杜甫も歌っています、この“不重生男<オトコヲウムヲ オモンゼズ”の風潮を、また、陳鴻の長恨歌伝では
“生女勿悲酸 生男勿喜歓 又曰 男不封侯 女作妃 君看女却為門楣”
と、歌っています。
「女性を生んでおけば、将来、貴族の家にお嫁に行って、その家の門の楣<ヒサシ>、即ち、その家を支える有用な梁のような人に出世できる。」
ぐらいの意味になります。「酸 <イタム>」で、悲観するという意味です。
当時は「男尊女卑」を絵にかいたような時代です。歴史的に見ても、ヨーロッパでもそんな社会でした。そんな社会風潮をひっくり返すようなことが言われたのです。中国社会全体で、何かおかしげな社会になりはしないかと、人々を、男も女の含めて、不安に陥れてことには間違いありません。だから、あの杜甫だって、それをテーマにして、歌わざるを得ないような環境だったのだろうと推測されます。
そなん人々の不安をよそに、玄宗皇帝の生活は
驪宮高處入雲 驪山にある離宮は雲の中に入るかと思われるほど高くそびえ立ち、
仙樂風飄處處聞 仙人が奏でるような音楽が風に乗って、処々<あちこちから>聞こえてくる。
緩歌謾舞凝絲竹 「糸竹」は琴や笛の音です。それに合わせてゆったりと、楽師たちが歌ったり舞ったりしている中に二人とも溶け込んでしまっている、
盡日君王看不足 それを玄宗は一日中見ていても、「看不足」見飽きることがなかった。
たった二人だけで、尽日、生活していたわけではありません。大勢の一流宮廷楽師の奏でる音楽や踊りを見ることで一日を過ごしていたのです。話に聞くところによると、玄宗は大変な音楽家であり、多くの楽器を自分で演奏もしていたようです。また、楊貴妃は「磬」という楽器の名高い演者でもあったと云われます。だから、二人は、只、音楽を聞くだけではなく、自らも楽器を演奏して楽しんだのではないでしょうか。