。「四六億年前のヘドロとマグマの化石 天満宮境内から天神様の贈り物 ハチマキ石と絆の石 御神徳を戴いて出現 世の人々のために元気を与え絆を深めて 願い叶え給え」。ハチマキ石が右側で、絆石が左側ということだろう。黒い石の表面に金色に輝く模様。なんとも不思議な造形だ。

 

 これらの〝奇石〟が見つかったのは2011年8月というから、まだそんなに古い話でもない。それまで本殿向かって右手前には左側の神牛と向き合う形で神牛が置かれていたようだ。府道を跨ぐ朱塗りの橋を渡ると、鬱蒼とした社叢が広がる。その森閑とした中に春日神社や梅宮神社の本殿(上の写真=いずれも京都府指定文化財)などの摂社が鎮座する。普段訪れる人は少ないが、山城地区の新パワースポットとして注目を集め始めるかもしれない。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<飛鳥資料館> 秋季特別展「はぎとり・きりとり・かたどり―大地にきざまれた記憶」

2014年11月04日 | 考古・歴史

 【藤原京トイレ遺構、山田道敷葉遺構、山田寺出土壁材…】

 奈良文化財研究所の飛鳥資料館(明日香村)で秋季特別展「はぎとり・きりとり・かたどり―大地にきざまれた記憶」が開かれている。奈文研埋蔵文化財センターの設立40周年記念展。飛鳥・藤原地域の発掘調査で見つかった主要遺跡の土層・地層の表面や断面の〝実物〟を一堂に展示している。11月30日まで

 

 剥ぎ取りは土層や遺構の表面を薄い樹脂で固め布で裏打ちして剥がし取る方法。奈文研埋文センターが開発した技術で〝土層転写〟とも呼ばれる。剥ぎ取りでは様々な凹凸ができることも。これは土の中にめり込んだものが一緒に取れるため。藤原京のトイレ遺構の断面剥ぎ取りには当時トイレットペーパー代わりに使われていた籌木(ちゅうぎ)がそのまま刺さっていた(上の写真㊨)。遺構からはウリの種や魚の骨などの食べかすも見つかり、寄生虫の卵も検出された。

   

 吉備池廃寺の塔基壇の断面剥ぎ取り(上の写真㊧)には九重塔を支えるために黄色い土を何層にもつき固めた版築(はんちく)が見られる。基壇は一辺が32mもあり、法隆寺五重塔の4倍以上の広さ。右下から左上に伸びる傾斜は心柱を引き上げるための斜路だった。型取りは型を切り取って実物をレプリカで忠実に再現する方法。石室内の女子群像壁画などで有名な高松塚古墳では、石室解体に伴う調査で墳丘を切り裂く多数の地割れが見つかった(同㊨)。南海地震による痕跡とみられている。

 

 切り取りは実物をそのまま切り取り、ウレタン樹脂で梱包したり液体窒素で硬化したりして保存する。古代飛鳥の幹線道路、山田道の敷葉(しきば)遺構(上の写真㊧)には葉の付いた小枝が南北にそろえて敷かれていた。敷葉工法は不等沈下を防ぎ水はけを良くするのが目的。中国や朝鮮半島でも同じような遺構が見つかっており、ここからも往時の大陸との交流の一端がうかがわれる。飛鳥池工房から切り取りした炉(同㊨)は内面に炭の一部が残り、固く焼き締まっていた。

 山田寺出土壁材の切り取り部分も展示されている。山田寺が完成したのは685年。約30年前、土砂崩れで倒壊・埋没していた東面回廊が倒れたままの状態で見つかった。特別展には連子窓脇の小脇壁など(下の写真㊧)を展示中だが、別の第2展示室では3間分の回廊壁面がそっくり展示されている(同㊨)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<京都府和束町> 宇治茶の主産地で第3回の「茶源郷まつり」

2014年11月03日 | 祭り

【世界のお茶の試飲やお茶づくり屋台村、茶畑ツアー】

 宇治茶の主産地、京都府相楽郡和束町で1~2日「茶源郷まつり」が開かれた。茶畑の美しい景観から桃源郷ならぬ茶源郷として町の魅力を発信しようと一昨年にスタートしたまつり。和束運動公園を中心に世界のお茶の試飲やお茶づくし屋台村、お茶畑ツアー、農産物の即売、音楽ステージなど多彩なイベントが繰り広げられた。

 

 和束町の茶づくりは約800年前の鎌倉時代に遡る。海住山寺の高僧・慈心上人が茶業興隆の祖といわれる栂尾の明恵上人から種子をもらい受け、鷲峰山山麓で栽培したのが始まり。原山、石寺、撰原(えりはら)など起伏に富んだ丘陵地に茶畑が広がっており、その景観は2008年に「京都府選定文化的景観」に選ばれた。

  

 運動公園内の「世界のお茶を楽しむエリア」には日本各地の茶産地をはじめ中国、スリランカ、シリア、トルコ、英国など29の団体や業者が出店。オリジナルの玉露茶碗(200円)を買い求めると、その杯のような小さな器で内外のお茶を楽しむことができる。多くの観光客がお茶を飲み比べ、最後に出品者の一覧表に気に入ったお茶を示すシールを貼り付けていた。

 

 「お茶づくし屋台村」には30店余が出店していた。抹茶を使ったコロッケやドーナツ、カステラ、茶団子、茶そば、茶うどんなどまさに茶づくし。中には茶ビールや茶フランクフルト、茶カルビ丼なども。そのそばには一般の食品や雑貨などを扱う「フリーブースエリア」もあり、こちらには約40店が出店。一角に「宇治茶生産の景観を世界文化遺産に」というPRブースも設けられていた。

 運動公園手前の「体験と学びのエリア」では茶娘衣装体験や手もみ製茶の実演、中国茶教室、茶歌舞伎体験なども行われた。茶歌舞伎は闘茶や茶香服ともいわれるもので、名前を伏せて茶の種類や産地を当てる遊び。歴史は古く、鎌倉末期に中国の宋から伝わってきたといわれる。茶歌舞伎の呼び方は歌舞伎役者がその遊びを愛好していたことにちなむそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ノコンギク(野紺菊)> ヨメナとともに秋の路傍をさりげなく彩る野菊

2014年11月01日 | 花の四季

【キク科シオン属の日本固有種、若葉は食用に】

 秋の野山や路傍でごく普通に目にする野菊の1種。キク科シオン属の日本固有種で、本州から四国、九州にかけて分布する。花期は8~11月頃。高さ50~100cmの茎の先に径2.5cmほどの花を付ける。中心の黄色の筒状花から薄紫色の舌状花が放射状に伸びる。「野紺菊」の名も野に咲く紺色の菊から。

 花姿がよく似たヨメナ(嫁菜)がやや湿った所を好むのに対し、ノコンギクはやや乾いた明るい場所を好む。地域によって花色の濃淡や葉の形が変化に富む。関西ではヤマシロギク(山白菊)との雑種とみられるものもあって区別がつきにくいケースもあるという。「コンギク(紺菊)」はノコンギクの花色の濃いものを選んで栽培した園芸品種。

 仲間にホソバコンギク、タニガワコンギク、ハマコンギク(別名エノシマヨメナ)、エゾノコンギク、ヤクシマノギクなど。チョウセンノコンギクは朝鮮半島~中国北部に分布する。ノコンギクは他の野菊と同様、古くから若芽・若葉が食用とされてきた。葉の香りから「キクナグサ(菊菜草)」や「ナンヨウシュンギク(南洋春菊)」といった別名もある。

 一般に野菊と呼ばれるものにはシオン属のノコンギクやヤマシロギク、シラヤマギク(白山菊、別名ムコナ=婿菜)、ヨメナ属のヨメナ、ユウガギク(柚香菊)、キク属のノジギク(野路菊)、リュウノウギク(竜脳菊)などがある。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の野菊はノコンギクともカントウヨメナ(ヨメナの変種)ともいわれる。「野紺菊えにしの光こぼるるよ」(伊藤敬子)。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする