僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

余裕のない行動

2020-06-22 | Weblog
今日はどうしても出社する必要があり、久しぶりに電車に乗っていつもの通勤コースを歩いた。
で、たまに寄る喫茶店の前を通って思い出した。全くお金を持たずにコーヒーを飲んだことがあったことを。
会社にいる間は社員カードで飲み食いもできるので、その日は家に財布を忘れてきたことに気付いていなかった。しかも、万が一のためにと携帯や定期入れに入れていた千円札もたまたま数日前に小銭が必要になった際に使ったまま補填していなかったので、まさしく一文なし状態。
さぁ、お金を払って帰ろうと思ったら全くお金がない。会社からも離れていたから誰かにお金を借りに会社に戻ることも出来ない。仕方なく会社の名刺を渡し、間違いなく支払いに来るからということで許してもらったが、今となってはちょっと余裕のない行動だったかななんて思う。

例えば、
「お金?なんですか、それは!?カードでしか支払いをしたことがないんだよね」
「いつもお付きのものがお金を持っているんでね」

なーんでジョークのひとつも言える余裕があっても良かったんやないやろか。大阪人なんやし。
ま、そんなことホンマに言ってたら今頃仕事のないテレワークをしてたやろうけど。

F

2020-06-18 | Weblog
先日、マリーゴールドのギターの弾き語りを始めた8歳の孫の話を書いた。
とても楽しいみたいでとりあえずもう3日間は毎日10分程度弾いている。
ホントにあっという間に上達して最初の4小節のコードチェンジはほぼ歌に遅れることなく移動できるほどだ。

今キーは一番簡単な「C」で練習しているのだが、この曲をCで弾くと、次の小節以降に「F」というコードが出てくる。これはいわゆるバレーコードというもので人差し指で1弦から6弦までを全て押さえないといけないのでそれなりの握力をつけてコツを掴まないとなかなか音が鳴らない。せっかく楽しくギターを弾き始めたのにここで辞めてしまう人も多いというギターの最初の難関である。



そこで私は孫には、とりあえずFはFメジャーセブンという押さえ方でいいと教えている。



コードダイヤグラムの5弦6弦は鳴らしてはいけないと書いてある本が多いが、別に鳴ったところでコードの構成音なので問題はないし、例えばちょっとくらい基本の3~4和音に違う音が混ざってもそれはテンションコード(理屈など分からなくても)という感じ方をすればそれはそれでいい。ようするにきちんとピッタリな音が出なくても音の構成が似てればいいのだ。イメージ通り歌えればいいのだ。これだとセーハするよりはるかに簡単だし、セーハはそのうち弾けるようになってから覚えたって問題ない。今はとにかくギターが楽しくて仕方ない、という気持ちを削がないでいてやることだ。続けさせてやることが一番大切なのだ。

「テキトーでええねんで」と教える私を彼女はどう思ってるのだろう。
「そうやって人生テキトーにこなしてきたからじいじは何者にもなってないねんやんか」なんて言われる日が近いかもしれませんね。


仮定の話

2020-06-17 | Weblog
「仮定の話にはお答えできません」
政治家の方々にはとにかくこの回答が多い。
聞かれてるのは「もし~だったらどうしますか?」ってことでしょ?
人生1分先も分からない訳で毎日がその繰り返し。もしこうなったらこうしようということは無意識であっても常々考えているはずなのになんで答えられないのかね。
選挙に出馬する方々の政策なんて全部が、もし~だったらこうしますという仮定のことばっかりやのに。

ただ、言いたいことが、
「今と同じ状況は二度とない。その時になってみないと分からない」
ということなら正論だと思う。でもそれならそうと言わんとね。

今日も「明日は契約社員としていられるか明日になってみないと分からない」と、もがきながら働いている私であります。

マリーゴールド

2020-06-15 | Weblog
我が家にいる4人の孫の中に、8歳になる唯一の女の子がいる。
他の孫たちは私のギターに興味を示さないがこの子だけは興味を持っていて、これまでに何度か弾かせたことがあり、ぞうさんの最初の部分だけは弾けるようになっていた。その子が今日また、ギターを弾きたいと言う。今日は何をしたい?と聞くと、あいみょんのマリーゴールドを弾いてみたい(弾き語りしたい)と答えた。
私は最近のミュージシャンをよく知っている訳ではないが、このあいみょんという子は詩の世界観が独特で面白いなぁと思っていたし、たまたま曲を知っていたので教え始めたら、音はまともに鳴らないものの、押さえ方は一度教えただけで5分もしないうちに覚えてしまった。しかも、ここの音の響きは明るいけど、次のここは暗い感じやなぁ、とか、ここで押さえ方が変わるねんな、とか、じじバカかも知れないが、信じられないほど音楽を理解している。
毎日5分でも弾けばすぐ弾けるようになるよ、というと明日から毎日弾いてみるという。
マリーゴールドは聖母マリアの祭日に咲いていたため「マリア様の黄金の花」とも呼ばれている。花言葉は変わらぬ愛や悲しみ、とある。
「天才ギタリストの祖父」という称号がふと見えた私は、どうも変わらぬ悲しみのほうに近いみたいです。




ぞうさん

2020-06-14 | Weblog
先日、1歳半になる一番下の孫が、初めて動物園に連れていってもらっていた。
その後、テレビで色々な動物が映るたび、嬉しそうに近寄っていくのだが、どうも象は特別好きなようではしゃぎ方が違う。
そういえば自分の娘二人も「ぞうさん」と言ってたことが一番多かったように思い調べてみたら、象はやはり動物園での陸の動物の一番人気らしい。


【アンケートについて】
■調査地域:全国
■調査対象:未就学のお子さまをお持ちの保護者のかた
■調査期間:2016年8月22日~2016年9月5日
■調査手法:「Yahoo!クラウドソーシング」におけるWebアンケート
■有効回答数:4,853名

色々要因はあるようだが、個人的に決め手はやっぱりその優しそうな見た目や大きさやにあるんじゃないかと思う。「気は優しくて力もち」が子供は大好きだから。

どんどん忘れっぽくはなるわ、非力になっていくわ、器は小さいわ、おまけに一番下の孫に「じいじだぞう!」なんて言ってる私なんぞは家で一番人気がなくて当たり前ですよね。

多目的

2020-06-11 | Weblog
大好きな割烹料理屋があった。
食事代が高いので年に数回程度ではあるが何度も行った。残念ながら今は閉店してしまったが。
その店でいつも感じていたのは、「隙がない」ということだった。前菜から最後のデザート、お茶にいたるまで、全てがおいしい。もちろん接客もしかり。
料理は数々のパーツからなる作品で、全てのパーツが優れていないと高い質の作品はできない。いくら前菜からメイン料理まで全てがおいしくても最後のお茶がまずければそれで終わりだ。高級と言われる料理であればあるほどに。
仕事や人間関係もまた同じである。何年もかけて築き上げた信用でさえ、たった一度のミスで一瞬で消え去ることもある。
ならば人生には一瞬の隙もミスも許されないのかというともちろんそんなはずはなく、「隙やミスを許せる人という信用」があればいい。
多目的トイレを多目的に使っただけだと笑って許してもらえるか。
はたまた多目的トイレをそんなことに使ってなんたる人間なんだと非難されるか。
後者になってしまった彼は、周りに隙がない人だと思わせてしまったんじゃないか。
本当に愛されて信用される人は結構隙だらけなもんだよ。

※芸能人には興味がないが、今日は芸能人の多目的トイレネタがあったのでちょいと書いてみました。

カラスとプリン

2020-06-10 | Weblog
手を伸ばせば届くような所にカラスが2羽止まっていた。
うち1羽は少し残ったプリンの容器を咥え、なめた表情で私を見ている。まるで私に「これ欲しいねやろ」と言ってるみたいに。

動物の体全体の大きさに占める脳の大きさの割合を示す値として「脳化指数(EQ)」というものがあり、脳化指数(EQ)は、以下のような計算方法で算出されるとある。
[EQ] = [定数] × [脳の重量] ÷ [体重]2/3
人間で約7.4〜7.8、イルカが5.3、猿が1.7〜2.7といった値だが、カラスは何と1.50。犬は1.2なので、脳の割合は犬よりも大きいと言える。

最初に勤めた会社の重役に妙に気に入られ、社内では「〇〇は△△重役の犬や」と呼ばれたことのある私。あまりのバカさ加減に犬以下やなと言われたことのある私。

カラスに犬程度に見られプリン好きを見抜かれていたとしても大して不思議ではないか。

いい一日

2020-06-09 | Weblog
6月7日 日曜日 晴れ。

蛍を見た。
美しい月を見た。
おいしい食事をした。
楽しいバンド練習をした。

これだけのことなのにとてもいい一日を過ごせたと、ものすごく幸せな気持ちになった。
コロナで活動が制限されていると、今まではどうって思わなかった小さなことがいっぱい輝いて見えてくる。

「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」

戦争下、戦意高揚のために用いられてたこれらの標語・行動に小さな幸せを感じていた人も相当数いたのではないか。
戦時標語に共感するなんてやっぱり「ウィルスとの戦争」という表現は正しいのかも知れない。

やってみなはれ

2020-06-08 | Weblog
「やってみははれ やらなわからしまへんで」
サントリーの創業者 鳥井信治郎氏の有名な言葉だ。
氏の言葉を聞いたからではないが、私は子供の頃からこのタイプの人間である。
確か小学校低学年の頃だったと思う。自分はスーパーマン並みの力を持っていると信じていた。
ある日、家の前を走っているバス(多分スクールバス)を見て思った。自分ならあのバスを止められる、と。正面から止めに行くとバスは自分を見て止まってしまう。でも後ろから引っ張れば分からないだろう。
全く悩みはしなかった。バスが低速で走っている時を狙ってバスの後ろのバンパーを掴んで踏ん張った。これでバスは動けなくなる。
答えは明白だ。当時はまだ舗装されていない砂利道を20~30m引きずられて両足のかかととおしりがずるムケの血だらけになり、バスが速度を落とした時にそそくさとバスから離れた。
ボロボロになった靴と服、血だらけの私を見て母親がどないしたん!?と心配していたなぁ。バスを止めるつもりだった話をしたらどえらく叱られたが。
でも62歳になった今もあまり変わりはない。母親が生きていたら怒られることばかりしている。
鳥井氏に私のような部下がいたらおっしゃることは変わっていたかも知れない。
「やってみなはれ やってもわからしませんで」


タダでは転ばない

2020-06-05 | Weblog
「間隔は4m空けています」
コロナ対策としてあるお店の看板に書いてあった。さて、これはどんな店でしょう。
実はこれ、(ちょっとおしゃれな感じの)居酒屋さん。
よほど広いお店でないと端から端までで4mになってしまうやん、と思われるかも知れないがその位の間隔が保てる広い店ではある。が、しかし。
数回行った時はいつもガラガラで4m位の距離が空いていたのを私は知っているのだ。
でもそこはさすが大阪人、いつものガラガラを他の店の倍以上の4mの間隔と言い換えて客を引くあたり、やっぱりタダでは転びませんなぁ。

街の灯り

2020-06-04 | Weblog
―街の灯りちらちらあれは何をささやく 愛が一つ芽生えそうな胸がはずむ時よ―
堺正章さんが歌ってヒットしたこの歌詞が印象的な「街の灯り」は、今から47年前の1973年の曲だ。作詞は希代のヒットメーカー阿久悠さんである。
テレワークが続き、夕方に自宅近くを散歩するのが日課になった。色々なコースを歩くが2か月以上毎日歩いていると必然的に同じコースを歩くこともある。同じコースには当然同じ家があるが、その中には全く人気がなく歩く度もう空き家なのかな、と思う家もある。ところが、今日は少し用事があって夜にその家の前を歩いたら部屋に明かりが灯っていて、外でも少しうるさいと思うくらいの大音量で音楽が流れていた。
いつの頃だったか、阿久さんのエッセイのようなもので「次は大股で歩く男を描きたいんだ」という言葉を目にした時、それまでなんてことは思わなかった阿久さんが急に偉大に見えたことを思い出す。阿久さんはどこでどのような灯りを見たんだろう。
私が見た灯りは、ちらちらでもなくささやくでもなく、愛が消えてしまいそうで胸が締め付けられるように感じたのだが。

少しくらい遅れても

2020-06-03 | Weblog
尊敬する司馬遼太郎さんの著書「二十一世紀に生きる君たちへ」の一文。

―鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にはやさしく、とも言った。 いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、“たのもしい君たち”になってゆくのである。―

小学6年生の教科書に書いた文章だそうだ。一般向け図書としては2003年月に発行されたとある。
“たのもしい君たち”とは小学生に向けてなんと的確で夢を含んだ言葉であろうか。私は親として「たのもしさ」ということを小学生の子供に話したことはなかったし、選択枝にもなかった。さすが司馬さんとしか言いようがない進言である。
コロナで、教育の遅れが心配されている。9月入学が検討されたりもしている。でも叫ばれている教育の遅れは教科の遅れであって、個人的にはそれはそう心配要らないように思う。
大切なのは人格形成の遅れだ。でもそれも心配ない。小学生から高校生まで全員にこの本を配るだけでいい。
17年経っても普遍であるこの言葉は数ヶ月の遅れ位すぐに取り戻してくれるだろう。


日常従事者

2020-06-02 | Weblog
コロナは少し落ち着いてはきたが、感染が広がってからというものこれまで、医療に従事されている方々のご苦労やご活躍は国民皆が知るところである。
ブルーライト、拍手、ブルーインパルス、花火、と、医療従事者へのエールは数多く、これによって勇気づけられた方々も数多いことだろう。が、私は敢えて言いたい。医療関係の方の影に隠れてそれ以外の方々が称えらえないのは違うんじゃないかと。
直接的には医療に従事されている方々がいなければこの危機は乗り越えられない。命を懸けて人を救う仕事を続けておられることは尊敬に値すると思う。しかし、だ。
存続の危機に立たされている数多くの業種の皆さん、毎日必死で子育てをしているお父さんお母さん、全ての労働者、学生、子供、乳飲み子たち。みんなみんな毎日コロナと闘っている。そしてこの人たちは皆なんらかの形で社会インフラを形成し支えている。ようするに日常に従事する人がいてこその社会である。この人たちがいなければ医療も当然成り立たない。本来はこの難局と闘っている皆が医療従事者と同じだけ称えれるべきだと思うのだ。
称え方は分からない。ほんの小さなブログの記事である。誰にも届かないかも知れない。でも正しい意見は必ず生きて姿を現すはずだ。それを信じて私は日常従事者にエールを送り続けたい。

アラスカのオオカミ

2020-06-01 | Weblog
大好きな写真家・作家の故星野道夫さんが著書「魔法のことば」の中でこうおっしゃっておられる。

「北極圏で油田開発が進んで、オオカミやカリブーの大群が消えてしまっても、たしかに実際の僕らの暮らしは基本的に何も変わらないかも知れない。でも、その中で確実に何か失っていくものがあると思うんです。それは、想像するということです。もしオオカミが本当にいなくなったら、オオカミを想像できなくなる。でも、そこにオオカミやカリブーがいれば、たとえ実際にそれを見ることができなくても、自分の意識、想像力の上での豊かさのようなものをもたらしてくれる。そういう意味で、遠い自然というのは近い自然と同じくらい人間にとって大切なのだと思います。油田開発か自然保護かという問題は本当にむずかしくて、自然保護と言うことは簡単だけれど、そこにはいろいろな問題があるのです。」



写真はこの本の挿絵の1枚である。こんなに優しい表情の熊を撮れる人は星野さんしかいないだろう。最後は熊に襲われて亡くなられたらしいが愛するアラスカの自然に倒れて本望だったに違いない。
会ったこともない星野さんを思うこと、友のいる徳之島を思うこと、愛する人たちを思うこと、自分自身を思うこと。想像とはなんと豊かであることか。
今、この瞬間にもアラスカでオオカミは吠えているに違いない。

※気が付くと同じようなことを最近も書いていた。忘れてばかりは怖いが星野さんの生き方や考え方によほど感銘を受けているのだと自分自身で思う。

おもてなし

2020-05-31 | Weblog
昨晩のNHKの達人達に出演していたダンサーの菅原小春さんが、
「インドでお世話になった家では、最初にまず掃除を覚えなさい、と言われた」(ちょっと記憶が曖昧だが)
と言っておられた。お客さんとして迎えるならお茶を出して迎えればいいが、家族に近い存在として迎えるなら普段自分たちがしていることをしてもらおうと思う、ということのようだ。
この話を聞いてストンと腑に落ちたことがある。
今年、私が徳之島に行った時のこと。数年ぶりに会った友は、「お前、車運転せえ」と私にキーを渡した。普通に考えれば長旅で空港に着いた人に運転せよはないが、助手席に乗せてくれるより、友が「相変わらず運転うまいのぉ」と運転が得意な私にかけた言葉が心に染みた。家に着いたら今度は車椅子の生活をしている親戚宅のベッドの移動。翌日は庭の木の枝切り。その全てがとにかく染みた。「単なる客」ではなく遠慮のない友であり家族に近い存在として扱ってくれていることが分かったからだ。
本当に大切な人をもてなしたいなら、相手に気を遣わせないことだ。それにはまずてなす方が下手な気遣いをせず、「いつもの自分の時間と空間に相手をいさせてあげる」ことが何よりなのだ。
先日の徳之島はわずか1日半程度しかいられなかったので道路にはみ出した植木を切ることができなかった。次に行ったら友はまた車を運転せえ、木を切るのを手伝ってくれと言うだろう。
友が大阪に来ることがあったら、私がいつもいく安くてうまい中華店に一緒に歩いて行こうと思う。ま、餃子の一人前くらいは奢ってやろうかな。