私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

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2015-12-26 13:27:55 | 日記

   蜀の都「成都 」での皇帝の生活は 1年2カ月になり、ようやく安禄山の反乱も平定されます。それを詩人は             

     “天旋地轉迴龍馭”

 <天は旋(メグ)り、地は転じて>天下の情勢が一変して反乱軍破れ、<龍馭(リュウギョ)を回らす>天子の車が、再び、都「長安」に向けて出発していったのです。来た道を帰ります。すると、どうしてもあの楊貴妃が亡くなった馬嵬駅に至ります。

    ”到此躊躇不能去”
 「到此」とは、楊貴妃の死んだ馬嵬です。此処まで来て、玄宗皇帝は、どうしても、楊貴妃のことが忘れ難く躊躇して立ち去る事が出来なかったのです。

   “馬嵬坡下泥土中”
 「坡下<ハカ>」とは簡単に土を盛り上げて作った塚には楊貴妃が葬られており、


 “不見玉顏空死處”
 玉のような愛らしい楊貴妃の顔は、再び、見ることはできないのだ。虚しく死んでいったであろう楊貴妃のことが無性に思い出されて仕方ない。立ち去り難い
気持ちが誰の心にも自然とわき出るようでした

 “君臣相顧盡霑衣”
 玄宗もその臣下の者も、尽<コトゴト>衣をう沾<ウルオ>す。楊貴妃の事を思って涙を流してやまなかった、

 ”東望門信馬歸”
 去りがたい思いながら、東にある都を目指して力無く馬を進めていった。「信」は「まかせて」です。


杜甫の絶句

2015-12-25 16:51:56 | 日記

 昨日“蜀江水碧蜀山青”と、成都の春の風景を歌っておると書いたのですが、この「水碧」、「山青」は、元々、白居易と同じ唐の先輩の杜甫の詩に見ることができます。(杜甫が死去した時に白居易は生まれております)
 杜甫は、実際、一時、成都に移り住んだことがあるのですが、その時に作られた歌がありますのでご紹介します。

 これも,また,私の自慢話みたいになって恐縮ですがお見せします。(杜工部集巻十三;安政年間)

                       
 彼の「絶句二首」から
 お分かりのように、二首目に見えます。「江碧にして鳥愈よ白く。山青くして花燃えんと欲す」と。これは完全なる白居易の盗作となると思うのですが、そこが只の盗作ではありません。その成都の春の燃えんばかりの風景の中にいるにもかかわらず玄宗皇帝のそのやるせない感情
       “朝々暮々の情”
を書き表すために、敢て、先輩杜甫のこの詩の一部を取り入れることによって、より文学的な価値を高める効果を狙っての事だと思われます。

 

 尚、蛇足ですが、杜甫は安禄山の反乱に対する思いを詩に書き現わしておりますので、老婆心ながら、ご紹介しておきます。

  “万国尚戎馬 故園今若何 昔帰相識少 早已戦場多”

 と。
 <故郷は戦場になっており、我が故郷落陽は今いったいどうなっていることやら。昔から知っている人も、此の戦禍を避けて何処かへ行ってしまって少なくなってしまっていることだろう。どこもかしこも戦場と化していることだろう>
 というぐらいの意味になりはしないかと思います???


蜀江水碧蜀山

2015-12-24 10:00:32 | 日記

     楊貴妃を失った玄宗皇帝の一行はようやくその目的地、蜀の国「成都」に到着します。その成都は、当時でも、相当な繁華街であったはずなのですが、詩人は書いております。 

   峨嵋山下少人行      
            峨嵋山麓の成都へと着いたが行く人少なり。[道を行きかう人も少なく]
           
    旌旗無光日色薄      
            旌旗(皇帝の御旗)は光なく、日の色も薄し。[あせて威光は感じられなかった。]
          
  蜀江水碧蜀山
       蜀の国を流れ下る揚子江の川の水は碧で滔々と流れており、辺りの山々は青々と精気に満ちております。

  聖主朝朝暮暮情
            しかしながら、そのようなの蜀の雄大なる自然の中に居ても、玄宗は朝も夕も楊貴 妃 のことを思い浮かべて悲しんだ。

 その忘れようとしても、決して、忘れることができな玄宗の心を、白居易は”朝々暮々情”と歌ったのです。その哀愁の心を。そして、その後、この成都における玄宗の生活について
        
  行宮見月傷心色      
     成都での仮の御所で月を見れば、心を痛ましむる色がその月影の中にくっきりと見えるようであり

  夜雨聞鈴腸斷聲      
     特に、雨の夜は、遠くで鳴る駅馬車の鈴の音が、その行宮の中にまで届き、楊貴妃の事がより一層思い出され、益々、断腸の思いにさせるのです。

  なお、「蜀江水碧蜀山」については、長くなりますので、明日、また、ご説明します。


「看」か「首」か「頭」か

2015-12-22 15:17:27 | 日記

 ちょっとてんてこりんな題になったのですがお許しください。

 というのは、昨日

    “ 君王掩面救不得 回看血涙相和流 ”

 と、玄宗皇帝が楊貴妃を失っての悲しみを歌った場面を説明したのですが、これを普通は、

 「君王は面を掩<オオ>い 救わんとして得ず。 回<カエ>り看<ミ>れば血と涙と相い和して流る」

 と読まれているのですが、私の「校本古文前集」には、「回看」が「回首」となっており、そして

          

 「首を回ぐらせて」と読ませ、首は頭のことで、「過去のことをふりかえって思う」という意味になるのだそうです

 その他の本には、この部分が「頭」となっている本も当然あるようです。まあ、内容的に見れば、「看」も「首」もそんなに大きな意味での違いはないのですが、このように、その原本はなくて、その写しが出廻っているのですからどれが正しいのやら分かりません。それぞれに学者が自分勝手に解釈して「これが正しい」のだと勝手に決め付けただけに過ぎません。あまり問題にせずとも好いのですが、私のお師匠さんはやたらと自分の意見を強調していたことを思い出して此処に書いてみただけです。


血と涙相和(まじ)リて流る

2015-12-21 10:39:33 | 日記

 さて、長恨歌に戻ります。「宛転蛾眉馬前死」の後です

   ”、翠翹金雀玉搔頭 ”」

 「鈿<デン>」とは女性の額を飾るかんざしです。「委」てられて、地に落ちて居てもそれを誰も拾い上げる者もいません。翠翹はカワセミの羽で作った緑色のかんざし、金雀は黄金の雀の形をしたかんざし、玉搔頭は、玉でできた髪かんざしです。楊貴妃がそれまでいかに皇帝の愛を一人占めしたか、それほど高貴な大変な美女であったか、そんな高貴な女性が使っていたものです。大変な高価な品物であることには違いありません。それなのに、此の地の人は誰一人としてそれを拾おうとはしないのです。ということは、この地では楊貴妃の事について知る人がいなかったさびしい土地であったということです。
 そのような傾国の美女ですら、人知れず偏狭な地で死んで行ってしまったのだ、人生とは誠に不可思議で無常なものだということを、「無人収」の3字の中に、詩人は歌いこんでいるようでもあります。「収むる人も無し」と、日本語では読ませております。哀れさが深く胸打つ感じがする読み方です。

そのような楊貴妃の死体を残して馬嵬駅を後にする皇帝です。それを、

”君王掩面救不得、回看血涙相和流”
  「君王は面を掩い 救わんとして得ず」-顔を覆うばかりで助けることもできず、振り返る目からは血の涙が流れた。「血と涙が相「和」<マジリテ>流れる」と歌っております。
 そのようにして、馬嵬駅を出発してい、よいいよ道中で一番の難所「剣閣山」を越えて行かねばなりません。

 

黄埃散漫風蕭索、雲棧縈紆登劍閣 - 黄色い砂塵が舞い、風がものさびしく吹きすさぶ。雲にかかるほどの険しい道を剣閣へと登る。
峨嵋山下少人行、旌旗無光日色薄 - 峨嵋山のふもとには道行く人も少ない。天子の御旗も今は光なく、日の光さえ弱々しい。
 
 「散漫」とは一面に広がることです。「蕭索」とはものさびしことで、黄塵は舞い、風はひゅうひゅうとものさびしげに吹きまくります。そして、「雲棧」、峰々に横たわる雲は「縈<ウネリ>紆<クネリ>」しながら剣閣山を覆い尽くしております。ちょうど楊貴妃を失った翌日のことです。それからしばらく進むと目的地「成都」まではすぐ近くす。蛾嵋山もすぐ近くに見えます。