僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

まだワールドカップ目指すの?

2015-06-18 | Weblog
サッカーの話。
かなり前のこのブログで、日本がサッカーで世界の強豪国になるのは、諦めたほうがいいと書いた。※下記参照
それは、「勝つためには何でもしよう」「勝てなかったら殺されるかも知れない」というような強豪国の選手たちが持っている危機感を持てていないからだ。
危機感を持てないのは何故か。私はセルジオ越後さんのコメントが大好きだ。少し長くなるが引用してみよう。


『ロシア・ワールドカップのアジア二次予選が16日に行われ、日本代表とシンガポール代表が対戦。日本はホームで猛攻を仕掛けるも、相手堅守を崩せず、0-0のドローに終わった。
試合後、『サッカーキング』ではサッカー解説者のセルジオ越後さんに話をうかがい、振り返ってもらった。
「親善試合ではなく、しっかりと研究してきた相手には何もできない。裏のスペースを消した相手に対して、展開力もスキルもなかった。アジアカップのUAE戦と一緒で、同じ試合を見ているようだったよ。ハリルホジッチはすごいとみんな言っていたけど、過去の戦いとどこが変わったの? 相手監督には素晴らしいと言うべきじゃないかな」
「差があると言われた相手にしっかりと差をつけて勝つことができて、初めて強いチームと言えるんだよ。イラクより格下、なんて世間が言っていた相手に何もできない。本当に強いチームのエースなら1人で4点、5点は取っているような試合だよ」
「ハリルホジッチのやり方をみんなが絶賛していたけど、選手は怯えちゃっていたよね。日本人は厳しく追及された時にそれを跳ね返す文化がない。指示を受けている宇佐美の表情はこわばっていたしね。サッカーをエンジョイするという気持ちもなかった。それではサッカーに幅もできないよ」
「裏のスペースを消されて柴崎はパスが出せなくなった。本田も香川も良くなかった。酒井宏樹なんてひどかったよ? 海外組もスーパーじゃないし、スキルがこれしかないということ。長谷部は試合後『修正して次に…』といつもと同じことを言っていた。次の試合も出場できるものだと思っているのかな。危機感を感じないと」
「日本は6人の交代枠があれば世界でトップ5に入れるかもしれない。でも3人の交代枠だと崩せなくなる。狭いところで崩せないよね。(フットサル日本代表の)森岡薫がいたら3点は取れていたかもしれないよ。練習の時のミニゲームでやっているような狭いところでのパス回しを何でやらないの? やろうとしないからやれないんでしょ。しっかりと強化せず、このまま繰り返しているようでは、日本のサッカーは強くなるどころか弱体化していくよ」
「ハリルホジッチは縦への速さを求めて、選手も監督に言われたことを従順に繰り返した。裏に飛び出せないのに同じやり方をしたよね。打開策の交代も前線の数を増やすという今まで見てきたやり方と同じ。ピッチ上で選手たちが工夫しないと」
「サポーターは日本代表のユニフォームを着ると、みんなブーイングをしなくなる。今日だって少なすぎるよ。マスコミも海外なら、こんな試合をした翌日の新聞やテレビは大荒れだよ。ちゃんと批判するのか、明日が楽しみだね」』


全く同感である。特に「日本人は厳しく追求された時にそれを跳ね返す文化がない」というところは、ここを変えない以外は絶対に勝てっこないということを言っていて全くもって真贋である。このまま続けていれば弱体化していく。つまり日本の文化という日本人らしさを出そうとすればするほど弱くなっていくということだ。
個の力しかり、汚いプレーしかり、「一人じゃなにもできないから塊でなんとかしましょ」「負けても汚いプレーはしたくない」なんてな考えから脱却しない限り、世界で勝てるわけがない。

なぜ、これほどまでに鋭い指摘をするセルジオ越後さんが監督に推されないのか?
サッカー協会が無茶苦茶になるだろう。サッカー協会は、強くなることよりそっちを恐れている。
ね、やっぱりサッカーで強くなることなんて諦めたほうがいいでしょ。


※国家の顰蹙
2006-06-23 | Weblog
日本のワールドカップが終わった。というより、まだ始まりもしてなかったと言うほうが正しいと思えるほど、力の差は歴然としていたように俺は思う。
でも、でもよ、そもそもサッカーが弱いからってそれがどうしてん、という話のような気がするのよ。
ブラジルの選手のような優れたサッカーのDNAはその国の長い歴史の中で生まれ備わるものやし、欧州の選手達のレベルも世界のトップリーグで何十年と揉まれてきた歴史が作りあげたもの。それに比べ日本では、Jリーグが始まってまだ数年、J2を含めるとJリーグ入りしたほとんどの選手がレギュラーを獲得し(個人調べ)、今だに天皇杯(やったっけ?正月にするやつ)では、たまに大学生に負けたり、高校生とさえ、ええ勝負をしてるようなレベルやのに、一応はプロと名乗る。こんなんで、いくら試合を強くなれる訳がない。また、もっと基本的なことでは、子供の運動会で順位をつけないという競争意識を奪うような教育。

これほど恵まれない環境で無理して強くなる必要があるのか、と思うわけよ。これは何もサッカーに限ったことじゃなく。
競争心や勝ち負けは大切やと思う。でもなんでそんなかないっこないフィールドで勝負する必要があるのかな?誰も勝負なんか仕掛けてこない日本にしかできんものをひたすらやり続けるほうがええんとちゃうん?

日本人にしかできへんこといっぱいあるで。
お茶、お花、わびさびの心、芸者遊び、賄賂、過労死、アニータの豪邸建築、金魚の糞状態、猿真似・・・これらは、敏感にして繊細な感性がなし得るワザであって、他国の人には絶対真似できへん。顰蹙だって文化的にみればある意味誇りや。

そういうことをひたすら続け・・・と、今書いてて、なんかどっかで聞いたことある話やな、と思ったら藤原正彦さんの「国家の品格」に似たようなことが書いてあった。
ほーら、やっぱり日本人には自然と猿真似ができるという素晴らしい能力があるやん。

せめぎ合い

2015-06-17 | Weblog
年齢を重ねると共に、若い頃にはなかった新しい感情が自分に芽生えていることに気付く。

若い頃は、男は少々辛いことがあっても、ツッパリ、やせ我慢をし、何ともないさという顔をして平然としていなければいけないと思っていた。でも57歳になるとそれが分かっていても出来ない。人を限定はするが、弱くて汚くて卑怯で…という、自分のありのままを見せてしまうこともある。
そんな男は一番嫌いだったのに。絶対にそんな男にはならないと誓っていたのに。「そんな歳なんだから、仕方がないのかも」なんて免罪符を勝手に作ったりもしている。

最も大切にしている男友達とは、お互いの背中を見て切磋琢磨し、お互いに信頼を得てきた。なのに、今は「今ここにお前がいてくれたらなぁ」、なんてことを平気で言えるようになった。

どんなことがあってもお腹が減り、眠れる私は、友達が生死の境をさまよっている病院の待合室でおにぎりを食べ、グウグウと寝ていた。そんな自分が今はほんの小さな悩み事に眠れない日も多い。

人に支えられるとはどういうことなのか、人を支えるとはどういうことなのか、が、分かり始めた。
人を愛するとはどういうことかが分かり始めた。
生きるとは、死ぬとはどういうことなのか、が、おぼろげながら見えてきた。

人生は積み重なっている。記憶にはなくとも、過去のことは自分の土台として必ず残っている。だから、新しく芽生えた感情が、過去と違う場合は、それらがせめぎ合う。
「そうやないやろ」「いやいやそうやもんしゃあない」と両肩に乗っかった小さな自分たちが戦っている。

だめな自分でもいい。せめて、両肩の自分が戦う場と時間位はなんとか与えてやりたい、と思う今日この頃である。